城歴は、「池田城と樫ノ木城」https://ameblo.jp/mei881246/entry-12496891096.html
からご覧下さい。
樫ノ木城遠景
![イメージ 2](https://stat.ameba.jp/user_images/20190722/23/mei881246/3b/24/j/o0314020914510065790.jpg?caw=800)
樫ノ木バス停
車止めるスペースあり。
ここを直進、登る車道を行きます。
![イメージ 3](https://stat.ameba.jp/user_images/20190722/23/mei881246/8d/c2/j/o0314020914510065794.jpg?caw=800)
樫ノ木集落の廃屋数軒と、車道左にお墓を通り過ぎて、右に石積列のある地点のすぐ先の右側空き地の奥が登り口です。(バス停からバイクで2分くらい)
私は廃屋背後から取りつき、急登、かなり難渋しながらなんとか山道に出くわし、到達できましたが、ここから取りつけば、取りつき口のみやや困難ですが、あとはしっかり山道が残っており、到達できるでしょう。ただし、時期によっては藪化の可能性あり。
![イメージ 4](https://stat.ameba.jp/user_images/20190722/23/mei881246/51/a2/j/o0314020914510065798.jpg?caw=800)
車道右側 石列
これが目印
![イメージ 12](https://stat.ameba.jp/user_images/20190722/23/mei881246/13/5c/j/o0314020914510065808.jpg?caw=800)
この空き地の奥の崖を登ると、山道(このあたりは明瞭ではありませんが)が通っています。
![イメージ 5](https://stat.ameba.jp/user_images/20190722/23/mei881246/3f/15/j/o0314020914510065813.jpg?caw=800)
登り口
ここはやや困難です。
![イメージ 6](https://stat.ameba.jp/user_images/20190722/23/mei881246/23/8d/j/o0314020914510065823.jpg?caw=800)
とりついた山道
このあたりは明瞭ではありませんが、山道、わかると思います。
左には沢がありますので、音聞きながら沢に降りないように登れば大丈夫でしょう。
![イメージ 7](https://stat.ameba.jp/user_images/20190722/23/mei881246/51/ba/j/o0314020914510065826.jpg?caw=800)
山道、明瞭になります。
樫ノ木集落からの大手道でしょう。
![イメージ 8](https://stat.ameba.jp/user_images/20190722/23/mei881246/ee/d2/j/o0314020914510065831.jpg?caw=800)
進むと、左にがばっと、右斜面には二条の竪堀が掘られ、大手の関門が構えられています。
関門抜けると城域大手虎口
![イメージ 9](https://stat.ameba.jp/user_images/20190722/23/mei881246/3c/35/j/o0314020914510065835.jpg?caw=800)
道の左、がばっと掘られた竪堀
![イメージ 10](https://stat.ameba.jp/user_images/20190722/23/mei881246/c3/8f/j/o0314020914510065840.jpg?caw=800)
道の右、二条の竪堀が掘られている斜面
![イメージ 11](https://stat.ameba.jp/user_images/20190722/23/mei881246/bf/ec/j/o0314020914510065844.jpg?caw=800)
関門通り過ぎて、二条の竪堀直上から
![イメージ 13](https://stat.ameba.jp/user_images/20190722/23/mei881246/54/f4/j/o0314020914510065852.jpg?caw=800)
抜けると城域大手虎口
右 土塁が道を狙っている。
![イメージ 14](https://stat.ameba.jp/user_images/20190722/23/mei881246/2d/5c/j/o0314020914510065858.jpg?caw=800)
城域大手虎口
右に上の写真の土塁。虎口に至る道を狙っている。
竹1をキーに観てください。
竹といっても竹さんではありません。山に生えている竹です。
竹1がちょうど虎口中央付近前になります。
竹2での奥で切岸にあたり右に折れ城内に入る構造になっています。
![イメージ 16](https://stat.ameba.jp/user_images/20190722/23/mei881246/05/c9/j/o0314020914510065866.jpg?caw=800)
竹2奥、切岸にあたり、右に折れ城内に入る。
![イメージ 15](https://stat.ameba.jp/user_images/20190722/23/mei881246/15/0e/j/o0314020914510065871.jpg?caw=800)
城内、北東部
では、縄張図
![イメージ 30](https://stat.ameba.jp/user_images/20190722/23/mei881246/2e/81/j/o0252034014510065875.jpg?caw=800)
高岡徹 大山町歴史民俗資料館講座「大山地域周辺の中世城館と戦国史」の解説より引用、北を上にブログ説明用に加筆。(加筆部分着色)
右、大手関門、大手虎口を抜けて広大な削平地に入りました。北面は崖、南は要害、尾根筋は東は関門・虎口を設け大手とし、北西は上杉の畝状空堀群で遮断、その上部に六郭を配し、守りを固めています。
広大な削平地は、昭和まで耕作地として利用されていたので、遺構としては不明だが、城地として利用された削平地であることは間違いないと思うので、在城衆の屋敷地、駐屯地であったであったと思います。
横堀線より南を要害部として区分けし、普請、利用したものでしょう。
山腹に広大な平地、横堀で区画した山上要害という構図は、頚城郡内箕冠城に類似しています。
![イメージ 17](https://stat.ameba.jp/user_images/20190722/23/mei881246/4b/80/j/o0314020914510065878.jpg?caw=800)
削平地北東部
![イメージ 18](https://stat.ameba.jp/user_images/20190722/23/mei881246/b2/d2/j/o0314020914510065883.jpg?caw=800)
その南
![イメージ 19](https://stat.ameba.jp/user_images/20190722/23/mei881246/13/99/j/o0314020914510065887.jpg?caw=800)
北部
![イメージ 20](https://stat.ameba.jp/user_images/20190722/23/mei881246/8c/e7/j/o0314020914510065892.jpg?caw=800)
北端は崖
佐伯哲也『越中中世城郭図面集Ⅰ』では、下に清水と記載がある。
![イメージ 21](https://stat.ameba.jp/user_images/20190722/23/mei881246/7c/8d/j/o0314020914510065900.jpg?caw=800)
崖下ズーム
清水であろうか。
![イメージ 22](https://stat.ameba.jp/user_images/20190722/23/mei881246/19/24/j/o0314020914510065910.jpg?caw=800)
北西端六郭(佐伯 E郭)
北西尾根筋上に配され、北西尾根筋を伝う敵に備えている。六郭下、北西尾根は、上杉の畝状空堀群で遮断されている。また、六郭両端には、上の郭との接続用の土塁を設置している。
樫ノ木城は、端の土塁伝いルートを用いている。池田城と違い、土塁伝いルート、実城部では桝形虎口で郭と郭の接続が成されている。
![イメージ 23](https://stat.ameba.jp/user_images/20190722/23/mei881246/5f/df/j/o0314020914510065917.jpg?caw=800)
まず、北西尾根を遮断する畝状空堀群を見てきましょう。
写真は六郭下北西尾根
![イメージ 24](https://stat.ameba.jp/user_images/20190722/23/mei881246/cc/76/j/o0448029914510065923.jpg?caw=800)
上杉の畝状空堀群
![イメージ 25](https://stat.ameba.jp/user_images/20190722/23/mei881246/e1/20/j/o0448029914510065927.jpg?caw=800)
往時、どれほど削ぎ立っていたことであろうか。
![イメージ 31](https://stat.ameba.jp/user_images/20190722/23/mei881246/97/64/j/o0448029914510065934.jpg?caw=800)
二本はまとまり、際を抉る。
![イメージ 26](https://stat.ameba.jp/user_images/20190722/23/mei881246/60/ca/j/o0448029914510065943.jpg?caw=800)
北西に降る
この畝状空堀の施設は、湯山城野崎屋敷南西部と類似する。
![イメージ 27](https://stat.ameba.jp/user_images/20190722/23/mei881246/55/a3/j/o0448029914510065951.jpg?caw=800)
湯山城野崎屋敷南西下
樫ノ木城在城衆が、能登七尾城めざして能越境に進み、湯山城に進駐、改修した可能性があるのではないだろうか。上杉の湯山城在城時期は、天正四年九月以降の攻略(上越市史別編1307・1309)から、天正七年の撤退までと比定できる。その間、天正五年七尾城攻略、六年謙信死去という変転がある。
六郭に戻ります。
![イメージ 28](https://stat.ameba.jp/user_images/20190722/23/mei881246/5a/27/j/o0314020914510065957.jpg?caw=800)
六郭南、城内側は切岸で登れない。
両端の土橋伝いに上の郭と接続していた。
![イメージ 29](https://stat.ameba.jp/user_images/20190722/23/mei881246/04/18/j/o0314020914510065966.jpg?caw=800)
六郭西端土塁
土塁伝いに上の郭と接続している。
その2では、山上の要害部を辿ります。
上杉の近代的普請、切岸線前の横堀と、主要部への登路の低地と高地に枡形を設け、高低差を利用して階層的に構える普請をみることができます。
参考文献 高岡徹 大山町歴史民俗資料館講座「大山地域周辺の中世城館と戦国史」の解説
佐伯哲也『越中中世城郭図面集Ⅰ』
氷見市教育委員会『氷見の山城』
上越市史別編