謙信の城? ~越中樫ノ木城~ | えいきの修学旅行(令和編)

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 謙信の城って、有るようで無い。
 
 入河沢城絡みで吉江喜四郎の文献を調べていたら、面白い史料に出くわした。
 謙信旗本の村田秀頼が、奏者として謙信の側近にある吉江喜四郎に宛てた書状に、御要害之御普請という文言がでてくる。
 
 七月一四日(元亀四年と推定)吉江喜四郎資堅宛村田秀頼書状(上越市史別編1162)
 
     一、おうかひき、御要害之御普請ニ入申候、土肥四郎方・豊前守方知行分ニ候間、山とり壱人おうか比企壱両人被仰付可然候、恐々謹言、
 
  要害普請に必要な職人が、給人(土肥と河田)知行地に存在し、その挑発が村田の権限では行えないため、村田は信景を介して職人挑発の命令を謙信に要請した(1)。
 
 村田は、この書状の三ヶ月後の天正元年(1573)10月19日、謙信より越中太田上郷の料所代官を命じられている。
 
      今度改而、太田之上郷吾分ニ為料所申付候、(後略)(上越市史別編1176)
 
 同日、河田長親に大田下郷の料所取扱いを命じている。(上越市史別編1175)
 
 太田保の上郷・下郷は、もともと室町幕府体制では細川家領であり、椎名被官神前筑前の預かり地となっていたものを、謙信が自領化し、料所(直轄地)としたもの(2)で、料所の扱いを側近で越中在陣衆のリーダー的な地位にあった河田長親と、旗本・村田秀頼に命じたわけである。
 
 村田は、太田保に近接する樫ノ木城の城将と伝わり、村田が吉江に伺った御要害之御普請は、越中樫ノ木城の普請のことではないだろうか(いやこれは新庄・山室両地の事か)。
 
 すると、越中樫ノ木城は、謙信の城(謙信直轄の城)ということになる。
 
              樫ノ木城の位置(googlemapに加筆)
イメージ 1
 樫ノ木城は、太田保の平野部と丘陵部を境する熊野川に臨む断崖上に、前衛的に津毛城を置き、その背後、眼下眼前に太田保を睥睨する山上に築かれている。
 飛騨勢を抑える位置にもある。
 上杉にとっていかに重要な城であったか推し量れるであろう。
 
 
 

  註
 (1)栗原修(1996)「上杉氏の領国支配と奏者ー吉江喜四郎信景の態様を通して」,駒澤大学史学論集第26号,pp65-6
  (2)久保尚文(2012)「河田長親と織田信長」,魚津市史編纂委員会編集『図説 魚津の歴史』,魚津印刷株式会社,pp.77-8

 

 普請された御要害は、今泉城かな(新庄・山室両地の事か)、とも思ったが、時期・情勢から、私は樫ノ木城を推した。
 
   樫ノ木城は2014年1月に書いた記事があります。
 さいきん、古い記事は書き改めたいことしきりです。2014当時の能力ですが、ご覧ください。