綿内要害(春山城)
タイトル(城名)は春山城であるが、弘治二年(1556)7月19日今清水氏宛高梨政頼感状に「綿内要害落城の砌、最前に入馬し相戦之由、粉骨比類なし」『今清水文書』とあるため、綿内要害の名で記述する。
綿内要害の城主は井上左衛門尉昌満で、6月に武田に帰属し領内で350貫文を隠居料として宛がわれているため(1)、上記の戦闘は、長尾方高梨勢今清水氏が、武田方井上左衛門尉昌満が籠る綿内要害を落城させたものと考える。
宮坂先生は井上左衛門尉が武田方に属し(『綿内文書』)、上杉方へは井上兵庫頭昌満(『謙信公御代御書集』)がついて分裂したようであるとしている(2)。
南東の山峡高所は、謙信の陣屋敷跡と伝わる。
謙信がそこに陣を張り、綿内要害を中継の狼煙台に使って、大峰城、葛山城の自軍を指揮、第四回川中島合戦には、此処を発って妻女山に陣を構えたと伝わる(3)。
上杉謙信陣屋敷跡
説明板
陣屋敷跡前から眺望
謙信陣屋敷跡近くの謙信道
しかし、謙信道・陣屋敷伝承は、永禄4年の川中島合戦時のことだろうか。
謙信道3でも書いたが、千曲川右岸の大岩城・月生城・灰野峠周辺ならびにこの綿内要害周辺は、永禄4年時は武田勢力下である。政虎率いる越軍は、8月29日以降に春日山を発って、9月10日に八幡原で武田勢と合戦に及んでいる。その間に越軍が上記右岸の諸城の攻城戦を行った記録はなく、またその時間もないのではないか。私は永禄4年の越軍は、千曲川左岸を進軍したと考えている。弘治3年の第三回川中島合戦では、景虎率いる越軍は、千曲川右岸の謙信道を通りこの綿内要害に近い千曲川右岸福島城・山田城を攻略しているのである(上越市史別編145)。
地理院地図に作関係諸城・地を黒ポイントし明示、犀川・千曲川の現流路を太青で強調
私は一連の千曲川右岸の謙信道伝承は、第三回川中島合戦におけるものと考えている。
上野原合戦地として月生城麓が高山村・須坂市でこっそり提唱されている。
さて、城
東から全景
大城は標高634(295)m、小城は662(320)m、蓮台寺は455(113)m。
括弧内は比高。
蓮台寺仁王門
仁王門の先に参道、上に綿内要害
参道脇は門前町の雰囲気。
仁王門駐車場設置説明板によると、お寺の開基は天平9年(733)頃、越智泰澄の開基とされ、綿内要害が築かれている山上部も山岳信仰施設として寺院と一体化したものであったと考える。
4月偵察時、あそこへ登るのかぁ…と、ややビビり気味でしたが、トレッキングコースが整備され、6月登山時はさほどきつくはありませんでした。
蓮台寺参道
ヒット。
蓮台寺まで車道があり、写真左がトレッキングコース入口
駐車は確認ください。仁王門に駐車場あり。
蓮台寺から26分で大城主郭北の堀イに到達
では、要害の様子をダイジェスト
大城構造概略
(4月撮影)
郭・堀名は宮坂武男(2013)『信濃の山城と館2』に準拠し、大まかな位置に書き込んだ。
小城
堀イ主郭北隅部大岩
堀イ西端
うぃ
大岩に信仰を感じる。
主郭北堀イ上櫓台
南土塁上から大城主郭
堀キと郭5
郭5から堀ク大岩
綿内要害は、山岳信仰聖地を中世に要害としたものであろう。
大城ー小城間の岩尾根
小城ダルマ岩
小城郭6
眺望:弘治元年第二次川中島合戦の舞台
旭山城と葛山城とで対峙する甲越両軍をどう見たか。
綿内要害の主は、武田優位と観たのろう。
弘治二年には武田方に付いている。武田についた綿内要害は、越後方今清水勢に攻め落とされるが、武田勢は弘治三年には葛山城を落とす。
ズーム
井上左衛門尉は、葛山落城と越後方についた落合氏の滅亡を目視し、武田についた選択を信憑したであろう。
そして永禄四年の川中島合戦へと移っていく
要害本編は23日公開予定。
お楽しみに。
註
(1)柴辻俊六(2013)『戦国期武田氏領の地域支配』、岩田書院、p.29
(2)宮坂武男(2013)『信濃の山城と館2』、戎光祥出版、p.184
(3)現地設置説明板