高柳城2 | えいきの修学旅行(令和編)

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高柳城主郭
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2では、城内主要部を辿ります
東面は急傾を頼み、北・西・南には郭を三周(主郭を一周目とした)に配している。
 主郭までのルートは、1で辿った大手虎口から、周回された郭を、食い違うように設けられた虎口を経つつ、主郭南に出て設けられた枡形に至りる。最後の外枡形では、直角に折れて主郭に入る。
 主郭北には内枡形に堀込まれた虎口が設けらている。
 
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主郭内(南虎口入った地点より撮影)
北東に土塁。
北に内枡形に掘りこまれた虎口。
 
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北東土塁
 
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側面から

土塁外は急傾斜なのにどういう機能か。

 
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内枡形に掘りこまれた北虎
 
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北虎口下(二周目)の郭北部
注:主郭を一周目とした。
 
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二周目郭の西部
二周目は南まで周り、南は土塁・段差で二段に構えられている(後掲)。
虎口(5月緑の写真)、三周目は1で辿った。
 
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北虎口から主郭
 
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主郭から西を監視
 
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南虎口外
外枡形で直角に折れる導線。
 二周目南部は土塁と段差で上下二段、上段は土塁あるいは段差で南・南西隅・北の三区画に分かれる。
南部を上下に区切る土塁は、凹みが二か所、切口が2ヶ所ある。左方(東)の二か所の凹みの機能は自信はないが、狭間(射撃口)のような運用であろうか。右の二か所の切口は出入口と考える。
 虎口と書き込んだ構造は、二周目南部下段と三周目を繋ぐ虎口(後掲)。
 
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やや斜から
この角度からだと、枡形が出張る構造と、右方の切口、虎口がわかり易い。
 
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出ます
 
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冒頭の写真に戻る
 ここだけ外枡というのは、防御力を高めるという意図ではなく、大手筋に関する別の機能があるのではないだろうか。主郭が高貴な者の陣所で、その格に付随するような機能ではないか。
 右、二周目南部を二段に区切る土塁。
 
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五月の土塁外枡形

 

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やはり5月より12月が良い
 
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二周目南部下段を東から
右土塁と段差で、上段と区切られている。切口は出入口と考える。
左、三周目郭と接続する虎口が堀込まれている。
 
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二周目南部上段から、区切り土塁越しに三周目との接続虎口

内枡形に掘りこまれている。

内側右(北西)に四角の区画有。
内郭の虎口にあたると考える。
 
では、外周(外郭)虎口である大手虎口から、この内郭虎口まで辿ります。
 

 
   
大手虎口から三周目郭を東に進み、この虎口へと辿ります。
写真2枚、1の再掲。
 
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大手虎口前
1参照ください。
 
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大手虎口
 
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入ると二周目(内郭)壁が立ちはだかり、直進できず、右折れ(左折れは1で掲載)。
 
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大手虎口入って右(南東)
二周目(内郭)監視下を南東に進む。
南西横堀側(右)に塁は線土塁を備える。
 
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塁線土塁が折れ、三周目南東部は低く区画される。
ルートは、その手前で左折れ、登路で内郭虎口へと至る。
 
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土塁下に低い区画
(三周目南東部)
低くはなるが、塁線土塁備えたままである。
 下方に、塁線土塁を備える南西横堀と、南尾根遮断堀切・掘り下げの二重塁線、いやこの三周目郭も塁線土塁を備えるので、三重塁線防御ラインを構成している。さらに、南西横堀塁線下斜面には畝状空堀群が施設されているわけで、奇異である。
 
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左折れ、坂を登り、掘り込まれた内郭虎口へと至る。
 

 
容量があるので記事中で使えなかった写真をもう一枚
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大手土橋下の竪堀上部釣り針状屈曲部したから撮影

 


 
   加茂市史によると、中蒲原郡市では
 
     天文11年(1542)長尾俊景の臣北川大学此を占拠し、以て下越後の交通を建ち絶ちしが、上杉謙信の臣野守主馬等に攻落され、其後森岡五郎左エ門の居城となる。然るに其子監物(初めて高柳氏を称す)の時、宰臣園生某、甲斐の武田氏に款を通じ、事露れて春日山に鳩首せられる。監物はあずかり知らざりしも、不念の罪に依り邑を奪われ、家名断絶せりという。
 
 としています。
 
 畝状空堀群は、中越地方では、永正年間に出現とする説もあるが、今、高柳城にみる整然とした畝状空堀群は、永禄後期(同11年本庄繁長反抗の前後)以降の構築と考える。子監物断罪はその頃であろうか。また、掘り込まれた内枡形も、私は天文年間にはないと考える。
 横堀は天正6年、塁線構造の出現は天正10年の前後する時期と考えている。
 外枡形は越中富崎城、荒戸城、加護山要害、薬師山城を記憶しており(形状類似は加護山)、やや下る天正12~14年頃と考えている。
 
 塁線土塁を備えた横堀射撃陣地は、新発田重家が籠り抗戦した浦城でも機能している。
 重家討死は天正15年10月である。
 
 横堀塁線下斜面に畝状空堀群が敷設された構造は、私の蓄積になく、奇異に感じた。
 緩斜面を畝状空堀群で潰し、移動を制限、上方郭から迎撃する戦術は、横堀陣地から斜面下に射撃する戦術へと進化した考えていたからである。
 横堀と畝状空堀群の併存は、永禄後期に畝状空堀群を敷設し、天正中期以降に横堀陣地を増築したのであろうか。
 また、横堀陣地は、後背上段に土塁を伴わない陣地を備えた二段の防御施設と捉えることがきるケースが多く、その点でも奇異に感じた。高柳城の築城(改修)者は、塁線防御意識が強いということか。
 
周辺図(地理院地図に作図)
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 高柳城は、蘆名との境、雷城の後方に位置する。雷城は、度々蘆名による攻撃に晒され、落城の憂き目にあったこともある。高柳城の周辺にも永禄、天正の御館の乱と、蘆名の侵入が危惧されたことであろう。在地領主にとっても危機と隣り合わせの環境にあり、在地小領主による取り立ても考えられる。
 しかし、高柳城には、時代の新鋭の普請技術が施されている。高柳城は、上杉政権によっても、戦国期を通して蘆名の越後侵入に備えて重視され、度々改修を受けたと考えることはできないだろうか。
 
 私は、今に見る高柳城の城郭構造は、新発田重家が蘆名と組んで景勝に反抗した天正9年以降15年までの間の時期に、景勝政権によって強化された姿と考えている。
 
 以上、わからないことはわからないままにしておくのがいいのだが、今の私の蓄積で愚考してみた。
  

 

 
登り口
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 上高柳集落の民家脇に登山道がありますが、ここまでの誘導はありません。上高柳のバス停を目指して、バス停を東に折れ、山裾を注意深く見ながら民家脇の標柱をさがしてください。http://yahoo.jp/y9kdz7
 標柱には、ここから主郭まで20分と書かれています。
 私の足で、途中で御殿清水に寄り、竪堀下まで12分、大手土橋まで15分。
 
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殿清水
 
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天文年間の城主とされる北川大学の祈願所と伝わる高運山妙法院本都寺
 
 参考文献 加茂市史