福井城
福井城は、上信国境の万座峠・毛無峠の信濃側山脈下、柞澤川と樋沢川に挟まれた福井原台地上に築かれている。
この城は、3年前(2014.5)、約200mの至近にまで迫るも落馬、鎖骨を折るというアクシデントに見舞われた、私にとっては忘れることのできない痛い城である。2か月後には執念で踏査・撮影したのだが、ブログ記事作成には至らなかった。先日、毛無峠を撮影し得たので、踏査3年を経て、ようやくブログに書こうと決心した。
宮坂武男(2014)『信濃の山城と館8』,p257によると、永禄5年上州吾妻渓谷の羽尾氏が鎌原氏に襲われて万座道伝いに高井野に逃れた事件を引き合いに、戦国期に万座峠、毛無峠を通じて上州との往来が多かったことを紹介している。
現代の群馬県と繋がる県道112号線に、福井城は近接する。
構造概要
46×43mの方形主郭を核に、西に2・3と二郭並べ、さらに南西に長大な堀で郭4を囲い込んでスペースを確保している。
城歴は、高山村教育委員会設置説明板を要約すると、天文年間、須田氏幕下牧伊賀守が居たとし、永禄二年二月、武田の侵攻により須田と共に越後に走り、廃城となったとしている。
しかし、南西に広いスペースは、須田被官の分限では不要であろう。また、堀は箱掘の箇所もあり、永禄2年以前とも考えにくい。
宮坂先生は「この城跡を見て思うことは、在地土豪層の館城としては大きいことと、上州地方の城によく似た構成をしていることである。前期上州での総攬した時期にその影響を受けて強化されたのではなかろうか。」としているが、私は、囲い込み構造は、天正10年6月以降北信に進出、上州への進出をも志向した越後上杉景勝の軍勢の駐屯スペースとして設けらたものと考える。
現在残る福井城は、秋山伊賀の館城が、天正10年以降にこの地に進出した景勝の軍勢によって、箱掘や囲い込み構造を付加され改修された姿なのではないだろうか。
主郭(郭1)
主郭西隅付近
堀底に土橋状の接続がある。
土橋
主郭南西堀
南隅
南隅は櫓台状に高い
南東堀底は箱底
宮坂先生は、東堀外に虎口構造を想わせる構造を記述している
しかし、なにものかの気配を強く感じ、しっかりと確認する勇気がなかった。
主郭内
耕作用途か城館用途かはからないが、段差で区画されている。
主郭内は勇気を振り絞り、鈴を振りまくり、踏み歩いた。
北東部段差
石積で段差を設け区画している。
石積
接近
北東隅
囲郭する堀は北東下方で竪堀を延ばす
北東下方に水源
郭2
南西から掘痕越しに郭2
郭2内は踏込む勇気がなかった。
北東側道路
右上が郭2・1
左下方
北東堀線下にテラス状の一段あり。
道路が主郭ー郭2間の堀北東下端に接する
主郭ー郭2間の堀北東下端
北東から主郭ー郭2間の堀
左が主郭、右が郭2。
中ほど
主郭側が低い。
郭3
郭3南隅
郭2南東堀
北東端は郭3北面堀と郭2北東堀が折れ合流し竪堀状に降る
下方から
郭3北東面の堀
前面に土塁を備える。
横堀陣地構造か。
折れ、竪堀となる郭2北東面の堀
こちらも前面に土塁を備える。
横堀陣地構造か。
郭4・アクセス・毛無峠
福井集落に接する獣除け柵の外に福井城
柵外すぐに郭3・2・4の隅で、郭3南隅に説明板が立つ。
しかし、城域は柵の外であり、考えようによっては野生動物の檻に入るようなものでもある。その注意と装備は忘れずに訪れて下さい。
車がここまで来れるため、山登りは不要。車両の整備に問題がなければ安全に到達できます。
郭3南隅に高山村教育委員会設置の説明板
高山村教育委員会設置福井城址説明板
林道の右(南)側に郭4
道路わき、郭4
踏み込む。
長い堀に囲われた区画
国人被官には分不相応な兵数を収容することができる。
景勝派遣軍の駐屯地か。
囲い込む長い堀
堀底
毛無峠へ向かう途上から福井原
毛無峠
けっこうビビり。
わが愛馬
参考文献 宮坂武男(2014)『信濃の山城と館8』,戎光祥出版,pp256-7