えいきの修学旅行(令和編)

えいきの修学旅行(令和編)

えいきの修学旅行を綴ったブログです(ヤフーブログから移設しました)。

 研究員の特典?で、先週から月曜火曜は京都(佛教大学)で授業を4科目受けさせていただいている。火曜1限の大学院の授業は少人数のゼミで、頸城村で喪失した居場所がそこにあった感に涙が出そうになった(出た)。   

 学部の科目は単位としては修得済みの文献と考古の基礎的な科目なのだが、私の場合学芸員課程、学部、大学院修士課程とずっと通信課程だったので、どうしても独学我流であるところが潜んでいる。どこが我流なのか知り修正することと、毎週教授に会えるってことにも意義を感じている。授業はいずれも通学の大学院と学部なので学生が若い若い。私のおっさん風味が滲み出てしまうようで、すれ違う学生達にいちいち会釈される。

 先週は新幹線+サンダーバードできたが、今週は魚津の埋没林博物館と若狭の城に寄りたくてバイクで上洛。埋没林博物館は10月まで松倉金山の展示をやっており、今日上洛途上に立ち寄ってきた。水曜北陸の天気もつようなら若狭の城一カ所ひっかけて帰ろうと思っている。雨なら明日1740授業終了後、夜間ツーリングで帰越する。交通費はバイクが一番安いが50を過ぎた身には疲れる…。

 今までのような収入もなくなった(少しある・後日書きます)ので交通費、宿泊費、調査研究費いずれも節約を気にかけながらシビアに大切に行動している。

 4科目の選択がすべて当りで、半年間充実の京都になりそうだ。

 今日9月20日から佛教大学で研究員ということになる。

 それらしく土肥氏の弓庄城近くの柿沢城を書こうと思ったが、写真の薮きつく、3年前の記憶薄く断念。記憶鮮明な孫次山砦を書きます。

 孫次山砦は増山城の北の亀山城北東に位置し、それらの防備を強化するために築かれた防御陣地である。

 

 砺波市教育委員会(2008)『増山城総合調査報告書』(1)によれば、特徴として長い竪堀の多様をあげ、増山城との共通性をあげている。平坦面が主郭以東ではなく、居住性よりも防御を重視した砦とする。増山城の最盛期佐々成政期とほぼ同じころ、同一の築城者によって構築されたと推測している。

 

 佐伯先生は亀山城を天正6(1578)~9年に上杉氏によって構築されたと考えており、同時期に上杉氏によって構築されたと考えられようとしている(2)。

 私は修論で赤で囲った竪堀、切岸下横堀陣地、堀切でつないで構築された防御線に注目し、その横堀陣地が射撃運用可能なことから上杉氏よりも新しい時期である佐々期(前田期は戦闘の懸念が低い)の構築と推定した。しかし現在再思案中。

 

(1)砺波市教育委員会(2008)『増山城総合調査報告書』、株式会社チューエツ、p.275

(2)佐伯哲也(2013)『越中中世城郭図面集Ⅲ』、桂書房、p.158

 

 

竪堀、切岸下横堀陣地、堀切でつないで構築された防御線

 

横堀線

 私は射撃運用可能な陣地とみた。塁線をそなえない個所もあるが、北の堀切近くを除き下方に見通しが効く。また北の堀切、南の竪堀近くから後背に昇降可能である。前面塁線は30~50cm程度の低土塁。

 

南を区切る竪堀(東へ降る)

段差がある。

 

切岸上から横堀線(南東)

 

(北)

 

切岸上稜線

ここも当然二段構えの上部陣地となる。

 

北を区切る東尾根への堀切

 この先約25m、さらに約80mほどに堀切あり

 

南東へ切岸横堀線

 

おまけ

約25m先堀切

 

その約80m先堀切

 

 

竪堀に挟まれ守られた区画

 

 

 

北の竪堀

 

竪堀に挟まれた区画(平面)

 

南の竪堀の横堀部の南西へ竪堀派生部

南は横堀で(途中南西へ竪堀派生)、東に降る竪堀となる。

 

竪堀へと変化する

堀底通路への段差普請は上杉か

 とも思ったが、射撃陣地構想は佐々とした。とするとこれも佐々か。

 修論では横堀射撃陣地を佐々期としたが、横堀射撃陣地、堀底段差普請と併せて、あるいは先進的構造として天正9年退去直前の吉江等上杉勢による普請かもしれないと数年経て思案しなおしてもいる。

 

 

主要部

 

 

 

孫次山砦主要部

亀山城から北西に尾根伝いに下り、主郭を見上げたところ。

 

南の谷まで掘り下がる長い竪堀

 

亀山城との尾根経路には堀切、切岸壁などの遮断施設は設けられていない

 

主郭

 

東の二重堀切

 

斜から

 

二重目

 

東の防御陣地稜線

(防御施設は先に掲載)

 

行き方

亀山城から尾根伝いに降り主郭、東部、南部から林道へ降るのが歩きやすい(逆コースよりも)と思います。

亀山城登り口

 

 

 

 

 研究員の採用が9月20日からで、それまでに考古・地理の履修を済ませようと取り組んできた。今朝、テキスト履修のラスト一科目を仕上げて(提出は9月上旬)、ひとまず終了。ひとまずとは11,12月にスクーリングがそれぞれ1科目あるのと、試験が9,10月上旬にそれぞれ1科目あり、自分から取り組んでいくのは終了という意味。

 頸城地方は今日明日は謙信公祭で、今日の午後は交通規制で道場(空手の)まで車が入れなくなる。なので稽古を午前中に変更して済ませた。すると今日の午後から9月19日まで、私も夏休みとなる事に昨夜気づいた。

 6月末で薬局を退いたのだけれど、6月上旬になって、それまで想定していた私の社会的地位を断念した譲渡となることになった。

 私は突如社会的地位を喪失した。

 7月は何かと忙しさのせいで心理的なダメージはなかったが、8月に入りひしひしと喪失が実感されるようになり、なかなか心のダメージが大きくなってきた。しかし辛いのは私だけかもと想うと、なんともつまらないことなんだと言い聞かせ、祭りの喧騒をよそに急遽午後は頸城を脱出した。

 車で(天候不良)埼玉の羽生へやって来た。ターゲットは羽生城、古河城、関宿と古河の博物館。

 私の大学院(修士課程)での研究対象は越中、能登、佐渡だったので、謙信の関東はお預けだった。

 寂寥と渇望を胸に、私の夏休みが始まった。乗り越えていかねばならない。

今回升方城4では、主尾根大手と搦手(12年前の1,2に掲載)以外の尾根の処理を的にする。

 

二段目(二の丸)の南の突端から両側に分かれて土塁土橋で下方郭へ接続する

もとはルートだったのを新しい段階で最外を堀切り、遮断したのではないだろうか。

下方郭から二段目南突端をみる

左右に土塁土橋が分かれて接続している。

 

二段目の縁には石による補強があり、出入口の造作であろう

 

 

下った先の郭

北に塁線あり。

 

開口部

さらに下方への出入口。

 

出ると尾根坂通路

左に竪堀あり。

 

竪堀

 

その先の尾根、堀切で切断

かと思いきや

堀底土橋あり

東側から土橋が接続している

 

土橋の北

 

土橋の先

 

ひとくかくあって

さらに堀切。

 

 

北東掘り下げ

 

南西掘り下げ

左右どちらも鋭い。

 

対岸(尾根先方向)

尾根道が来ている。

 

振り返り

城側

断ち切っている。

 

堀底

南西から

 尾根を断ち切ってるが、道が来ている。

 ルートが入っていた尾根を、この堀切で遮断したのではないか。

 私は、この堀切が新しい主体による構築と考えた。

 

二重堀切である

 

 

ここはブログでは手に余るので写真羅列にとどめます

 

右側(南東)堀のこしてる

 

側面開口の桝形出入口かなっと思ったが、ブログでは手に余るので写真のみ

 

もう一か所

土塁も付随してるので、堀切ではない堀構造なんだろう。

 

畝状竪堀

 

南に比べて藪がきつくなく、削り立て具合も彷彿する

 

上に長いのは横堀?と接続する

横堀というより溝、通路。

 

 

二段目下方壁際の溝、畝状竪堀の外に大堀切

 

二の丸東下の壁

際に横堀というか溝あり。

 

横堀状の溝

壁とりつきを妨害し、上からの射角を調整するための構造か。

その前には平面があるので塹壕ともとれるが、よくわからない

 

この城最大の大堀切

上幅17.8m、角度は約50°(BOSCH)に削る。

 

南下方

内側(右)に小竪堀が付随する。

南に敷設される畝状竪堀群の飛びはしか

 

畝状竪堀群

 

大堀切北掘り下げ

 

頭蓋骨かと少々ビビり

 

やや湾曲し、外(右)に塁線を伴う

 

塁線

 

これを見ないでいたんだから12年前の私なんか話にならない

 

 

長峰城見学会、無事務めました。 

 見学スタート前に頸城2号(高校の同級生大島君)と協働して13分ほどお話ししたのですが、みなさん食い入るように私の話を聞いてくださいました。ありがとうございました。

 写真はみな、ほむほむさんの撮影です。ほむほむさん、ありがとう。

 

遺構でも語る

ヘルメットずれてる。

 

 

長峰城の西側駐車場

 

 

 部屋と史資料の整理がだいたい済んで、やっと出かけられる数日ができた。

 しかしこの暑さで城に行かないツーリングは断念。車で恵那の友達に付き合ってもらって城にいかない美濃修学旅行に行ってきた。

 月芳さんのリサーチと機転でヒットも多かったのだけど、中でも思いがけずホームランだったのが鵜飼と富加町。36年前からの薬学部4年間は名古屋に住んでいたのだけれど、鵜飼は見たことがなかった。思いがけず長良川河畔からみることができ、ホームラン。

 富加町資料館では斎藤新五に遭遇。

 斎藤新五は天正6年に信長に越中へ派遣され、月岡野で河田等上杉勢と合戦に及んだ侍。太田本郷城跡の円光寺に足跡を残す。

 太田本郷城(富山市太田南町) | えいきの修学旅行(令和編) (ameblo.jp)

 その新五が信長にあたえられた本拠が富加町周辺で加治田城という。知らなかったので富加町もホームラン。その生涯を描く漫画も発売されていて、人物像も掴むことができた。秋、優先順位上位に再訪を期す。

 夕食中にカミさんからline。大学から研究員採用通知が届いたと連絡が入る。ひとまず秋からの身上も定まった。なんか人生の転機には月芳さんといることが多い気がする…・

 なんでかサブタイトルを美濃としたい気分。

 

信長居館 

何年ぶりだ…。

 

岐阜城

同じく…。

 

はぁ、名古屋

 

長良川

見ましたよ初鵜飼

背景は金華山。

 

大桑城も20年くらい前か、友達の結婚式の前にきた

 石垣の発掘など、当時はなかった知見も観察できるそうだ。

 暑いのでリーフレットいただきがてら山上の駐車場まで。ここも秋来なければ。

 

 

対象遺構と私のプロフィールにズレがありますが、努めます。

お時間ございましたらお出かけください。

越中升方城

 この城は2012年に佐伯先生のルート設定(佐伯哲也(2012)『越中中世城郭図面集Ⅱ』、桂書房,p.38)をもとに書いた記事がある。

 12年も前か…

★升方城その2https://ameblo.jp/mei881246/entry-12496885006.html

★升方城その1https://ameblo.jp/mei881246/entry-12496884979.html

 しかし 城の外周の備えが抜けていた。

 修論で扱ったので私らしくいきます。

 ただし皆様のストレス軽減のため従来よりも文字少なめを心かけます。

 今回3は馬出(その1と一部重複)と横堀と畝状竪堀。

 次回4は尾根の処理。

 

馬出と城側切岸際の横堀

 塹壕状で馬出内に見通しが効くが、郭内侵入されてる状況で射撃するか?と私は思う。

 切岸に取り付かせないための構造か。

 もしくは上方郭からの射角調整か。いまいち用途がわからない。

 

馬出内

土塁がないので、織豊ではなく上杉の外張だろう。

 

外張への入り

 

登坂負荷がかかり、斜めに入る

導線に横矢は効くものの、枡形造作はない。

 

北西横堀線との竪堀区切り

 

 

横堀

北西横堀線

深いところは前斜面に見通しは効かない。

 

横堀前面塁線上

横堀内から見通しが効かないところは前面塁線上が陣地状。

 

東に向かって前面塁線は狭く低くなっていく

 

 

横堀も浅くなる

このあたりからは横堀内から前斜面に見通しが効き、射撃運用可。

 

東から

これは横堀射撃陣地だろう。

 

後背切岸上にジクザク導線と出入口開口あり、退出路も確保されている

 

しかし、この横堀線の北東は畝状空堀群が敷設されている

同ラインで横堀射撃陣地と畝状竪堀群って、運用が異なる。

 私はこれを時期差、構築者の違いとした。

 私の見解:横堀射撃陣地は佐々もしくは前田の構築で、外張と畝状竪堀群は上杉の構築と考えている。

 越中、能登の上杉使用城郭で横堀射撃陣地があるのはここと増山の孫次山砦と御所山屋敷の北。他上杉使用の山城の横堀は見通し不可に加え退出路無く射撃運用否定。孫次山は増山の外を守る砦で、御所山の北横堀線は増山城の最外郭に位置する。上杉の後に構築されたと考えた。升形の横堀も畝状竪堀群で斜面を潰す上杉の普請の後、射撃陣地を設けたい場所に畝状竪堀群を潰して構築したと考えた。

 後述する南の畝状竪堀西端上部横堀も別用途だが畝状空堀群を潰して造ったと考えている。

 

わかりにくいですが畝状竪堀

 

 

南斜面に飛びます

南斜面の畝状竪堀

これでもかってぐらいある

 

 

ここから私の見解

 

畝状竪堀の上端に土塁を設け、横堀状としたところ

 越後のこういった施設は畝状竪堀を狙う横堀射撃陣地とされる。

 しかし私は異なる見解。

 この城のこの構造は、南西下方の郭の出入口前に出撃する兵の屯する区画とするために畝状竪堀の上端部を潰して土を除けたものと考えている。遺構の切り合い関係とした。

 

撮影日異なる下写真の方が保有区画がわかりやすい

この空間から竪堀通路を下り、出入口を攻撃する敵を襲撃する

 

竪堀通路

出入口前に降下する。

 

出入口前、舗装林道が通る

もの好きなかたはぜひ現地行ってみてください。

出入口前

 

下ってくる竪堀出撃路

 

 

 6月末をもって長く職業としてきた「ほたる調剤薬局」を退きました。

 この春、戦国期越後上杉氏の城郭を対象とした研究で佛教大学大学院修士課程をなんとか修了し、9月からは別途身上を依頼して(7月中には可否が通知されます)研究を継続しようと考えています。

 私の人生における経済的な職業は終了して、これからは文武の修行に勤しむ生活を送ることになります。父から受け継いだ薬業という職業、今まではその支えがあって空手も歴史学もできてきました。これからはそれなくとも生きていけと、父母に、自分の中の自分に叱咤激励を受けています。

  

 
 頸城の友達(1号白鳥さん)に頼んで今日私のほたるラスト写真を撮ってもらいました。

ほたる、頸城の皆さん、ありがとう。

 

 明日は門出。

 とはいっても、まずは史資料と部屋の整理に一か月はかかりそうです。

 職業に関して、6月に入ればずいぶん時間ができると思っていましたが、なかなかそうもいかずてんてこまいしています。それももう2週間でしかないのか。

 ただこの忙しさが感傷に浸ってる場合じゃないと、新たな人生に向けて励ましてくれているようです。

 

 勉強のこと

 考古学地理の過程は2年間あるのですが、この秋から春までは別制度で文献史学のレベルアップをはかり、来春以降は考古地理の卒論とスケジュールしているので、この秋までに考古地理の履修は済ませようと計画して消化しています。秋まで休養と回復期のつもりでしたが、そうなっていません。

 19日には上洛して秋以降の身上を固めてきます。

 7,8月は少しは休養もとったり、お城のブログも書いたりしたいと思っています。