太田本郷城(富山市太田南町) | えいきの修学旅行(令和編)

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 先日、大学から昨年の軍功をお褒めにあずかり、加増の朱印状を頂戴したのですが、裏腹に、もう一年大学院に在学させてもらうことにしました。

 ゆとりが生じたので、先出し記事ですが更新しておきます。


 太田保は、越中の中央部に位置し、その領有は、謙信の北陸領土化において、いや謙信の戦国大名としての思想の転換点となった土地である。

 太田保は、細川氏領(神前氏預かり地)であったのを、謙信が元亀4年(1573)に料所(直轄化)とし、上郷を旗本村田(上越市史別編1176)、下郷を河田(同1175)が管理した。 

 河田が管轄した下郷には、料所管理の中心とした太田本郷城、今泉城、村田が管轄した上郷には、村田の城と伝わる樫ノ木城、津毛城が上杉の城として文献で確認される。

 樫ノ木城の記事作成の頃より、私も拘りをもって扱ってきた。

 7年前に書いた樫ノ木城3 | えいきの修学旅行(令和編) (ameblo.jp) 

          記事末に主南西尾根筋の堀切写真を追加(2021.11.7 )。

 謙信死後の天正6年9月24日、10月4日には、太田保において織田派遣軍と上杉方の攻防、月岡野合戦が『信長公記』に記されている。津毛城、本郷、今和泉、月岡野が舞台に登場している。以下『富山県史史料編Ⅱ中世』1907、1908、『信長公記』11巻。

 

     9月24日、斉藤新五越中へ被仰付出陣、国中太田保之内、つけ之城御敵椎名小四郎・河田豊前人数入置候、尾・濃両国之御人数打向之由、承及聞落ニ致退散、則つけ之城へ神保越中人数入置、斉藤新五三里程打出、陣取候て、在々諸々へ相働、

  10月4日、斉藤新五越中国中太田保之内本郷ニ陣取、御敵河田豊前守・椎名小四郎今和泉ニ楯籠候、彼城下迄放火候て、未明より被罷退之処に人数を付候、斉藤新五節所へ引かけ、月岡野とい云所にて人数立合、既及一戦追崩、頸かす360討とり、此競を不休懸まハリ、所々人質執固、神保越中殿へ相渡し帰陣候者也、

 

 神保長住と信長の越中侵入の狙いと名分は、太田保だった。

 月岡野合戦の後、太田保は、信長から椎名駿河守に与えられた(富山県史史料編Ⅱ中世1920)。

 

 太田本郷城は、1985年刊行の『日本城郭史大系』第7巻では「現在は遺構をとどめておらず、「太田本郷城址」の碑が残っているのみである」とされており、スルーしていた。

 修論で触れるため、跡の空気だけでも吸っておこうと、位置特定のために他の資料を調べていたところ、大系出版後の1991年、2000年に、部分的に発掘調査が行われ、2015年富山市教育委員会発行の『富山市内遺跡発掘調査概要ⅩⅤ』(以下調査概要)に、発掘調査の報告と、一部分ではあるが復元図が掲載されていた。

立山道の西に、二重の堀、二郭からなる(発掘調査から・より大きいかもしれない)城である。

遺構は残っていないってことだったので、空気を吸うだけのつもりで訪れたところ、

 調査概要で、蛇行角度以上に東に屈曲し、その後ほぼ直角に3回(4回か)屈曲している水路=人為的な河道変更による屈曲=外堀とする水路が、あるではないか

 

外堀

1の屈曲。

記事を明快にするため地理院地図写真に加筆した

 

もういっちょ

 

折れて円光寺前面

スマホの計測では、上幅4.2m、下幅約1.2mを測った。

 

円光寺

曲輪B。

円光寺の由来によると、斉藤新吾の菩提寺という。

 

円光寺門前から2の屈曲

 

2の屈曲

 

2,3の屈曲(東から)

 

(西から)

 

3から4の屈曲(橋の下)

 

4の西の折れ

 

外堀の北外から曲輪A

 

太田本郷城址の碑

碑の後ろの田んぼが曲輪A。

 右に向かう道路の下から堀跡が検出された。以下調査概要から抜粋・引用。

 延長17.5m、幅最大1.8mを検出した。堀幅はさらに南側へ広くなるが、道路下のため確認できなかった。堀底は平坦で箱掘りを呈する。この堀は東へ延び、2000年度調査で検出した南北方向の堀と接続すると推定されることから、そこへ水を流すために自然勾配と反対の方向にしたものと考えられる。

かつては外側に土塁が存在していたと推定される。側壁の一部には鉄分の付着がみられ、堀が水で満たされていたことを示す。

 

 また、堀から出土した300点以上の大量のからわけのなかに、吉祥に関連する考えられる墨書されたからわけがあり、元亀天正年間の上杉氏関連の戦いに関連し、戦勝等祭祀行為として書付廃棄されたものと推定している。

 

参考文献

上越市史別編1

富山市教育委員会(2015)『富山市内遺跡発掘調査概要ⅩⅤ』

富山県史資料編Ⅱ中世

(1985)『日本城郭体系』第7巻、新人物往来社

 

地図は国の重要文化財浮田家住宅を示した

浮田家

ここはここで宇喜多秀家と前田家との関係に関連し、興味深い史跡です。

 

おまけ

月岡駅