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スチャラカでスーダラな日々

故・植木等氏の御冥福に因んでkeiのスーダラな日々を紹介します。故人の映画のようにスイスイと軽妙な人生を送りたいものです☆彡

あの日の I LOVE YOU / Mi-Ke

あの日の I LOVE YOU  Mi-Keあの日の I LOVE YOUは1991年6月13日発売されたMi-keの3rdシングル。収録が2番目の曲なので3rdシングルのブルーライト ヨコスカの影に隠れて中々聞く機会のない曲となっています。

あの日の I LOVE YOUは作詞:秋元康 作曲:川島だりあ が手掛けていて、プロデューサーの長戸大幸さんから離れた大変珍しい楽曲です。歌詞を聞くなり女性が作詞したのかと思いましたが、さすが女性歌手の作詞とプロデュースに長けている秋元康ならではです。作曲もキレイな感じに仕上がっていて、Mi-Keの中では個人的に一番の名曲だと思っています。YouTubeにMi-Keの唄っている動画がないのが残念です。

あの日の I LOVE YOU  Mi-Ke
あの日の I LOVE YOU Mi-Ke

Mi-KeMi-KeMi-Keあの日の I LOVE YOU / Mi-Ke

あんな 遠くへ行っちゃった
あの日の I LOVE YOU !
もしも 今なら
もう少し上手に
愛を伝えられたよ WOW…

なんか あたしじゃないみたい
どんよりしちゃって…
眠れないのは
さっき降り出した
雨のせいにしちゃおう…

*街で偶然 観かけた彼が
 どんな女(ひと)と歩いてようと
 それが それがどうした?関係ないでしょう?
 そうよ そうよ びっくりしちゃっただけよ

時は すべてを 忘れさせる
魔法のようだと
いつか 誰かが
言っていたけれど
今夜は効かないみたい

*街で偶然 観かけた彼が
 どんな女(ひと)と歩いてようと
 それが それがどうした?関係ないでしょう?
 そうよ そうよ びっくりしちゃっただけよ

 なんか眩が熱くなって
 泣いちゃいそうだから
 ブランケットを顔まで被って
 愛を寝かしつけよう…

Mi-Ke
あの日の I LOVE YOU Mi-Ke
Mi-Ke - ブルーライトヨコスカ

Mi-Ke ブルーライト ヨコスカ Mi-Ke ブルーライト ヨコスカ ブルーライト ヨコスカは、1991年6月13日発売されたMi-keの3rdシングル。もちろんこのタイトルはいしだあゆみの大ヒット曲「ブルーライト・ヨコハマ」のパロディー。

イントロでは流麗なオーケストラからスタート、そして一転エレキ歌謡へとチェンジするマイナー・ポップ。ベンチャーズのサウンド・エッセンスをふんだんに取り入れたこのサウンドは、まさしく昭和“エレキ路線”への回答。

Mi-Ke流 歌謡曲の極意がサウンドの隅々に刻まれている。プロデューサー長戸大幸のセンスがよく理解出来る一曲。オリコン最高位13位。

Mi-Ke ブルーライト ヨコスカ
いしだあゆみ - ブルーライトヨコハマ

ブルーライト・ヨコハマブルーライト・ヨコハマ LP「ブルー・ライト・ヨコハマ」は、いしだあゆみの楽曲。1968年12月25日に26作目のシングルとして発売された。

横浜の代表的なご当地ソングであり、横浜市による「横浜市のご当地ソング」アンケートでは2位の童謡「赤い靴」を大きく引き離して1位となった。2008年12月からは京急本線の横浜駅で接近メロディとして使用されている。

いしだあゆみの代表曲であり、累計150万枚を超える売上を記録するミリオンセラーとなった。自身初のオリコン週間1位を獲得し、1969年の年間チャートにも第3位にランクインした。本曲でいしだは1969年の『第20回NHK紅白歌合戦』に初出場を果たした。

作曲者筒美京平にとっても初のオリコン週間1位獲得曲である。筒美は本曲で第11回日本レコード大賞・作曲賞を受賞した。作詞者の橋本淳が麻雀友達のいる横浜に遊びに行った時に海を眺めていて発想した。

当時の横浜の海は灯りがなく真っ暗だったが、遠くに京浜工業地帯の灯りが青く光っていたのでフランス・カンヌの夜景の美しさを重ね合わせた歌を制作。

最初タイトルを『ブルー・ライト・カワサキ』にしようとしたが、それを筒美に電話で伝えたところ「“ヨコハマ”の方が良くないですか?」と言われて変えたという。

いしだあゆみ ブルーライト・ヨコハマ
ちあきなおみ - 喝采 #2

あれは三年前ちあきなおみ - 喝采ちあきなおみたまに弊ブログに登場する同居の相方との会話であれは2年前と連呼するのであれは三年前でねが?と言うオチから作ったブログネタです。

アラ還なので昔のことはよく覚えています。ちあきなおみが歌った歌だべ?あれは三年前で検索すると名曲の喝采が出てきました。

久々に聞いたあれは三年前。Youtubeでちゃんと歌詞を観たのは初めてです。瞬き1つせず、魂を込めて歌うちあきなおみさんに惹かれます。

「喝采」は、ちあきなおみの楽曲で13枚目のシングル。1972年9月10日に発売された。発売元は日本コロムビア。亡くなってしまった恋人を思いつつ、ステージで歌っているという設定の曲。

発売当時はちあきの実体験を元にして作られた「私小説歌謡」として売り出された。ちあきがデビュー前から兄のように慕っていた若手役者が岡山県浅口郡鴨方町(現在の浅口市鴨方町)に住んでおり、亡くなったという話を詞にしたということだが、作詞をした吉田旺はちあきのエピソードを知らずにこの詞を書いていた。

小倉駅が舞台で若松市(現北九州市若松区)出身の吉田が東京へ行く思い出を書いており、歌詞が出来上がってから、ちあきの体験と偶然似ていたため「実体験」とすることでプロモーションに活かすという戦略をとったといわれている。

ちあき本人は上記の通りの自身の経験と偶然似ていた歌詞から「歌いたくない」とマネージャーに言ったという。マネージャーは作詞者の吉田に対して「ちょっと辛い経験があって、それを思い出したようで」と説明した。

本楽曲の歌詞に出てくる「黒いふちどり」という部分は「縁起が悪い」「死を歌詞に持ち込むことはない」「いくら別れの歌でも殺す必要はない」と当初レコード会社や作曲者の中村泰士は歌詞を変えるよう提案した。

しかし作詞者の吉田旺は「いや、ここが核だから」と頑なに変えず、コロムビアに対して「喪に関する言葉は水商売の世界じゃ縁起がいいんです」と言って歌詞を死守した。

『第14回日本レコード大賞』大賞を受賞。発売されてから3か月での受賞は史上最短記録。1972年の『第23回NHK紅白歌合戦』で歌唱された。

ちあきなおみ - 喝采 #1
【星と森のロマントピア】天文台まである充実した施設

ニシムラ 40cm 反射望遠鏡 星と森のロマントピア 天文台「銀河」 弘前市の観光宿泊施設「星と森のロマントピア」を運営する財団法人は施設の老朽化などにより今後の営業を続けるのが困難だとして11月から全施設を休業すると発表しました。これは2025年9月20日に弘前市の「星と森のロマントピア」がホームページで発表したものです。

ロマントピアは経費の増加や設備の故障などにより昨年度の収支が大幅に悪化したため弘前市と協議していましたが大規模修繕の予算措置などはしないと提示されたということです。

このため運営する財団は営業を継続しても収支を回復するのは難しいとしてスキー場を除く全施設を11月1日から当面の間休業します。吉田支配人は、40人の従業員の大半を11月10日付けで解雇し財団を解散させる方向だと話しました。

星と森のロマントピア 天文台「銀河」の今後が心配です。ニシムラ 40cm 反射望遠鏡や寄贈されたミード28cm反射望遠鏡がありますが、管理しなければボロボロになります。星と森のロマントピアのサイトでは、当面の間の一時休業としていますが事実上の廃業になるでしょう。

星と森のロマントピアが11月から全面休業
星と森のロマントピアが11月から全面休業
ペルセウス座流星群 「流星クラスター現象」観測 (2025年8月15日)

ペルセウス座流星群 流星クラスター現象ペルセウス座流星群 流星クラスターペルセウス座流星群 流星クラスター 現象「三大流星群」の1つ、ペルセウス座流星群の活動が2025年8月13日未明ピークを迎えました。弘前市の天文台では珍しい「流星クラスター」が観測されました。

わずか1秒間に20個近い流れ星が一斉に流れていきます。「流星クラスター現象」です。撮影したのは弘前市にある星と森のロマントピアの敷地内にある天文台「銀河」です。2025年8月13日午前0時57分に北北東に向けた固定カメラで撮影されました。

★ロマントピア天文台「銀河」 山下諄さん
「保存されたデータをずっとチェックしていたんですけど、いつもとはちがうデータが出てきて、流星クラスターだというふうに思ったので」「SNSに投稿したんですけど、ちゃんとした研究されている方や、色々な方からかなり貴重なデータだというふうにおっしゃっていただいた」

ペルセウス座流星群は、2025年8月12日の夜から13日未明にかけて活動がピークを迎えていました。「流星クラスター現象」は世界でも観測例が少なく、SNSの投稿ではペルセウス座流星群ではさらに珍しいと国立天文台の渡部潤一上席教授も驚きのコメントを寄せていました。ペルセウス座流星群は8月24日まで見られます。

大量の流れ星「流星クラスター」青森の天文台が撮影成功

ペルセウス座流星群 流星クラスター現象
ペルセウス座流星群 クラスター現象
日本テレビ版ドラえもん・第52話 「さようならドラえもんの巻」(画像)

1973年のドラえもん1973年の ドラえもん1973年 日本テレビ ドラえもんジャイアンの母親は故人となっているほか、ヒロインのしずかちゃんの家には、お手伝いの「ボタ子」というキャラクターがいる。第2クールでは「ドラえもん」を追いかけて、未来の世界から「ガチャ子」という鳥型ロボットがやって来るなど、テレ朝版とは異なる設定が多い。

約1時間かけて声が入っている計6話を観賞した結果「これはこれで味があるな」と思った。今のドラえもんとは設定が違うパラレルワールドだが独特の雰囲気があった。封印されて黒歴史として扱われているのは勿体ない気がした。

2003年ごろに「日テレ版」について誤った情報がネット上で流布していることに気が付き、「真佐美ジュン」のペンネームで公式サイトを作った。虫プロ時代のアニメや、「日テレ版」を豊富な資料で紹介する内容だった。

私としては昔『日テレ版ドラえもん』があったと言いたいんです。昔は『とんでもない作品』とか、カラー作品なのに『白黒だ』とか別のものが『これが日テレ版のセル画だ』とか間違った情報が出回っていたんです。それが嫌で『一生懸命作ったアニメですよ』と言いたくてサイトを作りました。自分で作った作品だから愛着ありますね。『こういう作品ですよ』と見せたいというのが僕の活動の根底にあります。

「日本テレビからも最初から4〜5%取れればいいという話で始まって、5%は取っているんですよ。当時は、ドラえもんはマイナーな作品で、小学館の学年誌でしか読むことができませんでした。日テレ版の全国放送が終わってから徐々に人気が出てきたんです。それは、日テレ版の影響だったと思っています」


1973.9.30に放送されたCM
日本テレビ版ドラえもん ・ 第41話 「宿題お化けが出たの巻」(画像)

1973年 ドラえもん変顔ドラえもん(日テレ版)セル画 のび太1973年 のび太 セル画ここは、東京の郊外にある下崎闊(しもさき・ひろし)さんの自宅だ。虫プロダクションで手塚治虫の秘書をした後、日本テレビ動画というアニメ会社で「日テレ版」の制作主任として、発注やスケジュール管理を取り仕切っていた。

下崎さんは「日テレ版」のフィルムを会社から購入して、自宅に秘蔵していたという。そのフィルムを保存用にDVD化したものを2017年11月、個人的に見せてもらった。

日テレ版は、現在のテレ朝版とはテイストがかなり違う。のび太は悪ガキっぽいし、ドラえもんは間が抜けている。ドタバタギャグだ。

視聴率低迷のテコ入れのためか、第1クール(1〜13回)と第2クール(14〜26回)でドラえもんの声優が男性から女性に代わっているのが特徴だ。前半は『平成天才バカボン』の「バカボンのパパ」を手がけた富田耕生。

2クール目からは後に『ドラゴンボール』の孫悟空の声で親しまれる野沢雅子に声が変わり、ボーイッシュで元気なキャラになった。

ジャイアンは体格が良くて力持ちだがガキ大将っぽくない。むしろ裕福な家に住んで威勢がいいスネ夫が子供の間で威張り散らしていた。

さらにジャイアンの声を担当しているのは、テレ朝版でスネ夫を担当した肝付兼太のため、注意してみていないと、どっちがどっちの台詞なのか混乱してしまうことが必至だ。


日本テレビ版ドラえもん・第44話 「まんが家修行の巻」(画像)
日本テレビ版ドラえもん・第42話 「お天気ボックスの巻」(画像)

1973年 ドラえもん ヘリトンボ1973年 ドラえもん のび太国民的なアニメ『ドラえもん』には全く再放送されない幻のバージョンがある。1973年に日本テレビ系で全国放送されていた通称「日テレ版ドラえもん」。視聴率は振るわず、僅か半年で終了した。その6年後、現在まで続くテレビ朝日系での放送が始まるのとほぼ同時に「日テレ版」の再放送は一切なくなった。最後の再放送は1979年8月3日の富山テレビだ。

それから40年以上が経った。「日テレ版」は、ビデオやDVD、ブルーレイなどのメディア収録されることもなく、『ドラえもん』の関連書籍でも触れられることの少ない「幻のテレビ番組」だ。

「ひどい作品と言われることもありますが、そんなことはありません」そう言って、東京郊外で初老の男性がDVDプレイヤーを起動した。

液晶テレビからは、今のテレビ朝日版とは全く違う『ドラえもん』のオープニング映像が流れた。「ぼくのドラえもんがまちを歩けば、みんなみんなが振り返るよ」と、演歌のような女性ボーカル。それに合わせて、ドラえもんとのび太が「ヘリトンボ」で飛んでいく。


日本テレビ版ドラえもん・第43話 「ぼくに清き一票をの巻」(画像)
日本テレビ版ドラえもん・第35話 「潜水艦で海へ行こうの巻」(画像)

1973年 ドラえもん 変顔日テレ-ドラえもんこうして、原作者のクレームを受ける形で、日テレ版の再放送は中止された。現在に至るまで放送されることのない“幻の作品”になったのだ。2007年当時、計8話分のフィルムが保存されていることが、『イマジカ』への取材でわかった。

熱心な藤子ファンからは再公開を求める声もあるが、具体的な動きには至っていない。赤座がこんなことを言っていたのを思い出した。「もう二度と放映されることはないと思いますね」。

取材・文/『ハフィントンポスト』日本版ニュースエディター 安藤健二


日本テレビ版ドラえもん・第36話 「くるったハラ時計の巻」