麻生野城(洞の城)
江馬氏の一族麻生野氏の城と伝わる。
この城、郭の出入口に枡形を掘り込んで造作している。
2012、2019年と江馬の城を数々歩いたが、江馬の城は郭の出入口の造作は未発達な印象を受けた。しかし、この城は明確に枡形遺構が現存している。武田の影響であろうか。
不思議…。
江馬氏に関して2012年に書いた「戦国期の北飛騨江馬氏」から、麻生野に関する記述を以下に抜き出しました。
永禄2年、7年、武田の先鋒飯富三郎兵衛昌景が信飛境安房峠から飛騨を圧迫、永禄2年は誓紙人質取替し和談、10月11日江馬一族の麻生野慶盛が甲府へ御礼に行っている。永禄7年、時盛は次男善立(円城寺で僧籍にあった)を還俗させて人質として甲府へ差し出し、武田の軍門に降った。善立は右馬允信盛と名乗り武田の旗本となった。信盛は天正9年遠江高天神で討死している。
時盛は、家督を嫡子輝盛ではなく、次男信盛に継がせようとする。信盛は永禄7年に武田に人質として差しだし信玄近習として仕えている。が、信盛は輝盛の性格を恐れ固辞したため、分家麻生野直盛の子浅之進慶盛に継がせようとする。麻生野直盛は永禄2年武田との和談の際、時盛の名代として甲斐に赴き、信玄より百貫文の知行を宛がう墨付を拝領している。麻生野氏は時盛と共に武田よりの家であった。
2012記事(懐かしい…)。
戦国期の北飛騨江馬氏1https://ameblo.jp/mei881246/entry-12496885953.html
戦国期の北飛騨江馬氏2https://ameblo.jp/mei881246/entry-12496885965.html
戦国期の北飛騨江馬氏3https://ameblo.jp/mei881246/entry-12496886005.html
麻生野城主郭1
記事中の郭・堀名は、宮坂武男(2015)『信濃をめぐる境目の山城と館 美濃・飛騨・三河・遠江編』、戎光祥出版に準拠し、同書を参考に記述する。
前後(西東)を堀ア、イで遮断し、アの先に郭2を置く。堀イに面した東端と東南部に土塁を盛る。
南に枡形を掘り込んだ出入口を設け、竪土塁を土橋として導線とし、帯郭から堀ア東部を架橋したか。
また北にも帯状の通路があり、堀ア北掘下げ付け根を通り郭2に至る導線が残る(後世造作か)。
上写真の撮影地後背
壁下に堀ア、郭2(後掲)
両側(左は麻生野川、右は沢)急壁で要害
郭2から主郭壁
主郭の中ほど、石の集積は神社の基壇か
主郭東面と東南部土塁
東面土塁下は堀イ。
東南部土塁西端に枡形出入口。
後背を守る堀イ
うぃ
南東掘下げは城外側(東)に土塁が沿う。
南東掘下げ
北西掘下げは両側に土塁が沿う。
北西掘り下げ
東土塁上から主郭
南に枡形に掘り込まれた出入口
江馬では特異な構造。
西から
不思議な想い。
石があり、石を用いた造作があったかもしれない。
桝形下方
竪土塁を土橋として伝ったようだ。
折れ造作は見られない。
下方から
竪土塁から枡形への導線
南斜面エリアからは帯郭から堀ア南掘下げ竪堀部から架橋、あるいは土橋まで揚がり接続か。
帯郭から堀ア南竪堀部
堀ア上方
北斜面の帯状通路
堀ア竪北掘下げ部付け根に降りる。
堀アを土橋で郭2に接続
郭2
左右(南北)急壁、尾根筋脇に掘り込まれた出入口。
南 麻生野川側急壁
北 沢側急壁
西尾根筋縁北脇に堀込出入口
出入口外導線
導線から郭2出入口
当たって折れている(なめらかなカーブという形容が妥当か)が、張出様基部は強固にはみえず、櫓がのる構造ではあるまい。
出入口接近
堀込
主郭も、ここも、出入口は明瞭で、江馬では異様である。
尾根筋下方
ここを登ってくる。
尾根筋から郭2西辺縁
出入口への導線は岩の左、木の陰。
標注は江馬氏城館跡洞城跡。
ここから郭2出入口まで私の足で7分。
参考文献 宮坂武男(2015)『信濃をめぐる境目の山城と館 美濃・飛騨・三河・遠江編』、戎光祥出版、p.391































































































































































































































































































