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スチャラカでスーダラな日々

故・植木等氏の御冥福に因んでkeiのスーダラな日々を紹介します。故人の映画のようにスイスイと軽妙な人生を送りたいものです☆彡

日本テレビ版ドラえもん・第20話 「ねがい星流れ星の巻」(画像)

ドラえもん 1973年1973年 ドラえもん セル画「ホンワカパッパー、ホンワカパッパー、ドーラえもん♪」という意味不明な歌詞の主題歌や大山のぶ代の声のドラえもんでお馴染みのあのアニメ。その3ヵ月後に富山県で事件が起きる。

黒歴史になっていた日テレ版が『富山テレビ』で再放送されたのだ。これに怒ったのがドラえもんの原作者である藤子・F・不二雄だった。

藤子作品のアニメ化に当時関わっていた小学館元専務の赤座登は、「藤本先生は大変お怒りになっていました」と振り返る。「藤本先生は旧作の内容が全く気に入っておらず、『原作とは似て非なるものだ』と仰っていました。

『確かに一度は許諾して作ったものだけど、私が作った原作のイメージと全然違うし放送してほしくない。できたら何とかしてほしい』という意向だったんです」。藤子・F・不二雄の所属する『藤子スタジオ』は、小学館と連名で「再放送は許諾できない。法的措置も考える」と富山テレビに内容証明を送って抗議した。


日本テレビ版ドラえもん・第24話 「男は力で勝負するの巻」(画像)
日本テレビ版ドラえもん ・ 第7話 「ねずみに弱い猫もあるの巻」(画像)

日テレドラえもん日テレ版ドラえもん『もう日テレにはアニメ化させるか』と思ったけど怒りをぶつける場が無くて悔しかった」。放送終了後の10月初旬に発売された『小学四年生』1973年11月号を開くとドラえもんの扉ページに“大人気放映中”と煽り文句が載っている。

5ページの横には「ドラえもんは、毎週日曜日午後7時から日本テレビ系で放映されています。見てね」とある。あまりにも哀しい煽り文句だ。この号を読んだ小学生が「そういえばアニメがやっているんだっけ」と日曜夜にチャンネルを変えてもドラえもんのアニメが映る訳もなかった。

だがコンテンツとしてのドラえもんの人気は、日テレ版放映後に上昇している。1974年から単行本が刊行されたことで、連載媒体の学年誌以外にも読者層が広がったからだ。

1977年には『コロコロコミック』が創刊され、ドラえもんが多数収録されるようになった。そこで『シンエイ動画』が手がけるドラえもんのアニメが、1979年4月からテレビ朝日系で新たに放送されるようになった。


日本テレビ版ドラえもん・第8話 「ガキ大将をやっつけろの巻」(画像)
日本テレビ版ドラえもん ・ 第3話 「屋根の上のすてきな子の巻」(画像)


1973年 ドラえもんセル画1973年のドラえもんセル画リアルタイムで放映を見たアニメファンの男性は「僕は小学生だったんですけど周囲では全く話題になりません。同じ時間帯だったら僕も含めて皆がマジンガーZを見ていました。」

日テレ版を制作したアニメ会社は『ミュンへンへの道』や『モンシェリCoCo』等を手がけていた『日本テレビ動画』という謎の多い会社。

社長の渡辺清は新潟県の名家出身で、同県出身の政治家・田中角栄とのコネでアニメ業界を生き抜いてきた人物だった。しかし、彼が日テレ版の放映中に失踪したこともあり、日テレ版は半年で放送終了。会社は間もなく解散した。日テレ版の放送は当初、1年間を予定していた。

ドラえもんの連載誌『小学二年生』の編集長だった井川浩は半年で最終回を迎えることを全く知らされていなかった。「番組が終わる時も一切連絡が無くて突然終わった。日テレから『1年間続けます』ということで始まったアニメなのに…


日本テレビ版ドラえもん ・ 第4話 「のび太のご先祖さんの巻」(画像)
日本テレビ版ドラえもん ・ パイロットフィルム🎞️

1973年 ドラえもん台本 日テレ版 ドラえもん 国民的な人気を誇る漫画『ドラえもん』(小学館)に日テレ ドラえもん は再放送が全くない幻のアニメシリーズがある。それが通称“日テレ版”だ。日本テレビ系列で1973年に半年間だけ放送されていた。

最後に再放送されたのは1979年。この作品は触れられることもなく、視聴者の僅かな記憶を残して存在を抹消された。日テレ版はテレビ朝日系で放送のドラえもんとは異なる部分も多い。

ドラえもんの声は男性声優があてていた。『平成天才バカボン』のバカボンのパパ等、中年男性のキャラクターで定評の富田耕生。後半は『ドラゴンボール』の孫悟空役や『銀河鉄道999』の星野鉄郎役等を務める野沢雅子に代わっている。

のび太はいたずらっ子でドラえもんを怒鳴りつけることもあるし、ドラえもんも負けしと反論する。のび太がわんぱくに描かれていた理由について、日テレ版の脚本を手がけた鈴木良武は以下のように振り返る。

「僕自身の好みを言えば、少年がいつも誰かにべったりとか何かというと直ぐ頼るっていうのは、ちょっと考えなきゃいけないと思う。でもそれはどっちかというと、大人側の論理なんだ。原作ののび太は少年側の論理なんですよ。寧ろ、自我に目覚めさせようとした俺たちのほうが生意気だったのかもしれない」。

こうして日テレ版は、原作の初期に輪をかけるドタバタギャグになったが、低迷した。初回放送では関東地区の平均親聴率は6.6%。裏番組が永井豪原作のロボットアニメ『マジンガーZ』(フジテレビ系)で、絶大な人気を誇っていたことも背景にあった。

みんなが寝静まった頃に より記事を引用

日本テレビ版ドラえもん・提供クレジット(開始・オーディオ)
旧ドラえもん最終回音声【1/3】

ドラえもん 1973年1973年 ドラえもんしかし、2クール終了間際に制作会社の社長の新倉雅美(渡邊清)が突然辞任。経営を引き継いだ同社会長は、アニメ会社の経営に無関心な人物で、「もう止めよう」の一言で会社は解散した。理由は本作の黒字経営で、過去に経営していた東京テレビ動画時代からの赤字を補填出来るまでに至った時点で、アニメ事業に興味をなくしたためだという。同年9月30日の「さようならドラえもんの巻」を最終話とし、半年で終了となった。最終回ではドラえもんは未来に帰り、自転車が漕げなかったのび太が泣きながら自転車を漕ぐ練習をするところを、未来の世界から見守るところで物語が終わる。

残された本作の元スタッフらは、グロス請け先の支払い金を充てるため、会社の備品など売れるものは全て売り払い、社屋引き払いのため本作に関する資料やセル画のほとんどを止むを得ず廃棄処分したという。当時のスタッフが個人的に所有しているごく一部のもの以外、現存しないことが明らかにされている。

旧ドラえもん最終回音声【2/3】

ドラえもん 1973年1973年 ドラえもん旧ドラえもん本作フィルムは放送終了後、日本テレビで7年間管理され、その間は地方局へ貸し出されたりしていた。再放送はテレビ朝日系での放映が始まる1979年までの5年余りの間に、地方局などで比較的多くされていた。

最終回の際、当時の製作スタッフは、将来続編の製作を期待し、深い気持ちを込めてラストのアイキャッチを「次回もお楽しみに」(前週までは「来週もお楽しみに」だった)として終了させた。残されたスタッフは債権処理などに追われたが、ついに日本テレビ動画が再建されることはなかった。

1979年、アニメ第2作1期が放送され始めたころ、7月から8月にかけて藤子Fの故郷でもある富山県の富山テレビ放送(フジテレビ系)で本作が再放送された。それを知った藤子Fは、「たしかに一度は許諾して作ったものだけど、私の原作のイメージと全然違うし、放送してほしくない。」と大変怒り、小学館を通じて放送中止の警告状を送った。そのためこの再放送は9回目の放送で打ち切られた。温厚で知られる藤子Fがこのように怒りを顕にしたという証言は他にほとんどなく、それだけに日本テレビ版ドラえもんに対する印象が悪かったことが伺える。作品が現在封印されているのは、権利者側が原作者の意思を尊重しているためである。

旧ドラえもん最終回音声【3/3】
旧ドラえもんOP

旧ドラえもん
旧ドラえもん子供は、幼い頃に見たり体験した記憶が大人になっても残っています。旧ドラえもんが放送されたのは1973(昭和48)年4月1日~9月30日。リアルタイムで旧ドラえもんを見ていました。その頃の私は、5歳で幼稚園に通っていました。

旧ドラえもんは日曜の夜7時から日本テレビ系列で放送されたの30分番組です。当時の裏番組に『アップダウンクイズ』(毎日放送制作)や『マジンガーZ』(フジテレビ系列)、『お笑いオンステージ』(NHK)などに押され、視聴率の確保に苦戦を強いられていました。

またドラえもんの声優も2クール目に入ると「富田耕生では、イメージが違う」という声も上がり、2代目となる野沢雅子に交代するなど、テコ入れを図ったそうです。その甲斐もあり、徐々に視聴率も上がっていた。収益自体も黒字で、1年延長の予定があったらしい。

日本テレビ版ドラえもん・ED
新オバケのQ太郎 オバQ誕生の巻/オバQ一家勢揃いの巻

Qちゃん年齢 オバQ一家勢揃い 1971年に日本テレビで放送された「新 オバケのQ太郎」は「ど根性ガエル」や「天才バカボン」で知られる東京ムービー作品。

後のテレ朝・シンエイ動画作品とは異なるテイスト、テンポあふれるドタバタ、スラップスティック アニメとして抱腹絶倒な面白さ、だった記憶があります。昔はよく、再放送していました。

しかし、80年代にテレビ朝日でリメイクされたおかげで70年代 日本テレビ版はいまや完全に封印。DVD化もされず、もう観ることができません。YouTubeでも主題歌とエンディングくらいしかありません。これは日テレ版ドラえもんも同様です。

Qちゃんはこのマンガの吹き出しの通りなら昭和39年2月28日生まれなので、西暦に直すと1964年2月28日・・・つまり還暦を過ぎて61歳になっています。昔ファンだった往年のアイドルもそのような年齢の方々が多いですね。

新オバケのQ太郎 最終回
新オバケのQ太郎 最終回
サテハラタカ 1
サテハラタカ 1

サテハラタカサテハラタカサテハラタカ「これは、いい考えだよ!」と、早速取り入れることにしたQちゃん。だが、またいつものように滑稽な覚え方をして、笑わせてくれるのだ。この手のQちゃんの空回りな行動になにかと犠牲になる弟・O次郎に「何か用はないかい?」と聞くも「ナイラッタ」とあっさり返されるとトイレに入ろうとしたところでトイレットペーパーを持ち出し「あとで返すから」といって無理矢理「カ」とした。そもそも持ち物とか用事はないのに強引に進める時点でかなりおかしい。

続いてママに御用聞きにいくと、書いたばかりの「手紙をポストへ入れに行ってほしい」と言われて、これを「テ」と覚える。だが、まだ「カ、テ」の2つでは物足りない。そこで、今度は偶然訪問してきた牛乳屋の集金に対して玄関で対応しながら、「これをギュとおぼえる」と言っただけで「はらってくれないの?」と問う牛乳屋に対して「あん心しなさい。わすれないから」と言い残して放置。にしても「ギュ」ってwww ここまで覚えたQちゃん。なんと、しばらく部屋に戻ってゴロ寝しながらまんじゅうとか食って、しばらくくつろいでしまう。トイレのOちゃんは? 牛乳屋の集金は? どうなる!?

でもって「さて、そろそろ思い出そう」とようやく起き上がったQちゃん。「カ、テ、ギュ。ちゃんと覚えてる」と悦に浸る。もうこの「カ、テ、ギュ」という響きだけで、笑いがこらえきれんwww 覚えた数もたった3つだし、なによりなぜ「ギュ」?やはりここがツボだwww

「オバケのQ太郎」は、シリーズを通じてこういう奇想天外なマヌケっぷりをQちゃんが毎回披露して笑いをとるのが定番だ。だが、話はこれでめでたくは終わらないのもまた定番。Qちゃんは、たかだか数分の間に「カ、テ、ギュ」のワード以外はみんな忘れちゃっていたww「カ……、はてな? カって何だろう?」、「テって、何だったかなあ」なんて調子。

だが、「ギュは、牛にゅうだっ!」と速攻で思い出したところで、ギャグの爆弾が炸裂!Qちゃんは牛乳屋の待つ玄関には行かず、冷蔵庫の牛乳をゴクゴク飲んで「ギュはこれでよし」とご満悦。さらに、トイレで紙を持ちだされて「カミラッタ!」と騒ぎはじめたO次郎に気付き、「そうそう、カは紙だった」と、ママから預かった手紙を渡してしまう。

それで「テというのが、わからない。だが、あきらめないぞ。ええと…」と座り込み、文句タラタラの3人をよそ目に「うるさいなぁ、思い出せないよ!」と、最後まで自分がしでかしたことをに気が付かないまま話は終わる。オチ自体は割とあっさり締める形となっている。

サテハラタカ 2
サテハラタカ 2

ここでのインパクトは、やはり「カ、テ、ギュ」の響きのマヌケっぷりと、「ギュは牛乳だ!」で牛乳を飲みに行くという、頭の中は食べ物しかないQちゃんらしいカン違いの2点になる。
1971ー72版新オバケのQ太郎「いつになったら食べられる」

新オバケのQ太郎 いつになったら食べられるYoutube投稿者のコメントより
1971年9月から日本テレビ系列で放送されたアニメ「新オバケのQ太郎」の一部を紹介します。大変劣化していて画像が悪く見苦しいと思いますが、現在では視聴そのものが難しくなっていますので、よろしければどうぞ。

今回は1972年放送の第67話「いつになったら食べられる」。絵コンテは富野喜幸さん(現・富野由悠季さん)です。

新オバケのQ太郎 いつになったら食べられる
新オバケのQ太郎 いつになったら食べられる
新オバケのQ太郎op

新オバケのQ太郎前作の連載終了後「もう一度Qちゃんを見たい」という読者の要望が多く寄せられていた。その声に答える形で小学館の学習雑誌にて新キャラクターのO次郎が登場する『新オバケのQ太郎』の連載が1971年から1973年まで続けられ同時にアニメ『新オバケのQ太郎』も放送された。

新オバケのQ太郎の放映期間
1971年9月1日~1972年12月27日、日本テレビ系毎週水曜日19時30分~20時。全70回(135話)

新オバケのQ太郎ed オバQえかきうた

新オバケのQ太郎はリアルタイムで見ただけあって、当時の記憶がよみがえってきます。TBS系列の青森テレビ(ATV)では、何度も再放送されていました。