えいきの修学旅行(令和編)

えいきの修学旅行(令和編)

こんにちは、新潟県上越市春日山町在住、えいきの修学旅行を綴ったブログです(ヤフーブログから移設しました)。
歴史が好きで、仕事(ほたる調剤薬局)の休みに城館をまわり、 独学と実地修学、ならびに研究者を訪ね得た教示を綴っています。

麻生野城(洞の城)

江馬氏の一族麻生野氏の城と伝わる。

 この城、郭の出入口に枡形を掘り込んで造作している。

 2012、2019年と江馬の城を数々歩いたが、江馬の城は郭の出入口の造作は未発達な印象を受けた。しかし、この城は明確に枡形遺構が現存している。武田の影響であろうか。

  不思議…。

 

 江馬氏に関して2012年に書いた「戦国期の北飛騨江馬氏」から、麻生野に関する記述を以下に抜き出しました。

 

 永禄2年、7年、武田の先鋒飯富三郎兵衛昌景が信飛境安房峠から飛騨を圧迫、永禄2年は誓紙人質取替し和談、10月11日江馬一族の麻生野慶盛が甲府へ御礼に行っている。永禄7年、時盛は次男善立(円城寺で僧籍にあった)を還俗させて人質として甲府へ差し出し、武田の軍門に降った。善立は右馬允信盛と名乗り武田の旗本となった。信盛は天正9年遠江高天神で討死している。

 

 時盛は、家督を嫡子輝盛ではなく、次男信盛に継がせようとする。信盛は永禄7年に武田に人質として差しだし信玄近習として仕えている。が、信盛は輝盛の性格を恐れ固辞したため、分家麻生野直盛の子浅之進慶盛に継がせようとする。麻生野直盛は永禄2年武田との和談の際、時盛の名代として甲斐に赴き、信玄より百貫文の知行を宛がう墨付を拝領している。麻生野氏は時盛と共に武田よりの家であった。

 これを察した輝盛は、刺客を送り父時盛を殺害、江馬氏家督を我がものとする。
 この事件、「江馬後艦録」にリアルに書かれている。天正元年、6年とする説がある。ちなみに天正元年は信玄没年、6年は謙信没年である。

2012記事(懐かしい…)。

 戦国期の北飛騨江馬氏1https://ameblo.jp/mei881246/entry-12496885953.html

 戦国期の北飛騨江馬氏2https://ameblo.jp/mei881246/entry-12496885965.html

 戦国期の北飛騨江馬氏3https://ameblo.jp/mei881246/entry-12496886005.html

 

麻生野城主郭1

 記事中の郭・堀名は、宮坂武男(2015)『信濃をめぐる境目の山城と館 美濃・飛騨・三河・遠江編』、戎光祥出版に準拠し、同書を参考に記述する。

 前後(西東)を堀ア、イで遮断し、アの先に郭2を置く。堀イに面した東端と東南部に土塁を盛る。

 南に枡形を掘り込んだ出入口を設け、竪土塁を土橋として導線とし、帯郭から堀ア東部を架橋したか。

 また北にも帯状の通路があり、堀ア北掘下げ付け根を通り郭2に至る導線が残る(後世造作か)。

 

上写真の撮影地後背

 壁下に堀ア、郭2(後掲)

両側(左は麻生野川、右は沢)急壁で要害

 

郭2から主郭壁

 

主郭の中ほど、石の集積は神社の基壇か

 

主郭東面と東南部土塁

東面土塁下は堀イ。

東南部土塁西端に枡形出入口。

 

後背を守る堀イ

うぃ

南東掘下げは城外側(東)に土塁が沿う。

南東掘下げ

 

北西掘下げは両側に土塁が沿う。

北西掘り下げ

 

 

東土塁上から主郭

 

南に枡形に掘り込まれた出入口

江馬では特異な構造。

 

西から

不思議な想い。

石があり、石を用いた造作があったかもしれない。

 

桝形下方

竪土塁を土橋として伝ったようだ。

折れ造作は見られない。

 

下方から

竪土塁から枡形への導線

 

南斜面エリアからは帯郭から堀ア南掘下げ竪堀部から架橋、あるいは土橋まで揚がり接続か。

 

帯郭から堀ア南竪堀部

 

堀ア上方

 

 

北斜面の帯状通路

 

堀ア竪北掘下げ部付け根に降りる。

 

堀アを土橋で郭2に接続

 

郭2

左右(南北)急壁、尾根筋脇に掘り込まれた出入口。

 

南 麻生野川側急壁

 

北 沢側急壁

 

西尾根筋縁北脇に堀込出入口

 

出入口外導線

 

導線から郭2出入口

 当たって折れている(なめらかなカーブという形容が妥当か)が、張出様基部は強固にはみえず、櫓がのる構造ではあるまい。

 

出入口接近

 

堀込

主郭も、ここも、出入口は明瞭で、江馬では異様である。

 

 

尾根筋下方

ここを登ってくる。

 

尾根筋から郭2西辺縁

出入口への導線は岩の左、木の陰。

 

登り口https://yahoo.jp/x62J5f

標注は江馬氏城館跡洞城跡。

ここから郭2出入口まで私の足で7分。

 

参考文献 宮坂武男(2015)『信濃をめぐる境目の山城と館 美濃・飛騨・三河・遠江編』、戎光祥出版、p.391

 

 

後編では西尾根を可能なかぎり詳述します。

 

 西尾根は三木勢力圏方向で、横堀・帯郭・堀切・壁で防備された郭2、3、4を置き、さらに土塁を組み合わせた厳重な遮断線となる堀カ、キ、クを設けている。

 ただし、荒れている。私はこちらから幾多の苦難を踏破し、主郭に至った。

 

主郭1西尾根郭2

右わきに北尾根堀イから主郭西下を巡る横堀

 

堀イから巡る横堀

 

郭2東方郭①南から東下方向

 あらためて申し上げるが、西尾根は、傘松城1で辿ったエリアとは別天地の荒れっぷりである。

 宮坂先生の縄張図をもとに踏査、写真を精査したうえで掲載したが、もしやすると比定構造に誤りがあるやもしれない。ご容赦ください。

 

2の西、掘ウ郭3を置く

堀ウは西から南に横堀となる。

堀ウは北の帯郭から横堀ー帯郭への変化付近で郭2へつながる通路として使用されたのではないか。

 

北の帯郭から堀ウ

 

南から堀ウ

横堀状。

 

堀ウ横堀東の帯郭

1で掲載した南東尾根帯郭の一段

 

郭3

 

 

堀エの先に郭4

4は側面に帯郭を付随する。左(南)の窪は出入口か。右(北)の帯郭には竪堀が有る。

 

堀エ

 

郭4窪か(写真比定怪しい)

南帯郭との出入口か。

 

郭4北下帯郭

竪堀が通行を制限。

北から西の尾根先にかけて土塁カが設けられていることにより横堀状になる。

その塁線脇下方には掘カが遮断し、傘松城域を区切る防御線となる。

 

竪堀

 

土塁線オ

塁線脇下方に堀カ

 

堀カへの降り口

屈曲造作有か。

 

堀カ 降り口下から

 

南掘下げ

 

北掘下げ

 

堀カ越に傘松城

ここが傘松城主域となる防御壁。

 

 

堀カ西

西に約80mで堀キ

倒木で通行困難な箇所が続出する。

この写真程度は易い。

 

城側に小さい堀、土塁、堀キ

 

小さい堀と土塁

 

堀キ

キは城外側にも土塁と小さい堀が付随する。

豪快な遮断要請は危機感のあらわれか。

もう一枚

 

南東掘下げ

 

北西掘下げ

 

城外側にも土塁がある

用途はよくわからないが

そのことによって落差が厳しく

敵兵に遥かな遮断を思わせる

 

土塁外に付随する小さい堀

 

堀キ西

キから約130mに堀ク

 

 

堀クと塁線

 

出入口か

 

尾根筋下方から

 

約100m下方に堀ケ(図外)

 

堀ケ

 

この先、傘松城跡遊歩道の標柱のある林道に至る。

 

林道・傘松城跡遊歩道標注

(宮坂先生が中断まで林道が登っているという北尾根の林道は、鎖が張られて進入不可)

https://yahoo.jp/qlb_Py

 

遊歩道は荒れていて(2019年6月時点)、危険かつ困難を伴う

このように、通行不可という表現が適切な箇所があり、困難を慎重に乗り越えつつ堀カまで27分。

 

苦難もあり、江馬の横堀、遮断堀切造作等、見応えのある城でした。

 

 参考文献

 宮坂武男(2015)『信濃をめぐる境目の山城と館 美濃・飛騨・三河・遠江編』、戎光祥出版、pp.380-1

 

 ヤフー→アメーバへの移行に伴う記事内の写真、文字、スペースのズレは、内容多の記事で補正できなかったもの若干(高堂城など)ありますが、一通り補正が済みました。
 記事内容の精度は公開年次を確認いただき、2011年当時の「歴史好き」から、先達の影響を受けながら嵌っていく過程としてお汲み下さい。
  2014年あたりから附記しだした概念図は、愚図で、公開するレベルのものではないのですが、自己ブログ説明用途限定(転載不可)として寛容ください。
 

目次 ★は自薦の力作です

 

 
 ○新潟県頚城: https://ameblo.jp/mei881246/entry-12496882242.html

  ★第一義  第一義に至る道 春日山城御屋敷郭黒金門口 春日山城御屋敷郭愛宕口 

  春日山城1-4 裏  根知城遠景 徳合城  御館と北条を米山で分断旗持城,,猿
  毛城,北条城遠景  箕冠山城、鮫ヶ尾城、鳥坂城遠景、堀之内館  
    関東遠征の道1日目 早川谷から越中口へ 越中への道能生谷 松山城   
  ★不動山城その1要害集落から三郭への城道  ★不動山城その2三郭から主郭へ  城ヶ峰砦
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  ★直嶺城1-2  ★鮫ヶ尾城1-2 ★入河沢城前1-3  まとめ ★家ノ浦城  旗持城   
 
○新潟県中越:https://ameblo.jp/mei881246/entry-12496881997.html

  関東遠征の道 2~4日目 廣瀬郷の御館の乱 栖吉城 古志長尾 琵琶懸城 

 栃尾城 関東遠征の道 5日目樺野沢城ー荒戸城 関東遠征の道6日目荒戸城ー浅貝寄居城 関東へ
 荒戸城 その1 搦手から主郭 荒戸城 その2 主郭から大手へ 神社の城?加茂山城塞群 加茂要害      山城 ★高柳城1、2 岳山城 ★薬師山城1,2 河田家文書展 今井城 ★雷城1-3 菅名氏 護摩堂城1-2  与板城1-2  ★本与板城1-4 見附城 ★大面城概要1-4 升形砦 ★小栗山城1-3  椿沢城1-2
  北条城1-4 上条館城 黒滝城 細越城1-4 薭生城  ★柄沢城 牧城 本堂山城
 
○新潟県下越:https://ameblo.jp/mei881246/entry-12496882173.html

   加治氏・中条氏 鮎川氏大場沢城 竹俣氏竹俣館・竹俣東城・要害 本庄氏1里本庄 

  2猿沢城 3村上要害館地区 大川氏1藤懸り館 2ふる城 色部氏1-3

  越後の村の城 荒川口城・大沢城 ★浦城 序・前・後編 池ノ端城

 
○ 戦国上杉圏の特徴的な普請:https://ameblo.jp/mei881246/entry-12496892001.html   
  畝型阻塞 畝型竪堀 畝型空堀 泥田堀 横堀1-2 堀端の普請1-2 逆四角錐台形虎口

 

○富山県 :https://ameblo.jp/mei881246/entry-12496884322.html

 上熊野城 大道城1-2 ★戦国期の越中神保氏1-2 増山城1-3 松倉城塁群 ★升方城1-2

 松倉城1-3 論田山城と亀谷銀山 論田山城 中地山城 ★横尾城1-2 ★宮崎城 ★元屋敷城 
 ★白鳥城1 中村山城 海老瀬城 ★湯山城1-3 ★井田主馬ヶ城1-2 ★城生城 
 ★池田城と樫ノ木城 池田城1-2 樫ノ木城1-3  亀山城1-2 松倉城平峰砦 水尾城 
 ★唐人式部を追って ★富崎城
 
○石川県:福井県 :https://ameblo.jp/mei881246/entry-12496885420.html

  玄蕃尾城1-2  ★唐人式部を追って★甲山城1-2 ★能登にみる天正期上杉の城郭普請 はじめに 

  ★丸山城 ★七尾城尾根㉖・長屋敷 ★熊木城1-2  ★飯田城・追補 

 ★能登にみる天正期上杉の城郭普請 まとめ ★萩城  黒峰城   ★町屋砦 ★枡形山城 ★古府谷山支群 ★古府桝形砦 石動山城

 
○長野県北信:https://ameblo.jp/mei881246/entry-12496881710.html

 大倉城 戦国信濃島津氏 ★若宮城前後編 芋川領 割ヶ岳城 壁田城 替佐城 甲越最前線 

 葛山城 旭山城 森将軍塚古墳 鷲尾城  ★仙当城1-3 ★大日方館 古山城 ★山口城1-3 

  飯山城 毛見城 若槻山城 ★髻山城 120桝形城 妻女山から53天城城52鞍骨城  ★52鞍骨城1-3 

 大峰城1-2 ★葛尾城1-3  姫城 岩崎城1-2  ★雁田城1-3 三日市場城 更科峠旗塚 菅の山城 

   井上城・竹の城周辺 井上城小城 井上城大城 ★竹の城1-2   謙信道1・石動の館 真山城1-2 
 謙信道2・山田城(枡形城)1-2 謙信道3・灰野峠周辺 ★大岩城1-3 雨引城1-2 ★月生城1-3 
 ★須田城 ★越後に迫る武田の脅威 ★城坂城1-2 ★中条城・累城1-2 
 ★越後に迫る武田の脅威エピローグ(黒岩城から) 中小屋城 鴨ヶ岳城・鎌ヶ岳城・夜交氏山城 序 
 鴨ヶ岳城1-2 ★鎌ヶ岳城 ★夜交氏山城 大城1-2 小城 ★平沢城1-2  ★野尻湖周辺の城 蓮城 
 ★古海城 ★狢倉城 ★上境城  ★小境城1-4 ★田草城1-2 ★春山城(綿内要害)1-3 箱山城
  ★尼巌城前後編 ★寺尾城1-2  ★金井山城 ★竹山城  ★霞城1-3 小松原城 吉窪城 上尾城 
 和田城 ★城ノ入城1-2 ★蟻ヶ城 左右前山城 松原城 柏鉢城前後編 戸隠栃原城館群 福平城
 円光寺館 大昌寺山城 古城 鹿谷城 牧之島城前振り-本編  
 
○長野県東信・中信:https://ameblo.jp/mei881246/entry-12496885704.html

  梨沢城館157・向城158(古城・依田城)   望月城126 式部城134・式部の館138 鳥屋城75その1-2  

 中山城79その1-2 有賀城  ★虚空蔵山城 ★ケムリの城    積城・亀井城 高津屋城・鳥小屋城 

 
○長野県南信:https://ameblo.jp/mei881246/entry-12496889614.html

 222上おかた・下おかた屋敷、223上手開土屋敷 119大島城1-3

 124一夜の城・123黒河内の城・125中島の城・126埋橋の城 ★170的場城 162藤沢城
 193塩田城 田立口 田立砦 熊の城
 
○山梨県:  https://ameblo.jp/mei881246/entry-12496882247.html

 新府城 新府城の外郭遺構能見城防塁 笹尾城 白山城  要害山城

 
○群馬県:  https://ameblo.jp/mei881246/entry-12496882244.html

  関東管領の府 平井城を訪ねて その1~その4 根利道 五覧田城  深沢城  

 
○東北: https://ameblo.jp/mei881246/entry-12496889182.html

  山形県 ★舘山城1-2 藤沢館 小国城前後編 大浦城 高館山

  福島県 会津久川城1-3 ★向羽黒山城1-3
 
○岐阜県: https://ameblo.jp/mei881246/entry-12496886150.html

 ★関東管領の府 平井城を訪ねて その5 石徹白  戦国期の北飛騨江馬氏1-3 江馬氏居館跡公園

 ★高原諏訪城1-2 ★小鷹利城 向小島城1-2 小島城 天王山砦 阿寺城  鶴ヶ城 小里城山城 

 飛騨松倉城1-2 ★広瀬城1-4 織田信長親子廟 岐阜城1-3 五郎小屋砦 刈安城 前田砦前・後編

 城山砦 久々利城 和田城 久須見城 ★中尾砦 城址山砦 猪狩山城 補足 馬隠し砦1-2  霧ヶ城

 久々野城 牛臥山城 切手城 細野城 山田砦 傘松城1-2

 
○愛知県:  https://ameblo.jp/mei881246/entry-12496897269.html

 作手へ 亀山城1-2・追補  ★古宮城1-3 ★賽之神城 文殊山城(作手エピローグ) ★鍬塚城前後編

 ★寺脇城 清水城 ★日近城1-2 奥平圏の城1-4 吉田城 小田城 笠井島城 松平城山城 松平城
 和田城 菅沼城 川尻城 月ヶ谷城 五葉城
        
○三重県: https://ameblo.jp/mei881246/entry-12496887558.html

    田辺城 采女城 百地丹波守城 宮山城 城山城  滝之川城1-2 北畠氏城館群1-2霧山城1-2

  大河内城1-2 三瀬館 具教卿胴塚・首塚 ★田丸城1-4 北畠具親城
 
○西国  :https://ameblo.jp/mei881246/entry-12496882249.html

 兵庫県 出石城 有子山城 鳥取城攻囲本陣(太閤ヶ平)1-2 上月城

 
 ○東京都・埼玉県 :https://ameblo.jp/mei881246/entry-12496885418.html

  滝山城1-3  勝沼城1-2 氏邦鉢形領紀行 序・一乱・終章 ★花園城1-2  天神山城1-2

  千馬山城1-★2  日尾衆と日尾城周辺     日尾城 鉢形城1-3 ★八幡山城
 
○神奈川県  :https://ameblo.jp/mei881246/entry-12496883463.html

 石垣山城1、2

 
○静岡県: https://ameblo.jp/mei881246/entry-12496882245.html

  深沢城  丸子城 葛山城 興国寺城  柏久保城 狩野城 鎌田城1-2 滝境城 佐久城 

  中村城山砦 ★諏訪原城

 
○滋賀県 :https://ameblo.jp/mei881246/entry-12496885422.html

        近江八幡城1-2 安土城1-4

     

傘松城

 高原川、吉田川(写真)、山田川が合流する標高802.8m,比高410mの観音山山頂に主郭を置き、山頂からは江馬氏の本拠、高原郷を眼下に一望する。

 

山頂北部郭5から高原郷眺望

江馬氏居館ズーム

 

江馬氏に関しては、2012年に書いた記事(懐かしい…)がありますので参照ください。

 戦国期の北飛騨江馬氏1https://ameblo.jp/mei881246/entry-12496885953.html

 戦国期の北飛騨江馬氏2https://ameblo.jp/mei881246/entry-12496885965.html

 戦国期の北飛騨江馬氏3https://ameblo.jp/mei881246/entry-12496886005.html

 江馬氏居館跡公園https://ameblo.jp/mei881246/entry-12496885941.html

 ★高原諏訪城1https://ameblo.jp/mei881246/entry-12496886053.html

 ★高原諏訪城2https://ameblo.jp/mei881246/entry-12496886124.html

 

傘松城見取り図

 宮坂武男(2015)『信濃をめぐる境目の山城と館 美濃・飛騨・三河・遠江編』、戎光祥出版を参考に、郭・堀名を同書に準拠し作図。以下、同書を参考、測値を引用し記述する。

 横堀を使用した防御構想は、江馬氏が三木氏と雌雄を決した天正10年八日町合戦(江馬輝盛討死、本拠高原郷まで攻め込まれる)頃の江馬氏最終期の城郭普請技術とみることができ、私の心を掴んだ。

 北尾根は高原郷と繋がる大手となる。

 西尾根の厳重な防御構造は、三木氏を意識した普請と想定できる。荒れているが、これがまたいい(後編・こっちがメイン)。

 

 

城域北端から

 

南北に長い山頂部郭5北端、放送っ施設の先に小高くあり、堀アが区切る

北尾根は高原郷からのルートにあたり、大手となる。

 

堀ア

北端高所から

 

南北に長い山頂郭5(北から)

 

5南部へ

細長い。

主郭北直下堀イ近くにもう一施設あり。

 

5南部

堀イは西に横堀となり、横堀底を主郭北に至る通路とする。

 

堀イ

ルートは直登ではなく主郭頭上監視下の横堀に導く。

 

横堀通路は、左側面頭上から主郭の監視を受け、竪堀による通航制限、縊りがある

 

下方に帯郭一段

 

江馬の横堀

感激もの。

 

西横堀は主郭西隅下で止まり、止めた塁線が主郭への出入口になるようだ。

土塁の奥は西尾根郭2。後編で詳述するが、荒れている(私は西から至った…)。

 

主郭出入口は、明確な構造は無い

江馬は出入口は発達しなかった。

 

 

主郭1へ

 

傘松城主郭1(東西23、南北35m)

県史跡なので傘松城跡の標柱有。

荒れた西尾根を踏破してきた私には、別天地な気分だった。

 

初めに辿った北尾根

 

南東尾根

 主郭切岸6m下には西の郭2のと同段(ただし竪堀が区切る)横堀コが巡り、二段の帯郭を置く。

 尾根筋は両側に竪堀を走らすが導線が一筋あり、山麓と通じていたようだ。

 

帯郭

 

尾根筋

導線脇を竪堀が制限。

江馬の構造。

 

尾根筋北側(写真左)竪堀

 

南側竪堀

 

 

西尾根

 

 三木勢力圏方向で、横堀・帯郭・堀切・壁で防備された郭2、3、4を置き、さらに土塁を組み合わせた厳重な遮断線となる堀カ、キ、クを設けている。ただし、荒れている。私はこちらから幾多の苦難を踏破し、主郭に至った。写真に写る構造も荒れており、精査に時間を要するため記事を分けることにする。1週間ほど猶予ください(どなたに申し上げているのか)。

 しかし、詳述します。ご期待ください。

 

 

参考文献

宮坂武男(2015)『信濃をめぐる境目の山城と館 美濃・飛騨・三河・遠江編』、戎光祥出版、pp.380-1

 令和2年は、私とって新たな人生へ踏み出す年です。

 その道が容易ではないことはわかっていますが、新年早々きつかったです。

 

山田砦

 宮坂武男(2015)『信濃をめぐる境目の山城と館 美濃・飛騨・三河・遠江編』、戎光祥出版(以下同書を参考に堀・郭名を準拠し記述)によると、『瑞浪市史』からの引用で、『小里家譜』にある天正12年(1584)の小牧長久手合戦時に豊臣方森氏が拠った光明山田砦がこれであろう(落城した光明山田の砦がこの山とは確定できない)という紹介と、宮坂先生の意見として、横堀使用から新しい造りであること、山の南半が手つかずで急造で未完の印象を挙げ、織田氏により、小里城山城を強化した頃(元亀末から天正初期)、一緒に作られたが未完に終わった砦の一つではないかとする説を提起している。

南東に張られた横堀㋑

折れを伴う。

折れ部が出入口か。

 

後世の通行による磨り減りか、出入口のようにも見えた

擦り減りか出入口か

 

南下方から㋑折れ部

 

㋑折れの南、もうひとカーブ

 

南西下方㋑

 

郭②から㋑折れ部

②は㋑に塁線を備える。

 

 

郭内

 

横堀と急壁に守られた平場を確保してる。

最高所の郭①を並べた郭②が西を囲う、南西に一段低く郭③を置く。

 

一段高く①

 

 

北北西には舌状段を従える

 

南西は②が囲い、その下方緩斜面に③(整地途中か)

私達、この竹林(藪)をラッセル登山してきた。

③の下方、西尾根に郭④を置くが、この方面も尾根の付け根に堀㋐を張る。

 

②南西隅から③

土塁造作は接続の工夫であろうか。

 

③は緩斜面を整地途中か

 

この下方、尾根の付け根に堀㋐

 

 

うぃ

㋐は前面に土塁を盛る。

 

塹壕運用にはちょうど良い幅に思えるが、塁線を胸壁とするには、堀が深いように思えた

 

塁線

 

塁線下方

一段置く。

 

令和2年、私は進む

 

それを可能にしたのは、月芳さんのラッセル・励まし・心意気である

 

④からのとりつき

 

旭王寺の背後に至る

 

旭王寺

ここhttps://yahoo.jp/ZqVgvC

ただし、こちらからは竹林を突破しなければならず、困難を伴う。

GPSを装備していれば、南東の墓地から山越でアプローチした方がやや易いであろう。

 

 参考文献

 宮坂武男(2015)『信濃をめぐる境目の山城と館 美濃・飛騨・三河・遠江編』、戎光祥出版、p.162

 令和二年の城初めは、東濃へ1泊で出撃.。月芳さんの案内で、東野陣屋、細野城、妻木城、山田砦、山田砦近くの城址の可能性がある山、釡戸陣屋へ出かけてきました。山田は、新年早々から強烈な修行となりました。

 標高640m、比高約190mの尾根の中腹に築かれている(三宅唯美・中井均編(2010)『岐阜の山城ベスト50を歩く』、サンライズ出版株式会社、pp122-5中嶌茂記述分、以下中嶌論考を参考に数値を準拠、構造名を現地説明板に準拠し、私見を交えながら記述)。

 眼下に名古屋と飯田を結ぶ中馬街道を見下ろす。

細野城縄張図

 前面の麓に向かって二段の大手曲輪を配し、その脇を横矢や掛けながら側面に掘り込まれたA虎口にルートを設定している。後背の山側は、堀と土塁で喰い違わせたD虎口を関門に、堀と土塁で守られた➁③の曲輪を置く。

 築城、主体に関しては史料がないようだが、天正12年(1584)の小牧長久手、慶長5年(1600)の関ヶ原合戦時の陣城と考えらている。関ヶ原合戦時には、隣の下記の村で東軍妻木勢と西軍田丸勢による戦闘が記録があるそうだ。

 

B掘り越し主郭➀曲輪

 

主郭➀曲輪(北西から)

中央を土塁が仕切る

 

中央土塁

土塁はもとは信仰にまつわるものではないか。

 

➀曲輪中央土塁から北西方

前方にB堀切、大手曲輪

月芳さんが立つ前にA虎口

 

眼下に中馬街道

 

曲輪➀北西部西に掘り込まれた虎口A

 

外から

折れrが、当たって折れる導線ではない。

 

B堀ー導線脇には大岩が強固に在る

 

出入口下方、馬出ではないが側面防御の一郭が置かれている

この一郭とその先の導線も高位にある大手曲輪からの横矢を受ける。

 

➀曲輪北西

B堀切先に大手曲輪、C堀切。

 

C堀切

 

 

後背搦手側

 

➀曲輪中央土塁から後背搦手側

ごちゃごちゃっ書きましたが、土塁、竪堀で喰い違いのD虎口を造作し、土橋で➁曲輪へ接続している。

左側の竪堀は折れを伴い、50m掘下げている。

また、主郭東斜面(左)には、竪堀線よりも内に三段の造作がある。

 

 

搦手D虎口

土塁で喰い違いを造作

 

土橋右(西)竪堀

 

土橋左(東)竪堀 

折れを伴う。

 

竪堀折れ部

 

搦手D虎口を側面(東)から

②曲輪 - 竪堀で造作された土橋 - 土塁の喰い違い - ➀曲輪

 

折れ竪堀の城内側斜面に三段の造作

 

土橋の先

土塁を前に立てた②曲輪を置く。

③曲輪への接続は、土塁の縁、あるいは土塁天端から架橋か。

 

折れ竪堀の城外側に台所跡?

 

土塁の前にE堀切

E堀切

 

②曲輪から振り返る

うぃ

 

③搦手曲輪

後背は土塁を備えたF堀切が守る。Fは右(南)を掘下げ竪堀とする。

竪堀は南に付随する帯郭を守る構造か。

 

土塁は胸壁となり得るか

 

F堀切

右(南)は竪堀として堀下げる。

 

F堀切掘下げ

帯郭への侵入阻止か。

 

帯郭

 

後背から細野城F堀切土塁の防御ライン

 

コンパクトながら技巧を凝らし、しっかりとまとめたいい城でした。

 ここが一番大変かと思っていましたが、月芳さんのおかげで難なく見学できました。

 ありがとうございました。

 

 

登り口

ここhttps://yahoo.jp/xkYkxU

C堀切まで私たちの足で14分。

 

登り口近くに武者塚

戦死した武者を葬ったと伝わる。

 

 参考文献

 中嶌茂「細野城」、三宅唯美・中井均編(2010)『岐阜の山城ベスト50を歩く』、サンライズ出版株式会社、pp122-5

 現地説明板

 

大浦城の続きです。

高館山(標高237.8m)

大浦城の北西約1.5kmに位置し、詰め城とされる(1)。

 

 城郭構造については、飯村均・室野秀文編(2017)『東北の名城を歩く 南東北編』、眞壁健記述を参考に、地点名を同書に準拠する。

 山頂の城郭遺構Ⅰは、放送施設・公園化により破壊されている。

 中腹のⅡ郭群、畝状竪堀群dは遺構が残存する。

 

後背眼下に日本海加茂港を見下ろす。

木が…。

大浦城からは日本海は見渡せず、機能を補完し合っている。

 

 

山頂

 

公園化と放送施設が建設され、城の面影は無い…

 

大浦城方向眺望

雑木で眺望はすぐれない。

 

眺望がすぐれないゆえの展望塔であろうか。

しかし、登る気分にもならず(塔に入ることにできるのかも確かめていない)。

 

主郭…、とも紹介できない。

 

内枡形状の虎口aとするあたり

六折れする葛折れの坂道の到達点とされている。

 

南西下方五段の平坦面

 

ここから左に山道を降る

https://yahoo.jp/bolstlj

正面の尾根上にも平坦面と畝状空堀のような構造がある(後掲)。

 

山道を降ること2分ほどでⅡの郭群

 

郭2

同じ高さで東(左)に郭1

 

郭1

 

下方に郭4

写真中央、下方郭5,6方向に出入口造作がある。同じ高さで東(左)に郭3。

 

郭3

 

出入口

 

出入口下方

左には畝状空堀が沿うように見える。

郭6は下方に向かって塁線土塁を備え、郭5は道に向かって塁線土塁を備える。

郭5は塁線を開口した出入口を設けている。

 

 

郭5

道に面して塁線土塁(左側)があり、開口する出入口がある。

 

道から郭5塁線開口出入口

 

郭6

この一帯は、城郭であろうか?

 

塁線土塁

 

塁線天端

 

塁線下方

盛る必要無さそうだが…。

 

塁線土塁の開口部

 

関門

外から

脇には石積か

 

山道入口車道脇の遺構

 

尾根上平坦面

 

端に畝状空堀?

 

用途はわからないが、ある

さらに320m南東に降った地点に明瞭な畝状竪堀群dが敷設されている。

 

ここを右に降る山道があり、畝状竪堀群dが敷設されている

地図https://yahoo.jp/xSOtAv

接近すると明瞭に上杉を感じる

 

うぃ

 

下端を山道が通過

 

上杉は、天正後期から文禄慶長においても、畝型を構築していたのだろう

 

下方から

どのような防御目的かはわからないが、通行者に見せる意図か。

 

 高館山は、山上の遺構は、はっきりと確認できなかったが、中腹の郭群、畝状竪堀群は明瞭に確認できた。

 中腹の郭群、畝状空堀・竪堀が、城郭としての遺構なのかは疑問だが、畝状竪堀は越後でみる構造と同類系に見え、近世初頭にこの地域に進出した上杉勢による普請の痕跡に思えた。

 

 註

 (1)保角里志(2006)『南出羽の城』、高志書院、p.337

 参考文献

 飯村均・室野秀文編(2017)『東北の名城を歩く 南東北編』、吉川弘文館、pp.280-7

大浦城

主郭標高約50m、比高役36m

 定納員数目録では大山衆とされ、軍役88人1458石の山内式部少を城将に、他17人の同心が付く。同心には、下、里見、小国、大山ら大身の者も多く、上杉番城としての格が高かったのではないか(前記事小国城将の佐藤は412石3斗8升、登坂は525石3升)。

 眼下に北国街道、後背の高館山下には日本海加茂港を抑え、要衝である。

 保角里志(2006)『南出羽の城』、高志書院によれば、上杉進出前は、もとは大宝寺氏の根城であったが、天正11年(1583)東禅寺筑前の反乱によって大宝寺義氏は自刃、同15年大宝寺義興は最上氏との戦いに敗れ、最上氏の影響下に置かれた。しかし、翌16年には本庄繁長が庄内に侵攻、最上氏を駆逐、19年には上杉領となり、慶長5年(1600)の関ヶ原・出羽合戦まで上杉の番城であった。慶長6年はいった最上氏の下治右衛門は、山麓に城を移したといわれている。

 東麓に大山公園駐車場有https://yahoo.jp/_gbbhb

 

背後の比高約260mの高館山は、詰め城とされる(別記事を立てます)

高館山の裏は日本海、加茂港。

堤(江戸期)による池は、往時は谷状に入り込む湿地だったようだ。

 

いまは公園だが、要害地形であったことがわかる

城域は、残念ながら神社造成と公園化、高館山山頂も放送施設建築により破壊されている。

 

大浦城主郭1(郭2から堀こしにみている)

 記事中郭名は前掲保科論考に準拠し、同書を参考に記述する。

 

主郭の堀側に土塁が盛られ、主郭内は遮蔽されている。

 

この堀は、主郭を守る堀だけあり、戦国の厳しさを伝える

 

郭1には三吉神社が鎮座

北西辺には土塁が残る。

 

現地設置大山公園案内図

記事記述名称をブログ説明のため白字加筆

 

北西には二段の曲輪が連なる

出入口造作による連結にも見えるが、遺構かは判別し難い。

 

北西下方の曲輪

 

 東、眼下に越後と結ぶ北国街道が走り、急壁下山麓には二の丸、三の丸が整備されたが、どうもこれは出羽合戦後の最上時代のようだ。

 

南東尾根には小さな曲輪群の下方に大きな二段の郭が配される

小さな曲輪群からは昭和12年10個の貯蔵穴が発見された。

 

最下段は厩跡と記されている

 

急壁であり、敵を寄せ付けない

主郭東面急壁

 

主郭へ戻ります

 

主郭北西辺土塁

 

土塁上

 

土塁から西、掘りこしに郭2

曲輪2は、見えている平面の左方(南西)に古峰仁社、忠魂碑のある高所がある。

 

 

曲輪2

奧に古峰神社

 

後背の池

 

古峰神社

 

後背は高所となり、忠魂碑が建つ

土塁か、後世造作かはわからない。

 

忠魂碑が建つ高所

 

高所から西

公園造成以前は、鳥打場という自然の尾根であったという。

 

 公園化により城郭構造は失われたことは残念だが、外征地の上杉番城たり得る立地(要衝)と要害地形を窺うことができました。

 

参考文献

 保角里志(2006)『南出羽の城』、高志書院、pp.335-7

後編では大手ルートの工夫を堪能します。

 

小国城縄張図

 大手の導線は東から尾根伝いが大手ルートで、急崖沿いに6ヶ所の屈曲・ターン・枡形を駆使した関門を置き、技巧を凝らしたルート設定をしている。ただし、郭を経た導線にはなっていない。

 ごちゃごちゃ書かずに、写真、いきましょう。

 

主郭出入口先

坂を右斜めに降り、崖上の通路状帯郭に至る。

大手ルートは左(西)。

 

側面頭上監視下、崖上を通る

 

二の丸出入口との結節点に土塁で喰い違わせた関門が設けられている

郭を経る導線にはなっていない。

 

うりぃ

 

土塁で喰い違い、折れを造作した関門(左が二の丸)

入りは枡形であろうか。

 

大手ルート下方から二の丸脇関門

土塁に当たり、折れている。

こういった構造は越後の上杉城郭には無い。

 

当る土塁から、崖上を側面頭上二の丸監視下、三の丸脇に至る大手ルートを見る

 

二の丸

写真奥(東)下方には、三の丸、三の丸脇関門を頭上監視する。

 

二の丸から三の丸・同脇関門を監視

関門は崖際でS字状ターン。

 

そのターンは枡形様の掘込造作か

 

三の丸下方に、さらに関門

竪堀と土塁で直進を阻止し、S字状ターンを強いる。

 

竪堀と土塁で直進を阻止

 

ターンを強いる

このターンも枡型ではないが、枡形だろう。変な日本語(形は違うが、用途は同じ)。

 

 

竪堀

 

その下方に類似の関門を重ねて敷設

 

見事というほかない

ここへの入りが下写真

 

当たり、右折れ

当たる直前には竪堀。

 

竪堀

 

入りは枡形としていいだろう

 

この出入口の下方には屈曲導線

その下方に屈曲導線

 

その屈曲も当てて折れている

 

 

その下方に箱堀状堀切

中央に土橋のような畝がある。

 

ルートは左下方で、土橋とすれば、尾根上からルートを監視する兵のための通路であろう。

しかし、この先の尾根上には普請は無く、通行を制限するための畝かもしれない。

 

崖端の大手ルート

 

で、またここが私の最強最好関門

二折れ、畝状空堀により狭め。そこは写真右手前高所(郭造作は明確には無い)からの監視を受ける。

 

畝状空堀群

 

二折れ

 

高所から俯瞰

二折れと畝状空堀群により狭めで通行を制限。

 

 

下方から

 

 

その下方に駒立場

 

馬屋か

 

あとは山麓までの道となる

 

途中、一か所に竪堀あり

 

山麓の登り口、駐車場に至る

登り口駐車場はここhttps://yahoo.jp/V21k2Z


駒立場まで17分、駒立て場から本丸まで写真撮りゝくまなく観察しつつ30分。

 

 小国城の近世城郭様の主郭、導線に敷設された関門構造は、北信、越後、越中の上杉城郭では、みない構造であり、私には上杉番城の姿としては異様に思えた。唯一ほっとしたのが、畝型を発見した時だった。しかし、畝型も、最上城郭にも用いられている構造であり、また、上杉の小国掌握が天正16年~慶長6年という豊臣政権下近世初頭であり、最上、上杉どちらの手による改修の可能性もあるのである。

 それは、4月以降の大学院での学習、修論執筆過程でじっくり考えるとして、まずは、現況の確認のみブログにしてみた。

 お楽しみいただけたら幸いです。

 

 文禄3年定納員数目録に記された上杉氏の番城が、会津移封前の上杉氏城郭の到達点だと捉えている。越後と信濃の判明している城は歩いたが、佐渡と庄内が未踏であり、修論開始前に歩いておこうと庄内に繰り出してきた。庄内は、酒田、大宝寺、小国、大山(尾浦)の4城である。

  酒田城、大宝寺城は幕末まで使用され、近世初頭の面影はほぼ無い。大山城も、残念ながら神社・公園として整備(破壊)され、壁と郭はわかるが、出入口他パーツは不明瞭となっている。

 しかし、小国城は驚愕の構造(近世城郭構造)を残す。

 驚愕って、どうしてかというと、越後越中信濃の上杉城郭では、織豊の影響を受けた近世城郭構造は見ないからである。

 

 小国城は、越後と庄内の境目に位置する。海岸線は地形険しく又天候の影響を受けるので、山間の谷を伝う小国城下を通る街道が重視された。

 保角里志(2006)『南出羽の城』、高志書院、pp.332-4(以下同書参考に記述、数値は同書に拠る。丸の呼称も従った)によると、天正年間には大宝寺義興の小国城将として小国彦次郎がおり、天正15年(1587)には庄内は最上領、翌16年の本庄繁長による庄内侵攻の後上杉領、関ヶ原合戦後の慶長6年(1601)には最上領となっている。城郭構造は近世初頭の構造であり、元和元年に破却されるため、上杉氏あるいは最上氏の手によるものと考えられるとされている。

 上杉領としては庄内と越後を繋ぐ位置にあり、最上領としては対上杉境目となる。要害としての要求度が高いのは最上圏下であろうか。

 しかし、景勝も天正14年には上洛し、豊臣秀吉の大坂城に入っているわけであるし、慶長5年には天主台を備えた近世城郭である会津神指城を普請するわけであるから、上杉の手によるものと考えられなくもない。定納員数目録では小国直江抱とされ、景勝直臣上田衆の佐藤甚助と登坂新兵衛が在番となっている。

 

 最上、上杉どちらかという検討は来年以降にじっくり取り組むとして、まずは、ありのままの城の構造をブログにしておこう。

 

小国城

   標高約349m、比高約236m。麓には越後に繋がる街道が通り、幕末まで関所が置かれた。

 

本丸から東の眺望

小国城縄張図(登り口設置説明板より引用)

山頂にほぼ五角形の本丸を置き、土塁、帯郭で囲う。東、南西隅に出入口がある。

 大手の導線は東から尾根伝いが大手ルートで、急崖沿いに6ヶ所(主郭出入口を除く)の屈曲・ターンを駆使した関門を置き、技巧を凝らしたルート設定をしている。ただし、郭を経た導線にはなっていない(大手ルートは後編でとくと特集)。

 北尾根は二本の大型堀切で遮断している。南西尾根には西大屋敷と呼ばれる長さ約100m、幅約40mの平坦面を有し、集住が可能である。

 

大手ルートから本丸出入口下

右に折れ上がり、本丸出入口。

左方、帯郭が西尾根西大屋敷方面とを繋ぐ。

 

本丸出入口への導線

坂負荷に加え、側面高位主郭からの横矢を浴びる。

 

左斜め上に開口

 

土塁開口部

本丸塁線が伸び、ルートを導く。

 

本丸出入口

開口内は枡形ではなく、本丸塁線にあたっている。

 

 

塁線上から本丸出入口

 

本丸内から

 

小国城本丸

 

南塁線

下方に東尾根大手ルートと南西尾根西大屋敷を繋ぐ帯郭があるが、北東に比し壁高く造作されている。

 

北東塁線と帯郭

こちらは低い。しかし、角度は近世城郭の石垣を思わせる。

北尾根は二本の豪快な堀切で遮断している。

 

北尾根

 

一本目堀切

斜から

 

二本目堀切

 

斜から

 

 

南西尾根

 

本丸南西出入口

この出り口は南西尾根・西大屋敷に至る出入口ではなく、帯郭との出入口である。

 

出入口先

 

西遮断堀切

通路は南端。

北端は念入りに竪堀状に掘下げがある。

 

北端掘下げ

 

堀切南

大手東尾根と南西尾根を繋ぐ通路となる帯郭

 

帯郭通路から西大屋敷へ

 

北東高位に二区画ほどあり、集住とはいっても身分差があったか。

 

西大屋敷との接続口も関門造作があるようだ

 

下方から

 

 

下方区画

 

井戸

もう一つ

 

北西部に用途はわからない(この先で尾根は遮断)が出入口造作がある

 

出入口先の平場

出入口前の空間であり、見方によっては戸張になる。

端に土塁を盛り、強烈な遮断壁と堀切となる。

その先に一郭があり、脇から接続したのであろうか。

 

堀切先に一郭置く

壁、堀切による遮断構造に加え、火点射撃陣地を設けて警戒しているのであろうか。

 

堀切と遮断壁だけでは不十分?

 

後編大手ルートは、めくるめく関門造作を辿ります。

お楽しみに。

 

 参考文献

 保角里志(2006)『南出羽の城』、高志書院、pp.332-4