あなたがあなた自身を見つめ、人生晴れの時も大雨のときも大嵐のときも「自分」を手放せず生きていけるように。そんな想いをこめたブログです。
お久しぶりです、まるこです今日もこのブログにお越しくださってありがとうございます最近、あたらしい環境になりバタバタとしていたのですが、今日はゆっくりとできるので久しぶりですが、記事をアップしたいと思いパソコンを開けました新しい環境にはいって思うのは、新しい人間関係。まるこの引っ越し先はとても小さな町で、皆さんがどこかで繋がっています。笑Aさんに「私、先日Bさんという人とこの前会ったんですよ」というと、、、Aさん「あーBちゃんね!あの子私のいとこの奥さんよ」ということが割と多いです。東京に住んでいたことがあるまるこにとって、特に「居心地が悪いなぁ。。。」と思うことはいまのところはないのですが、、若干自分の中で一歩引いて客観的に状況を捉えようとしている部分があります。気持ち的には、今すぐにでも馴染みたいという部分もありつつだけど、周りの人間関係も把握しながら注意深くやっている自分に気づくと、「一体まるこは何を気を付けているんだろう」とおもうところもあるんです。まるこはもしかしてメンタル豆腐(傷つきたくないだけ)なのか・・・?と考えてしまうのですが、親友ちゃんと先日話したら、親友ちゃん「まるこって、自然が多いのびのびできる田舎暮らし合ってるとおもうけど、多分人間づきあいは、たくさんの人をバックグラウンド関係なくまきこんでワイワイするような感じがあってると思うよ(彼女的には都会的なつきあいという意味)」と言われ、妙に腑に落ちた部分があります。というのも、まるこは妙に、知り合って間もない人から言われる例えば「あそこの家のCさんってね、、」みたいないわゆる噂話がなかなか受け付けなくて後ろめたい気持ちになってしまうからなのかな?もしくは、その方とそこまで深く話す必要はないなと前もって一線を引いているからなのか・・・。Cさんと話すときに、そういうことをあんまり考えたくないというか。まぁ、結局これって自分次第なのでしょうが。初対面・知り合ったばっかりの人とそういう話はあまり受け付けない性格なのだと思います。お互いまだ知り合って間もないのだから、他の人よりお互いの話をしましょうよとなってしまうわけですね。けれども一方で、そんなこだわりばっかり持っていると、懐疑的になってしまうので、最近のまるこは「聞き流す」を習得中ですこれから新しい生活、どうなるのかな。不安や期待が入り混じっていますが。またご報告させていただくので、ぜひお付き合いくださいませそれでは。まるこ
お久しぶりです、まるこですこのブログに足を運んでくださっているみなさま、どうもありがとうございます感謝感謝ですいやーやっぱり、三日坊主とは、まるこの事ですね少しペースが崩れるとあっという間にブログを書くことから遠ざかってしまいました。「まるこは熱く冷めやすいんだよー」と昔から友人によく言われていたのですが、日々痛感しておりますいつも季節ごとに、なにかにハマって、時がすぎると何事もなかったかのように他のことに夢中になるんですねぇ。試験勉強などで、十数ページの課題を取り組んだりするときなんかもそうだったんですが、90%の割合で集中力が切れて他のことをしてしまします。笑。ただ、それが自分の興味分野であれば20,30ページなどはあっという間に解き終わってしまうのです。よく、「こういうところ直したいなぁ」「なんかそういう遺伝子なのかなぁ」とか原因追及ばっかりして、結局何もせずにまた同じことをしてしまう、そんな自分が最近可愛いなとさえ思い出しております人間関係においては、周りをみながら、その状況において自分があるべき立場を割とすんなり判断して行動に移せる(と自分では思っている)のですが。自分の趣味なんかになると、まさに「諸突猛進」もしくは白黒ハッキリ「あるか・ないか」の中間がないパターンをいつも生産してしまいます。最近よく、自分の精神年齢というか、性格について深く知りたいなぁと思い、色んな人と自分について話したり、性格診断というものをやってみたり。「自分って自分の事どのくらい理解してるのかな」なんて考えることが多くなりました。他の人とお話しすると、度々このような回答をいただけたりします。「物腰柔らかなんだけど、熱い部分もあって芯がしっかりしている。かと思うと脆い部分もあって、そういう人間らしい部分がまるこの人望を集めている」というコメントをよくいただきます。ふむふむ、なるほど・・・といつもこのようなコメントをもらうととても興味深く思います。まるこ自身、このようなコメントを踏まえたうえで、自分のことは「意識的に物腰を柔らかくして警戒心をもたれないようにしている。熱しやすく冷めやすい部分があるけど、定めた大きな目標はどれだけ時間がたっても全力を尽くして達成しようとする。芯がしっかりしている、というよりは自分がやりたいと決めたこと、正しいと思うことに対して他人に否定的意見を求めないから、迷いを感じることが少ない。たまに頑張りすぎて燃え尽きるけど人には言わない。だけどそれがダダ漏れだから(笑)、周りはそういうところを観察して愛らしいとか、見守ってあげたいと思ってもらえる。そういう人たちに対して何かお礼をしてあげたい欲求もダダ漏れだから、人望というよりも、周りの方が見放さないでいてくれる。」という感じです昔と変わったなぁーと自分でも分かる変化は、過去との関わり方・失敗との向き合い方かなぁと思います。今まではよく「今まで自分が選択してきたことに対して一切の後悔はない!」と言い切っていました。もちろんその奥底には「そう信じたいから」という気持ちがあるからなんでしょうが。そう強く思っていると、周りに「あーあの時こうしておけばよかった・・・」という後悔の念を話す友だちがいると、「自分の人生なんだから、自分が肯定してあげなきゃ!」とか「後悔してても別になにも変わらないよ!」とか、割とセカセカ煽っていたような気がします。最近は、心境の変化なのでしょうか、それとも年のせいか(笑)、少し考え方も変わってきた自分に気づきます。「人生、何か始めたり挑戦するからこそ失敗とか挫折の繰り返しがあるし、自分の今の状況を受け入れられなかったり大嫌いな時期があってもいいよね。」・・・今なら、あの時話をしてくれた友達にこう言ってあげたいなって思います。だから、後悔だってしたっていいし、あの時こうしておけばよかったって、自分の言動を反省したっていいんだし、無理に今の自分を好きにならなくていい。そう強く思うようになりました。「こんなはずじゃなかった」って、そう思って達成できなかったことに対して悲しんでる自分を無視せずに気づいてあげること。無理してその気持ちを無視して「まだやれるまだやれる!」って自分の「今」を押し殺さないこと。そんなの当たり前でしょって、言われるかもしれませんが、まるこはそれがぜーんぜん、出来ていませんでした理由も今なら何となくわかります。「できない自分」を「周り」に見られたくなかったからです。「出来ないまるこ」を見られて「周り」に馬鹿にされたくなかったから。「あんなに張り切って、失敗してるじゃん」って思われたくなかったから。ずーっと、「できる自分」でいたかった。おそらく、心境の変化があったのは、その「周り」っていったい誰だ?って考えだしたことからかなぁ?って思います。今までわたしの「周り」はあいまいな定義で、まること会ったことがない、連絡をとったことがない人とか、家族の知り合いとか、ともだちの知り合いとか、あんまり連絡をとらないお友だちとか、そういう人も自然に含んでいたというか。でも、家族とか、実際に頻繁に話をしたり会ったりする友だちとか、自分自身が大切に想っている人って、「できないまるこ」を四六時中(笑)みているわけで。さらに言えば、「理解してくれる人は理解してくれるし、理解してくれない人は理解してくれない」。色々な人と関わっていくなかで、世の中は私の脳内正義を中心に回っているわけではないことを再確認したとき、なんだかハッとしたものはありました。そして何より、自分自身が「こんなに頑張ってるのに報われない自分」を受け入れたくなかった。自分の望むものは努力すれば全部叶うって信じたかった。なんというか、ゼロと100の真ん中がなかったというのですかね。100ばっかりみてたから、自分の0,3%のその日の進歩を認めることができなかった。50になっても「まだまだ」70になっても「こんなのゼロと同じ」そして自然と「周りは私が100を達成すると信じているのだから」と、自分と他人を混合していった。100を目指して努力すること自体、正解も不正解もないと思うのですが、まるこの場合は、100を望みすぎて、その過程での自分の気持ちとかキャパシティーを完全無視していたのだと思います。だから、自分の弱さもただの邪魔者だと無視して、向き合おうとしなかった。でも、100だけを目指して得たものや学んだものもいーーーっぱいあります。だからこそ、なかなか手放せなかったのでしょうねぇ・・・最近はよくジョークも踏まえながら「来世はもうちょっと計画的に生きたい」とかそういうことも笑ってともだちと話せるようになりました。(以前の自分なら「そんなこと考えてる暇があったら、もっと現世を後悔しないように努力しなよ!」とか言ってそう笑)まだまだ未熟なわたしですが、これからも人生の波を、時にはおぼれながら、時には歯を食いしばりながら、時には肩の力を抜いてだらっとやり過ごしながら生きてゆきたいと思います長々と自分の事ばっかり書いてしまいましたね・・・。ここまで読んでくださった方、どうもありがとうございましたそんなあなたは、なかなかのツワモノだと思われます。笑それでは、今回はこの辺で失礼いたします。まるこ
こんにちはっまるこです。前回の記事の続きです。これまたもう一つ、考えや気持ちを伝えることの難しさを痛感したことがあります。まるこの友達に、ぷりんちゃん🍮というお友達がいます。ぷりんちゃん🍮は、と~っても仲良しのお友達で、頻繁に連絡を取り合う仲なのですが。ぷりんちゃん🍮がまるこに、何か相談をするとき、まるこはアドバイスを送るときがあります。まるこは仲が良くても出来るだけ相手に伝わりやすいように丁寧に伝えようと頑張ります。アドバイスを伝えると、ぷりんちゃん🍮「まるこありがとうねぇ!まるこのアドバイスを参考にもう一回頑張ってみる」と言ってくれます。・・・でも、しばらく経つと、また同じ内容の相談をされることがよくあります。その都度よく話を聞いてみて、意見が変わらないときはまた同じ内容のアドバイスをします。この流れが5,6回もしくは数か月続くと、まるこもいよいよ「この人・・・私の話、聞いているのかしら?私の言い方が悪いのかしら・・・?どういう風に言ってあげれば伝わるのかしら。。。」と不安になります。わざとじゃないことは分かっているので、イライラはしないのですが、「なぜ伝わらないの?」と思うことが何度かありました。そしてある日、ぷりんちゃん🍮からまた連絡がありました。彼女はこういいました。ぷりんちゃん🍮「まるこ、何回もいままで同じアドバイスしてくれてたのに、ごめん。気づいたんだけど、私はまるこに言われたこと頭では100%理解してたつもりだったんだけど、実際に経験して初めてまるこのアドバイスの意味がわかったの。」まるこはその瞬間うおおおおお~~!!!と、と~っても嬉しくなりました。と同時に「あは」体験とでもいいますか、なるほど、そういうことだったのか!とも思いました。私だってそうだ。教習所に通っているとき、先生に運転技術についてああしなさい、こうしなさいって言われて、頭では十分理解できて「なるほど」「はい」「分かりました」って納得したのに、実際にやってみると全く行動に移せていなくて、何回も失敗を重ねてようやく先生の言っている意味が分かったこと、あったあった~~!いくら自分が丁寧に分かりやすく説明したって、伝わるか伝わらないかは相手の過去の体験や経験値によって、伝わり方も変わってくるから。だから、「何回も言ったんだから、もう分かるでしょ?」は自分にとってもよくないなぁと。そう再確認しました。こういう、小さな気づきなんですけど、自分がどれだけ自分の思い込みの中で判断しているか、気づかされました。人間って、ほんとうに面白いなぁ。やっぱり自分が思っている以上に、人間関係を築いていくって時間のかかるものだし、築いていけることって、尊いものだなぁと思った、そんなまるこでした。長文失礼いたしました。ここまで読んでくださってありがとうございますまるこ
こんにちは、まるこです♪今日もこのブログに足を運んでくださりありがとうございます。突然ですが、あなたは自分が相手に話していることが100%伝わっているという自信がありますか?それとも、伝わっていないかもしれないと意識しながらコミュニケーションをとっていますか?もしかすると、そういうことを考えたことがなかったという方もいらっしゃるかもしれません。先日、知り合いのカップル同士で観察した+私も当事者として起きたミスコミュニケーションがあったので、少しお話させてくださいね。付き合って間もないカップルAちゃんBくんがおり、ある時みんなで飲み会をしよーという話になりました。私は、どちらかといおうとBくんとよく連絡を取り合っていたので、彼に当日のことについて少し話しておこうと思い、連絡をとってみました。以下、会話形式でお楽しみください。まるこ「当日はどうしようか?ところでAちゃんってなにか好きな食べ物とか、特別うちで(飲み会開催場所)でやりたいこと、ないかなぁ?」Bくん「俺は〇〇が食べたいな、あと〇〇もしたい。Aちゃんが何したいとかは分かんない。」まるこ(心の中:間接的にAちゃんに聞いてほしいんだけどな・・・苦笑)「じゃあ、Aちゃんに私からも聞いてみるねぇー!」その後、Aちゃんに連絡を取るまるこ。まるこ「当日なんだけど、Bくんに聞いたらAちゃんとあんまり当日のこと話してないみたいだから、連絡させてもらったよー!何か食べたいものとか、やりたいこととかあるー?まるこはせっかく2人が来てくれるから2人が食べたいものとかやりたいことを用意しようと思ってるよ♪」Aちゃん「わざわざ連絡ありがとう!Bくんとこの前それについて話したんだけど、なかなか伝わっていなかったのかも。。〇〇と〇〇がいいかなぁー」・・・・。ふむふむ。まとめると、まるこ:当日は2人がやりたいことを優先したい。Bくんと連絡を頻繁にとるので、Bくんが出来ればAちゃんに聞いてほしい。それがBくんに間接的には伝えたつもり。Aちゃん:まるこのメッセージは受け取っていてBくんには伝えたつもり。Bくん:Aちゃんの考えは分からない。自分の考えは伝えた。自分がやるべきことはやっているつもり。3人とも「つもり」です。笑結局最後はまるこはAちゃんに直接聞いて全ては解決しました。今考えると、むしろ最初からまるこがAちゃんに話しておけばよかったんですよね。でも、ここの味噌って「今考えると」というところだと思います。私は、Bくんが「きっとAちゃんに聞いてくれる」という思い込みや期待がありました。それはきっと、今までのBくんとの関係性や「恋人同士とはこうあるべき」みたいなのがあったからだと思います。だからこそ、「じゃぁ次回からは、こうしよう」と思えるのですよね。そして、こういう行き違いを繰り返してお互い少しずつ少しずつ理解しあっていくのかなあと思います。と同時に、こういうことって、日常茶飯事で起こっていることなのかなぁ?とも思ったりもします。つづく・・・
お久しぶりです、まるこです。20日間くらい間があきましたが、書くネタがなかなか見つからず無理して書いてもしょうがないよなぁ、と思い少しお休みしておりました20日間の間、おともだちと深~いお話ししたりしてちょっと考えるところもあったので、今日は少しそのことについて書いてみようかなぁと思います。おともだちとはやはり、恋のはなしをすると妙に盛り上がります。最近話していて本当によく考えるのが、「恋をすると、目の前が見えなくなる」ということ。悪い意味?で言えば「理性」を失うっていうことなのかなぁ?我に返ってみると「なんでこんなことしちゃったんだぁ・・・」と思うことがよくあるよねぇ~と実体験を話しながら盛り上がっていました。笑難しいですよね、自分が大好きな人が目の前にいて冷静でいられるって。おともだちAくんは、すごく関係が上手く行っていたと思ったのに突然パートナーから別れを切り出されたり。そのまたおともだちBちゃんは、想いを寄せている人に彼女がいるのを知っているのに、抑えきれず。。結果的にその人を傷つけるような言動をしてしまったり。まるこ自身も、若いころは後先考えずにとにかく突っ走ってしまう傾向がありまして・・・。今となっては「あー申し訳ないことしたなぁ」とか「あーこじらせてたなぁあ」とか思う事多々ありますね。そういう風に考えていくと、恋愛だけに限らず、感情に自分が支配されているときって、理性をはたらかせて物事を考えられないときってありませんか?例えば、悲しみに覆いつくされているとき、「自分には価値がない」とか「人生お先真っ暗」とか。(そこまでいかないか!?)まるこはたまにあるんですけども。笑そういう時の判断って、割と後から冷静に考えると「なんだこりゃ」って思ったり、そこまで考え詰める必要もなかったのになぁと思ったりします。きっとそれも気づきなのだと思います。気づけることって本当に素晴らしいことだとここ最近実感しています。なぜかというと、気づけたら、また新しく選択することができるからです。「この時(過去)は、こう感じていたから(感情)から、こう考えたり(思考)、こうしよう(行動・計画)と思っていたけど、今(現在)、落ち着いた状態(感情)で、もmうになったからです。悲しいときは悲しいし、そこは悲しい自分を思いっきり同情してあげて。むしろそういう時は、心の許せる人と会話して、思考の悪サイクルにハマらないように集中して。しばらくして落ち着いたら、また考え直してみたり、悲しい感情がないときに、何かを決断したり。これが正解!ってことを言いたいわけでは全くございませんむしろ、何かほかにアドバイスなどあればコメントなども大歓迎なので、お待ちしておりますー今日はこれで失礼いたします、まるこ
ごきげんよう、まるこです今日もこのブログに足を運んでくださってありがとうございます。今回は何となく箸休め的な内容がいいなぁ・・・と思いたってので、過去に何度か起きた「ん?なんだこれ?」な経験を書いてみようと思います。というのは、ただこの前友達にたまたま「その」話をされて、あーそういうこともあったなぁと思いだしたからだけなんですけど、あなたにとって今日1日数分の気晴らし程度の話になってくれたらなぁと思うので書いてみますね。全て過去に起こった話です。1.息苦しさと、ガンガンする頭痛数年前、友だちと会う約束をして、待ち合わせ場所で待っていました。少し遅れてその友だちが来た瞬間、急になにか息ができない息苦しさ、そして何かに激しく打ち付けられているような頭痛のような症状が。「なんなんだよー、せっかく久しぶりに会えたのに。」と思いつつも何も言わずにカフェに入り世間話を始めました。数時間すると、その友人が急に堰を切ったようにずっと悩んでいた相談事を話し始めました。その瞬間、その息苦しさと頭痛が何事もなかったかのように言葉通り本当にスーッと身体の中から抜けていく感覚を味わいまして。彼女が話し終わった後、「ねぇねぇ、その話会う前からずっと話そうと悩んでた?」と聞くと「本当は言わないでおこうと思ってたんだけど、まるこの顔みたらやっぱり話しておきたいって気持ちが強くなって、言っちゃった」とのこと。何だったんだろうと数年たった今でもたまに思います。2.電話してみたらまるこが大学時代、とても仲の良いともだちがいまして。大学は違うし、住んでる県も違うのですが、多い時には週5,6回もあったり。笑 特にきっかけがあったわけではないのですが、ある日意味もなくふとまるこが電話をかけました。そのとき「あーBちゃん?なんかさー大丈夫?」とこれまた特に意味もなく聞き、もちろん訳分からない電話だったのでBちゃんは「え?別に大丈夫だけど」。そりゃそうだ。と思って電話を切りまして。Bちゃんも電話のときは「まるこ、寂しくて電話してきたんかな。めずらし。。」と思っていたらしく。その数時間後、Bちゃんから電話がかかってきまして。「まるこから電話もらった後、急に顔がパンパンはれてきて大変なことになったんだよ。なんか知ってたの?!!」とすごい勢いでしゃべってきたのを覚えております。のちに分かったことなのですが、なんかアレルギーのものを食べてしまったらしく。まるで私は容疑者のような扱いを受けてしまいました(その前後、会ってもないのに)笑こういうこと、他にもたまーにあって、自分の中で「(。´・ω・)ん?」ってなるんですけど。あんまり考えないようにしています。でも、友だちとかと見えない力系のテーマ話すとどうしても盛り上がっちゃうんですよねほんと、関係ない話でしたっ笑それでは、失礼いたしますーまるこ
明けましておめでとうございます。まるこですここしばらく外出続きでブログを開いておりませんでした書き出すと止まらなくなるから、いつも「あー書きたいなぁ」と思っていても、書くのって思った以上に時間がかかるもんですよね2018年もこんなまるこを、どうぞよろしくお願いします。さて、前回に続き、今回は去年2017年に楽しかったこと・嬉しかったことをちょっと挙げてみようかなあと思います。1.自分のやりたかった仕事が数か月だけどできたずっと勉強し続けてようやく自分の願っていた仕事をおととしに続き1年ほど勤めることができました。現在は無職ですが、この経験はおそらく自分の中で忘れられないものになると思います。2.会いたかった友人に会えたなかなか会えない古くからの友人に会うことが出来たことは、自分の中ですごくリフレッシュになりましたし、時間の流れをとても感じ、感慨深くなりました。話していると昔の自分になんだか戻った気分?というか自然と笑顔が増えて昔話に盛り上がっているのが、なんだか幸せだなぁと思えました。他にも考えたら色々出てくると思うのですが、頭にすぐ浮かんできたのはこの2つでした。小さなことでも「自分が楽しかったこと」として認識していてすぐ書き出せたので、本心なのでしょう最近まるこは、なんだか人生の岐路に立っているような気分です。違う言葉で表現するのであれば、自分が出来るだけ毎日楽しい!と思えるために何をしたらいいのかの選択を迫られている、といいますか。。このままでもいいけど、このままじゃなくてもいい。だから自分の意志で決めていける。このことを毎日ひしひしと感じています。どちらを選んでもリスクがあって、学ぶものもあって、だからこそ自分で選ぶべき時期にきているのだと思います。今まで周りにとって何が一番がを基準に考えてきたから、まるこにとってすごくエネルギーを使う作業です。どちらを選んでも、何を選んでも誰も反対しないことは分かっていて、だからこそ「自分自身」が納得した答え・新しいスタートを選ぶ必要がある。そんなモヤモヤな2018年スタートです。それでは今回はこれで失礼しますね。みなさまにとって、実りのある1年となりますように。。。まるこ
こんにちは、まるこです。今日もこのブログに足を運んでいただきありがとうございます。2017年も残り1日。・・・・といいつつあまり年の移り変わりに興味があるわけではないまるこです記録を残すことは好きなのですが(昔の日記とか写真とか家にたくさんあります)、その年のマトメをしたり、どういう年だったかを考えるのはあまりしてきませんでした。・・・というと嘘になってしまうかもしれないのですが、、実際は「その年に起きたいいことばかりをつまんだ」ことは何回もあります。笑はい、終わりよければ全て良し丸出しなまるこです。だから、2017年の年末は今までとは逆パターンでいこうと思います。「その年に起きた、自分の思い通りにいかなかったことをつまんでみる」で。別にそれはネガティブなことでもなんでもなく、何か今後に繋げられる点がないかなぁと素直に思ったからです。昔は失敗したことは全部忘れるようにしてました。もちろんそれが功を奏したことはたくさんありますよ。と同時に、同じことを繰り返したときに次に繋げられなかったことも事実です。(私個人の経験からです)。「その年に起きたいいこと」は次回書いてみようとは思いますそれではかいていっきまーす「2017年、自分の思い通りにいかなかったこと」 自分が割と人見知りなこと(人見知りになってきていること)に気づいた 10年前の自分が見たら多分ぶっ飛び驚いていると思うくらいの変化だと思います。年を重ねるにつれてどんどん知らない人とアクティブに出会うことが少なくなってきました。心の底では、もっと交流の輪を広げなければ、、、と思っているので、「思い通りにいかなかった」点なのかな、と。 なかなか自分の望む仕事が見つからなかったこと まるこの職種などについては、のちのち気が向いたら話していこうとは思うのですが。競争率が高く応募数も少ないこと、そして何より自分ではどうしてもコントロールできない点があり、現在無職になって4か月です。悔しくて悔しくて、絶望的になったり、自分に問題があるのではないかと思い込んだり。自分が大好きな仕事ができない環境を受け入れることが辛くてたまりませんでした。大きくこの2点かなぁと思います。前回のブログでも書いたのですが、この2点を見てもまるこは「置かれた場所で咲く」ための自分自身のコントロールは、まだまだ改善できるのではないかなと考えています。人見知りになっているのは、「過去」の友人関係が恵まれていて、「現在」なかなかそういう友人に出会えない不満からなかなか思いをたつことができなかったり。仕事の面でもどんなに客観的に私には「待つ」ことしかできないと分かっていても、働きたいのに働けない現状を受け入れず自分や周り色んなこと・ひとを責めていました。そういう「思い通りにいかない」ことが起こると、全てを投げ出したくなる傾向があります。もしかしたらこのブログを読んでいるあなたにも共感できる部分があるかもしれません。けれど、それでもやっぱり自分の人生は、自分のものでしかないから、「今のじぶん」を受け入れてあげたいんです。「新しい友達ができなくて惨めな自分」「やりたいのにやれない無職の自分」惨めな気持ちの自分を受け入れたことは、正直今までありませんでした。「惨めだなぁ」と思う前に、それを忘れようとしていたからです。「忘れる」というのは記憶をなくす、ではなくて、怒りに変えたり、諦めたり、誰かのせいにしたり。あるいは「でも世の中にはもっとつらい状況の人がいる」とその気持ちを封じ込んだり。「こうしたい」自分がいるからこそ、思い通りにいかなくて惨めな気持ちになっているわけで。もしかしたらそれは、「ただ周りに、そういう(友達がたくさんいて仕事もバリバリできる)まることして認識してもらいたい」からなのかもしれない。または、「自分の価値観を広げて自分のリソースを社会に貢献したい」からなのかもしれない。あるいは「過去」にその2つが出来ていた自分と重ね合わせているから、今の状況を受け入れられていないのかもしれない。もしかすると、そのすべてが心の中にずっしりと潜んでいるのかもしれない。けれどもさて。私はこれからどちらを選びながら生きていこうか。どうすれば一番自分が納得いく生き方ができるのか。私が思い通りにいかなくても自分を手放さずに生きていくために、これからこの「思い通りにいかなかったこと」をじっくり受け止めながら年をこそうと思っています。それでは、失礼いたします。まるこ
こんにちは。まるこです。クリスマスだからと言い訳にしてブログから少し離れておりました。1週間くらい外出していたのですが、自分の意志でいきたかったわけではなく、、、。違う環境になかなか慣れずに昨日家に帰ってきたときは、疲れきっていました。そくいうときに限って、常に我慢ばっかりしているのでイライラとかがたまっちゃうんですよねぇ泣。「置かれた場所で咲きなさい」と頭では分かってるのだけれど、小さなことに満足できない自分に気づかずに、いつの間にか小さい石ころが大きな岩になって、爆発寸前になってました。でも、気づけたことが、いまはとても嬉しいです。気づいたら、次は罪悪感に襲われます。「なんであんな態度とってしまったんだろう」あのときの自分を責め立てようとします。なかなかそのサイクルから抜け出すのって難しいんです。気づけだからこそくる罪悪感。「ワガママだったなぁ」言ってしまったことを取り消したいとか、周りに勘違いされてしまったとか。あとからあとから、どんどん溢れてきます。でも、気づけたからなんですよね。だから、私はこの罪悪感を受け止めてあげようと思ってます。何日、何週間かかるかもしれないし、あしたには忘れちゃうかもしれないけど。今日はちょっと緩め落ち目のまるこでしたー!まるこ
こんにちは、まるこでっす。「クリスマスだから・・・」を言い訳にして食べたり寝たりゴロゴロしたり、自分を思いっきり甘えさせていますサンタさんもOK Google!って言うてますさて、前回のブログでは、「批判」「非難」「否定」の辞書的な違い、そして「批判」をするときの基本的な本来のスタンスについて私の個人的な意見をご紹介しました。今回は「非難」「否定」について、そして「批判」と「非難」をどう分けて受け止めていくか、についてお話出来たらなぁと思います。「非難」と「否定」を一連の流れで見てみましょう:「言ってる意味が分からないのですが。。」あなたは、こういう言葉を言ったことがありますか?まるこは、これは間接的に「もっと分かりやすく言ってよ」と本当は言いたいところだけど何となく丁寧に言おうと思って・・・結局「非難」しているのと同じことなんですね。相手がこれで感情的になるのはおかしいことではなく、うまく「批判」として受け取れなかった場合結局相手は「こんなことも分からないの?」とこれまた間接的に「あなた、馬鹿じゃないの?」と「否定(ものごと(相手の人格)を打ち消すこと)」することに繋がりかねません。うまく「批判」として受け止められる人は、「言ってる意味が分からないのですが・・・」と言われたら、「あぁ、この人は多分どういう意味が理解しきれていないから、私にもう少し詳しく説明してほしいんだ」と捉えることができます。批判を感情的に受け取って「私はダメなやつ」とか「もう忘れよう」とする前に前回のブログでお話しさせていただいたのですが、私は「批判」とは「自分の立ち位置を相手に伝える役割をもっている」ことだと思うんです。例えば「仕事が遅いなー」と上司のまるこ先輩に「批判」として言われたとき、それはあなたを否定しているわけでもなんでもなくて、まるこ先輩の仕事における優先事項だとか好みです。あなた自身のことが何か明るみにでるわけではありません。マルコ先輩の「仕事はスピード感が大事」という点をあなたが受け取るわけです。それを「非難」として受け止めた場合「なんであんたはそんなに仕事が遅いの?」と捉えてしまうことになります。「否定」として受け止めると「あんたって本当に出来ないやつだね。」です。・・・・でも実際「非難」してくる人、いっぱいいるじゃん?・・・って思ったりしてません?残念ながら「私は大事な後輩を成長させたいだけ」という気持ちで、無意識に「非難」や「否定」をしてくるまるこ先輩はたくさんいると思います。「私はあなたの〇〇と〇〇の部分を見ていて、すこしテンポを向上したほうがいいかな?と今思っているんだ。スピードがこの仕事をするうえで、〇〇を達成するために重要だと思っているんだけど(自分の価値観や正しいと信じるものを指し示す)、あなたは自分の仕事のテンポについてどう思う?あなたの人格を否定しているわけではないからね。そこは勘違いしないでほしい。あなたが仕事に慣れてくれるといいなと思って言ってるんだ。」と超絶ご丁寧に「批判」し、あなたとともにこれからどういう点を改善していったらいいのか「議論」をしようとしてくれる天使的マルコ先輩は、なかなかいないのではないかなぁ?という印象は受けます。自分の価値観や考え方を押し付けてただ単にぶつけようとすることはただの「非難」「否定」です。辞書にもあるように、「批判」は物事に検討を加えて、判定・評価すること。ということです。「検討」するということは、「物事を詳しく調べ考えること、よいかどうかを調べること」ということです。ですから、コミュニケーションを前提として「判定・評価していく」=「批判」するということだと思います。まる子自身、このことに気づいてから、とにかくまず自分の言っている言葉を気にかけるようになりました。相手に対してきちんと「批判」を出来ているか、「非難」や「否定」的になっていないか。自分の言葉に気づけていくと、わりと自然に相手の言い方にも気づけるようになったことは事実です。同時に、もともと感情的になっているときに議論をしようとすると、すぐ「あなたは間違ってる!!!!」と否定的になったりします。でも、しばらくして落ち着くとそれに気づくことはできるようになっているので、まぁ練習かなーと思うところもあります。ちょっと長くなってきたので今回はこの辺にしておきますね。また何か追加があったら書かせてくださいそれでは。まるこ
こんにちは、まるこです。今日もこのブログに足を運んでいただいてありがとうございます。クリスマスが近づいてきましたねーまるこは小学校高学年のときにお母さんに「サンタさんから今年は何がほしい?」と聞かれて「うーん・・・。なんだろうね。」と冷めた言葉で答えた年から、私の枕元にサンタさんは来なくなりました本当はずっと前から気づいていたけど、楽しみなフリをして「お母さんに嘘をついてる自分」が耐えきれなくなったからなんだろうなぁ。。。と、今となっては当時の自分をなんか可愛く思ってしまいますさて、今日は「批判」と「非難」と「否定」についてあなたと一緒に考えていけたらなぁと思ってこのブログを書きます。書こうと思った理由は、これらの言葉の意味や違いを認識して受け止め方を変えると、他人との会話の中で不必要に傷ついたり重く止めすぎないことに繋がるんじゃないかなぁ、と思ったからです。まず、私自身の経験として誰かに自分の行動や意見を取り上げられたとき、妙に嫌なきもちになったりしたことがあります。そういう時は、周りの人がやらないような多数派の「答え」とは異なることを発言・行動したときや、後から振り返ると自分でも「正しくなかったなぁ」と思うような言動をしたとき、という傾向があります。でも、「その時の自分」はそれが正しい・楽しい・やりたいと思ってやっているわけで、そこで同意・共感してもらえなかったから嫌な気持ちになっているんだと思います。もしくは、取り上げられたときに自分の中で「この人に自分の価値観を否定された」と無意識に解釈したりすることもあったかなと思います。そうなってしまうと、その「自分を否定された」という判断が「自分はダメなやつだ」になるまでの過程はそう難しくはありません。取り上げられた自分の意見や行動の内容なんかはどこかに忘れてどんどん悪循環にハマっていきます。ではそもそも、「批判」「非難」「否定」とは辞書的にはどういう意味なのでしょうか。ちょっと見てみましょう。 批判 1物事に検討を加えて、判定・評価すること。「事の適否を批判する」「批判力を養う」 2人の言動・仕事などの誤りや欠点を指摘し、正すべきであるとして論じること。「周囲の批判を受ける」「政府を批判する」 3哲学で、認識・学説の基盤を原理的に研究し、その成立する条件などを明らかにすること。 非難 人の欠点や過失などを取り上げて責めること。「不実な態度を―する」 否定 1そうではないと打ち消すこと。また、非として認めないこと。「うわさを否定する」「暴力を否定する」 2論理学で、ある命題の主語と述語の関係が成立しないこと。また、その関係を承認しないこと。 引用元:デジタル大辞林(小学館)文字からとるこの三つの違いは、以下のものかな?とまるこ個人的には思います。ものごとを→判定・評価・論じること(批判)→責めること(非難)→そうではないと打ち消すこと(否定)例えば「仕事が遅い」という一言を上司から言われたとき、この3つでは解釈も変わってくると思うんです。批判版:仕事はスピード感が大事だ非難版:仕事が遅い点を責める(仕事が遅い「あなた」を責めるとも受け取れる)否定版:仕事は遅いことを認めない(仕事が遅い「あなた」を否定するとも受け取れる)ここで気づいてもらえるかと思うのですが、「言い方次第じゃん。。。」って感じませんでしたか?と、同時に、本当は周りの人から「批判」されたのに、それを本人が「自分を否定された」と思う事はよくあると思います。逆に周りが無意識に「非難」していたのに、それを本人が「批判」と受け止めることもあります。そう考えると、言葉がどう受け取られるかは相手の言い方次第ですし、相手からの意見を、「批判」ととるか「非難」ととるか「否定」ととるかはわたし次第・あなた次第。「わたし」は相手の言葉を自由に操ることは不可能ですから、「わたし」にできることは、「相手からの言葉をどう受け止めるか」だと思うんですね。私は通っていた学校で「聞いたことを疑う=批判的な態度で聞く」ことを学びました。すると、無意識に「相手からの情報を聞き、疑わない」習慣がある自分に気づきました。「聞いたことを疑う」ことは全く否定的な意味ではありません。批判的な態度で聞くことは、私個人は以下のようなプロセスだと考えます。1.聞いたことをまず自分の中で解釈する(インプット)2.正しく解釈しているか不確かなら、相手の言ったことを理解しているか相手に確認する(アウトプット)3.相手の意見の解釈を同意したら、もう一度「それならその意見に対して自分はどう考えるか」と自分の価値観に耳をかたむける。(インプット)4.もし自分の中で納得いかないことがあるのであれば、相手に問いてみる(アウトプット)このプロセスを得て、最後の4.「相手に問いてみる」の部分が「批判」だと考えています。こういう風に考えると相手からの(相手への)批判は否定でもなんでもないことなんだと気づけます。もともと批判は、自分の立ち位置を相手に伝える役割をもっていると思うんです。話を戻すと、「批判」とは「あなた」に対する攻撃でも否定でもなんでもなく、相手の「正しい」「納得いかないこと」を「もっと知るため、認識するための作業」であるということですね。少し、「批判」についてまるこの考えがお分かりいただけましたでしょうか。より深く理解するためには「自らが批判する立場になって他の人と話してみること」だと思います。何か議論をするときに「批判」ではなく「非難」を自分はしていないか?次回は「非難」や「否定」、そして違いを認識しながら自分でどう受け止めていくのがよいか書かせていただきますね。それではまるこ
こんにちは。まるこです!今日もブログに足を運んでくださってありがとうございます。今日も一生懸命書きます。まるこはここ最近、いろいろ考えることがあります。大切なともだちが、人生の壁にぶつかっているとき、なかなか答えを見い出せないでいるとき、あなたなら友達としてどう接しますか?まるこは何だかまだ答えがみつかっておりません。その時その時によって内容も違いますし人によって壁の捉え方が違うと思いますから、これだ!っていう答えなんて、そもそもないのかもしれませんけど。話を聞いていると、色々アドバイスすることってどんどん溢れてくるんですけど、それを私が言うことでその人のためになるのか。その場限りの安心感を与えるだけで結局同じ問題に直面したときまた同じ事が起こるんじゃないかなと。特に考えがグルグル×2している友だちと話す時は上記の傾向がみられます。その度にわたしも「カウンセラー」や「専門家」ではない「友達として」どう対応したらいいのか考えます。わたしは基本的には自分の感じることは素直に「それって超不公平じゃん!」とか私自身が思うままに話すと同時に、「話しを聞いて頭の中をすっきりしてもらう」ことに集中します。けれど、ときどき「この接し方でこの人のためになっているのかな。」と疑問に思うこともあります。それは上記で説明したとおり、同じ問題に直面すると同じ問題提起で相談をうけるからです。相談内容がだんだん深刻になってきて、「つらい」から「消えちゃいたい」というフレーズがでてくると、わたしは友達としての自分の限界を感じます。聞く側としても、とてもとてもつらいものがあります。なにより、その人の「いのち」の尊さを強く感じます。私には私の時間があり、その友達が必要な時に話をしてあげられる保証がないことが、怖くなるのです。そのグルグルとした自分をどんどん傷つけていく感情/情緒がいつか衝動になり、行動を支配してしまうのではないか。なので、専門家の方への助けをかりることをおすすめするときがあります。ほとんどの人は「私はそこまでじゃないよ」と言います。そうかもしれませんし、そうじゃないかもしれなくて、そこは私には判断できないのです。けれど私はよくこう伝えます。「そこまでじゃない、と思えている段階で何か手が打てるほど、幸せなことはないんじゃないかな。」そして正直に話します。「これからまた失敗したりしたとき、その消えちゃいたいっていう言葉が本当に起こってしまいそうで怖い」と。私自身、学校がつらくてちょっとうつっぽくなってるなぁと自分で意識し出した時も、「カウンセリングにいくほどではないな」とか「薬とか出されちゃうのかな」とか色々な偏見がありました。専門家の方に助けを求める閾を、とても高くしていたのです。自分で決めて通いだしたときも「行ったからには早く治したい」とか「これで幸せになれるはずだ」とか過剰な期待を抱いたり。色々な思い込みや期待で、自分を見つめることから遠ざけていたり、自分で考えることから離れようとしていたことは、随分あとになってから気づきました。でも、気づくことができました。だからこそ、友達としての自分の限界を感じていますし、何とかしてあげてたいからこそ、だからこそ、なるべく早めに、手遅れになる前に専門家の方への相談を検討してもらうことをおすすめしています。あなたなら、「つらい」と訴える友達になんて言ってあげますか?まるこより
こんにちは、まるこです。今日もこのブログに足を運んでいただきありがとうございます。今日のあなたの数分をまるこがちょこっとお借りしますね。あなたには忘れてしまいたい思い出(記憶)がありますか?思い出すだけで自動的に嫌な気持ちがでてきたり、さらにはその日一日がなんだか嫌な日になったり。結果的に、そのことを思い出すことを避けていったり、関係するものすべてを避けようとする。私なんかをの実体験を例にとってみましょう。「大事な試験に落ちた」=忘れたい思い出(記憶)。その時のことを思い出すだけで無意識に嫌な気持ち(情緒)が波のように押し寄せてくる。「試験」という言葉を見る(刺激を受ける)と、自動的に当時の嫌な気持ちが蘇ってくる。結果、試験に落ちたを連想させる全てのもの(刺激)を避けだす。例:試験会場に近づかない、新しいことに挑戦しない、その会場にいた他の友人との会話をしなくなるでもある日、その自分の中に閉じ込めていた嫌な経験を人に話すことで、心がスッキリしたり、何か前に進めたような感覚になったことなんかも、ありませんか?以前までは試験会場を通るだけでそのことを思い出し、その日一日ブルーになったり心臓がきゅーっとちじこまったり嫌なことばかり考えるようになったりしていたのに、でも、人に話して共感してもらったり励ましてもらっただけで、別にその記憶が消えてなくなったわけではないのに、その記憶とうまく付き合えるようになったなんてこと。もしくは、次の試験に受かって成功したと自分が確信したとき、試験に落ちた過去は今の自分に必要だったんだと嫌な気持ちから急に良い気持ちに切り替わっていたり。上記の一連の流れを見ると、記憶(忘れたい思い出)を思い出すことによって生まれていた感情(情緒)が、嫌から嫌じゃないに変化していっています。でもそれとは逆の場合もあります。例えば大好きな歌があって、寝起きをよくしたいからその歌をアラームの音楽に設定してしばらくすると、あんなに大好きだったのに、その音楽を聴くだけで嫌な気持ちになってもはや大嫌いになったとか(笑)そういう事が起こるときって、脳の中で何が起きているんだろう?と考えたことはありますか? 例えば、いつも先生に怒られてばかりで「嫌な出来事の記憶」と結びついていた学校に、一人の転校生がやって来て、その人と楽しい毎日を体験するようになると、学校に行くことがいつの間にか「楽しい出来事の記憶」に書き換えられていたり、逆に「楽しい出来事の記憶」と結びついていた店で嫌な経験をすると、「楽しい出来事の記憶」は薄れて「嫌な出来事の記憶」に書き換えられ、その店から足が遠のいたりします。ところが、このような記憶の書き換えが、脳のどの領域でどのように行われているか、その神経メカニズムは明らかではありませんでした。 (引用元:理化学研究所)そのメカニズムについて神経科学の面から解明しようと、研究した人たちがいました。3年前の2014年になるのですが、イギリスの総合科学誌ネイチャーから出た論文があります。理化学研究所とアメリカの研究者の方たちの論文です。今のわたしの言語力ではうまく説明できませんが(笑)、理研さんからの発表資料はとても分かりやすく説明されていると思いますので、興味がある方はぜひ読んでみてくださいね♪原論文Bidirectional switch of the valence associated with a hippocampal contextual memory engram理研からの発表資料光で記憶を書き換える-「嫌な出来事の記憶」と「楽しい出来事の記憶」をスイッチさせることに成功-そのメカニズムをつかって、日常生活・職場環境で応用しようと紹介されている記事もこちらにあります。成功体験は不要。苦手意識を書き換える技術これを読むと、「理屈では分かってるけど、なかなか行動にうつせない自分」が、少し理解できたように思います。以上、まるこのおすすめ第二弾でした♪まるこのおすすめ第一弾もぜひこちらから読んでみてくださいね♪それでは失礼いたします。まるこ
まるこです。このブログにお越しくださってありがとうございます♪今日も一生懸命書かせていただきます。前回の続きです。前回のブログでは「ありのままの自分を好きになろう!」の違和感や、そうおもうことのタイミングなどを書きました。無理に好きになろうとせずに、そういうときは「時間をかせぐ」ことも大切なときもあるんじゃないかな、と。そう書いている理由は2つあります。ひとつは、思いつめて自分を責めすぎることを防ぐため。「自分なんかこの世にいても仕方ない」というところまで追い詰めないためです。そしてふたつめは、何も変化してないような毎日でも、あなた自身の感情・考え・価値観、周りの状況、社会のシステムは変化しつづけているから。だからこそ、時間をおいて考えてみると、違うアプローチ方法も思いつくこともあるからです。私自身がそのことに気づいたのは、大切な友人の一言があったからです。中学からの友人のももちゃんは、私が何か大きな決断をするとき、いつも私にこういいます。「変わることを恐れないでいいんだからね。」・・・なぜいつもそう言ってくれるんだろう、とあまり意味を深く知ろうとしていませんでした。むしろ、心の中では「私はどんな状況に置かれても変わらないし、いつだっていつものまるこでいるべきだ」と思っていました。小中高の同級生に会う時「やっぱりまるこは相変わらず、変わってないねぇ」と言われることが心地よかったですし、他の子が「あの子なんか変わったよね・・・」というコメントに対して、何となくいいイメージを持っていなかったのも事実です。でも、私は変わりました。価値観も、好きなものも、嫌いなものも。社会の見方も、友達との付き合い方も。以前なら絶対考えないようなアイディアが思いついたり、友達の付き合い方も全く違います。昔は考えもしなかったタイプの子と仲良くなることもありますし、昔はあんなに仲が良かったけど今は全く連絡もとらなかった子もいます。そのとき初めて、ももちゃんに言われたことを考えだしました。「ももちゃんが伝えたかったことって、こういうことだったのかも。。」と。ももちゃんは多分、「変わることは良くないこと」と思い込んでいる私に気づいて、この言葉をかけ続けてくれていたのだと思います。「まるこは変わってないねぇ」と周りに言われることで、そして「私は昔のまるこのままだ」と思う事で安心感を得ようとしていた私に気づきを与えてくれようとしていたのだと思います。そういうことで安心感を得ようとしていたから、実際は年を重ねてくなかで、どんどん価値観が変わっている自分を無視していました。気づいてても、「違う、私の正義はこれなんだから、この考えは間違ってると思う」と、跳ねのけていたこともありました。自分が信じていたもの・正しいもの・正しくないものに執着せず、自分の中や周りの変化に気づいていったら、違う景色が見えるかもしれない。だから、「時間をかせぐ」ときに、自分の中にある思い込みってもしかしてあるかも?って一旦立ち止まって考えてみると、違う景色が見えるときもあるのかなと思いこの記事を書きました。世界のどこかで同じ境遇にいるあなたの、少しでも役に立てますように。まるこ
こんにちは、まるこです。今日もこのブログに足を運んでくださってありがとうございます。初めて読んでくれるあなたも、読者になってくれているあなたも、目を通してくれていると思うだけで、まるこは超絶嬉しいです。今日も一生懸命かきますね。「ありのままの自分を好きになる」ってすごく良い響きですよね。こういう風に毎日を過ごせたらいいなぁとは、誰しも思うことだと思うのですが、ひねくれまるこは、ちょっと思うことがあるんです。今の状況になんだか満足してない時、無理に自分を好きになる必要はないんじゃないかなって。むしろ、「今の自分が嫌いだ」って素直に思えたほうが大事なときもあるんじゃないかなって。多分、意識の違いだとは思うんですけど、明らかに現状に満足してない中で、「でもありのままの自分を好きにならないといけないからそれでも自分を好きにならなきゃ」って思ってしまうと自分の考えや気持ちを閉じ込めちゃうことになるから。「今の自分が嫌い」って思うことは自分を否定しているわけでもなんでもなくて、「こうなりたい自分」がいることの裏返しで、むしろ「じゃあ、どうなれば自分を好きになれるんだろう」と考えるきっかけになるのかな?と。もちろんそれで「自分がダメなやつだ」と結論づけてしまうのは、よくないとは思うのですが、自分と向き合うきっかけにはなってくれると思うんです。人生の中で上手くいかないこと、自分ではどうしようもできないことっていくつもあります。それはその人の生い立ちや周りの環境によっても左右されると思いますし、ほんとうに「ひとそれぞれ」だと思うんですね。だから、人によっては「こうなりたい自分」を目指すまでに他の人に比べて明らかに遠い位置からのスタートになるときもあると思います。そのプロセスの中で失敗や挫折を繰り返しながら「前に進めていないとなぁ」って感じた時、「今の自分」を受け入れることが困難なときもあると思うんです。そういう時に「今を生きようよ!」とか「ありのままの自分を好きになろうよ!」って思おうとしても、多分その今はそこにフォーカスを当てるタイミングではない時もあるんじゃないかな?と思います。「今満足できてないのにどうやって今を生きればいいの?」とか「そう言われてもその状態からどう気持ちをもっていけばいいのか分からないよ」ってなることもあると思います。・・・とまぁここまでつらつらx2書けているのはもちろん私自身が経験したことだからですよ、もちろん(笑)これはまるこ個人の意見ですが、そういう状況に置かれたときは時間をかせぐことも大事かなって。どういうことかというと、無理に好きになろうとせず、一旦時間をおいてみる。答えをすぐ出そうとしない。それは、わたしたちは置かれている状況によって1秒1秒気持ちも価値観も変化していっているから。続きます。。。まるこ
こんにちはーまるこです♪今日もこのブログに足を運んでくださってありがとうございます。今日は久しぶりに昔の日記帳を開いてみました。たまーに開いてみたりするんですけど、かなりせつららに書いていることが、ちょっぴり恥ずかしくてあんまり読むことがないんです。今日は、10年前の2007年の1月の「わたし」を少し振り返ってみたいと思います。2017年1月14日(日)人に心を開くってどういうことなんだろう。なんか全然分からない。自分の本音言って、どうするんだろう。言ってはいけないと思う。言ってしまったら嫌われると思う。言わない方がいいと思う。なんか、いくら考えても分からない。何か言いたいことはあるのに何かが抑えてる。なんなんだろう?私は本当は出したいのに。自分が何者なのか分からなくてすごくもどかしい。分かり合うのに言葉なんて必要なのかな?でもなんか、言ってしまったら、私じゃなくなりそうで。空っぽになりそうで怖い。10年後の今また読んでみると、わりと冷静な自分がいます。他人のことにばっかり気をつかって助けになることで自分に存在価値を見つけて、自分に気をつかってあげることをしていなかった自分。だから、自分をどうあらわしていいか、そのスベが分からなかった自分。言わなくても分かってもらいたい自分。最後の「言ってしまったら、空っぽになりそうで怖い」というところが、当時の自分を表す本当にしっくりした表現だなぁと思います。外に出してしまうと、なくなりそうで怖かった。だから、感情や気持ちが、自分の頭の中に閉じ込めて大事にとっておきたかった「守るべきもの」になっていた。一生懸命を必死に自分を守ろうとして、それが自分自身を苦しめていたことに、なかなか気づけないでいました。あっという間に10年がたって、今の「わたし」と昔の「わたし」はとても大きく変化していると思います。それは、自分自身についてもっと時間をかけるようになったこと。そして、言ってしまったら空っぽになるんじゃなくて、言えば言うほど伝えたいことが多くなるっていうことに気づけたこと。自分の気持ちを閉じ込めなくても、自分は守れるということ。久しぶりに読んだら、なんだか心がほっこりしてきました。また不定期で過去日記を公開していきたいと思います。読んでいただいてありがとうございました。同じような気持ちを経験したことがある(経験している)あなたのお役に少しでも立てることを願って。まるこ
こんばんは、まるこですこのブログに目を通していただいたこととても感謝しています。ありがとうございます。今日は、もしかするとあなたもこんな経験したことあるんじゃないかな?と思うことを書いてみますね。「私はこんなに努力してる。でもこの人は努力していないのに成功しててずるい。不公平だ」それに対してだんだんイライラしてきて、日常生活に支障をきたしていく。こんな経験ありますでしょうか。難しいですよね。なんか、人のことだと冷静に「人は人で自分は自分なんだからさ。」と言えるんですけど、いざ自分が体験すると、同じ言葉を自分にかけても納得できない。他人のことなら上手く克服できる方法がたくさん浮かんでくるけど自分のことになると、、、っていう理由って多分そこに費やす感情が関係してるんじゃないかなって思うんです。どういうことかと言うと、私の場合なんかは自分が悔しくて惨めだ、と思う感情が自分の中でうまく処理できていない、ということ。そしてそれを上手く受け止められなくて、周りの努力をしなくても成功する人をズルイと思う事で、さらにもっと自分の感情から焦点を離そうとしているのかな?と思ったりもします。相手にフォーカスを当てることで、自分自身の惨めで情けないと思っている感情から一時避難してる状況。だって、「怒り」の方が自分の「惨めさ」を見つめるよりも、楽ですもん。相手のことなんて100%分かるわけないから自分の想像のなかで色々考えられるし、本当はその人も私と同じくらい見えないところで努力してるかもしれないけど、努力してなさそうに見えるから自分のいいように解釈もできます。これは個人的に思うことなのですが、相手にイライラすることって、その後の自分の日常におおよその割合でネガティブに支障をきたします。投げやりになったり、関係ないことにもあたっちゃったり。その一方で自分の情けなさとか惨めさを痛感することって、勇気のいることなわけで。「できない」自分を真っ向から認めていかなければならないとてもエネルギーがかかる作業だと思います。自分のやってきた「努力」は自分でよくわかっているから、認めていくうちに、「努力」が足りないんじゃないかって結論に至るのが怖い部分もあります。だから私はイライラするとき、とりあえず自分をイライラさせます(笑)だって「人は人、自分は自分」でなかなか今の自分は納得できないから。もっと成長できたらその一言で納得できるかもしれないけど、今はできてない。だから我慢しないでイライラします。悔しいなって思います。でも、しばらくしたら「努力が報われない自分をわたしは惨めだと思ってるのかな?」とか「私って本当にこのことにイライラしてるのかな?」ってちょっと考えてみます。フォーカスを相手から自分に当ててみます。「惨めだなぁ」って頭の中で思ったら、言葉にだして「惨めだなあー」って言います。独り言のように言う時もあるし、もし聞いてくれそうな人がいたら「自分が惨めだと思う」ってその人に言ってみたりします。ほとんどの友人は「そんなことないよ、まるこは頑張ってるよ」って言ってくれます。その瞬間、こころの中がスーッとして「あー、私は周りの人に頑張ってるねって言われたかっただけなんだ」とか「成功できないから友人に頑張ってないって思われてないと勘違いしてた」っていう承認要求に気づけたり。またあるときは自分自身が満足できなない現状に自分が惨めだと認めたくなかっただけなんだ、と気づけたり。その度に、いろいろな反応をする自分に驚いたりするのですが、やっぱりその度に、自分のことをもっと自分で知ることができてうれしくなります。また話が少しずれはじめましたが、、、あなたのあなた自身のイライラしたときの向き合い方ってありますか。何かコメントいただけるととても嬉しいです。それではここまで読んでいただきありがとうございました!まるこ
こんにちは、まるこです。このブログに足を運んでくださってありがとうございます。今日も全力で書かせていただきます!さて今回は「頭の中の言葉が上手く伝えられない!」という私の長年の疑問を、自分なりにまとめていこうと思っています。以下は前回の記事の続きですので、前回の記事を読んでいない方は、ぜひこちらの記事をご覧ください♪前回の記事では、「話すこと」と「書くこと」の作業をするとき人間の脳は違う領域を使って処理している、という話をしましたが、私の例でいえば、「言いたいことは書くとうまくいくのに、話すとうまくいかない」ということへの説明の一つは、これなのかも?と思ったりもします。しかし、それに加えてもうひとつあります。それは「話す」ときは「書く」ときよりも外からくる刺激がとても多い、ということです。相手に話すときは書くときと違って、相手からの質問が飛んできます。相手が目の前に立っている目を見つめられます。相手の話す言葉の口調(強め・優しめ・穏やか・態度でかめなど)も意識的にも無意識的にもすべて情報として入ってきます。ほとんどの場合、書くときは自分のペースで書けますが、話すときは相手のペースが速いとそれについていきながら話す必要もあります。言い方をかえると、相手の様子を見ながら話す必要があります。頭の中で全く考えてもいなかった質問がくると、動揺したりしませんか?それで、どんどん話がずれていったり、結局言いたいことなんだったっけ?となったり私はよくなります。もしくは、話す場にあまり親しくない友人がいたりするとき、少し話すことをためらったりしたことはありませんか?「この人、分かってくれるだろうか・・・」とか不安になったりする人は少なくないと思います。私はここ最近まで気づかなかったのですが、人の目を見て話すことをとても避けていました。恥ずかしながら、今まで本っ当に、気づいていませんでした。気づき始めてから相手の目をみて話すようにした頃、相手が自分の目を見て話を聞いているのを確認すると話に集中できなくなりました。なんだか心を見透かされているような気がしていたからです。「どうせ分かってくれない」と思っていたのに「心を見透かされるかも」なんて、矛盾してますよね。でも本当にそう感じていました。上記の例が他の方にあてはまるかは分かりませんが、話すときはその時の状況や相手からの「刺激」により、自分の感情が「自分の思っていたことを話す」に加えて入ってくるのですね。そう考えると、今まで「どうせ言っても分かってもらえないから。。」と話すことをためらっていた自分が、なぜ書くときと同じように自分の思った通りに話せなかったのか、なんとなく分かった気がしました。ここまで書いておいてまさかなんですが、特に「じゃ、どうすればいいのよ?」に対する克服法の答えを、私自身の中でまだ出し切れていませんが、、笑。以前こちらの記事「はじめに。」でも書いた通り「こうすればいいんだよ!」とか「これこそが答えだ!」というような目的でこのブログを始めたわけではないので、この記事を読んで、あなたが「じゃあ、私はどうかな?」という考えるきっかけになってくれると、まるこは非常に嬉しいのです。ただ、私自身がこのことについて考えるようになったきっかけは、大学時代の経験があるからです。私の通っていた学校は試験の90%が口頭試験/実技試験でした。筆記試験が大の得意だった私にとって地獄のような毎日でした。話す内容で自分を評価されることがいやいやでたまりませんでした。満足できない成績をもらうたびに「筆記試験だったらもっといい点数がもらえたのに・・・」とか「試験官の好みによって評価が変わるなんて不公平すぎる(これは今でもそう思います)」とか。自分の力が発揮できないことが悔しくてしょうがなかったんです。試験官が私の苦手なタイプの人だったら、それ(=刺激)だけで緊張して頭が真っ白になったり、ちょっと批判的な質問(否定的ではなく)をされると、それ(=刺激)だけで「あーもうダメだ」とあきらめたり。それに加えて、前回の記事で述べた通り「私の頭の中の考えと、口で伝える言葉は別物」と思い込んでいたので、自分自身を信じて話すことができませんでした。結局、自分が伝えたいこと以外のことに、あまりにも集中していて失敗した経験がなーんかいもありました。当時のことを思い出すと辛い思いをいっぱいしたので、当時の記憶・感情が蘇って心の奥がチクっとしますが、でもやっぱり頑張ったねって言ってあげたいです。そして、今でもたまに大人数の場で何か意見を求められると心臓がバックンバックンして、頭が真っ白になるときもありますし、発言したことに対して「それには全然賛成できない」って言われるとココロがキューっとなることもあります。でも以前とちょっと変わったのは、「あー今緊張してるわ自分」と意識的に考えたり「あーでもこの人はこの人の意見だし、私はこう思うからさー」と思うようになったことかな?って思います。以前の私なら心臓がバクバクしてることが理解できなくてそのことばっかり考えたり、反対意見を出されると「私は間違ってるんだ」と自動的に考えていたからです。まだまだ自分をもっと知っていこうと思ってますし、知れば知るほど多分もっと知りたいことが増えていくんだろうなって、割とわくわくしているまるこです。今日も長々とここまで読んでいただきありがとうございました。それでは失礼しまっす♪まるこ
こんにちは、まるこです。このブログに足を運んでくださってありがとうございます。今日もみなさんの時間を少しいただいてるわけですから、一生懸命書いていきたいと思います。ブログを始めてまだ数週間の新米で書くたびに、字の大きさどうしようかな、明日ぁと試行錯誤しているのですが。最近少しずつ書き方とか表現の仕方が固定してきました。笑この数週間でとても強く感じたことは、とにもかくにも何よりも!毎日定期的に何年もブログを書いているブロガーのみなさまへの敬意です。ほんとうに、根気強い作業だと思います。素晴らしいと思います。さて、今日なんですが。頭の中にはまるでノーベル賞受賞できそうな論理づいた考えや意見がイメージしてあるのに、いざ言葉に出してみると、全く伝えたかったことと違うという経験ありませんか?「なんか、、、軽く聞こえる。。」「もっと良い言い方があるはずなのに」「違う、本当はこうじゃない。」「言葉にしてみたけど、結局相手に自分が伝えたかったことが伝わってない気がする」ご覧になっている皆さんには、そういう経験ありますでしょうか?私はこの点にずっと悩まされてきました。頭の中には数千・数万もの皆に伝えたいアイディアがあるのに、いざ言葉にしようとすると全く思ったようにいかなかったり、後悔したり。そういうことが何回も続くと、何故だろうって理由を探そうとしてました。私は無意識に「頭の中の考えと、話して伝える考えは別物だしな」と結論づけ、「むしろ頭の中の考えが私なんだから、言わなくても分かってくれる人だけと仲良くすればいいよね」と皮肉(?)になって考えていたときもありました。と同時に、私は自分の口から発する言葉を自分自身が信じることをやめていきました。「どうせ分かってくれないし」という発想も生まれるようになりました。友人にその件について相談すると「それって単に頭の中が整理できてないだけなんじゃないの?」と言われて「そうじゃないんだけどなぁ。。。」と凹んだりましました。それは何故かというと、私の場合はその思考を日記やノートに書いたりすると、頭の中の考えが割と思った通りに書けるからなんです。だから、そういうのも重なって「誰も私のことを分かってくれない」オーラが漂う毎日になったときもありました。相手に分かってもらうこと・伝わらないことに関しては、以前この記事(私の経験3:伝わらなくてイライラする件)でも紹介させていただきましたが、今日は少し違う視点からもお話しさせていただきたいと思います。「なぜ頭の中の考えが、書くとうまくいくのに、相手に伝えようとするとうまくいかないのか」の焦点のひとつは、「話すこと」VS「書くこと」だと思います。2015年にアメリカの認知科学を研究する学者の方たちがある記事を出しました。人間は「話す」ときと「書く」ときは、違う脳の領域を使っているというものです。記事の詳しい内容はここでは書きませんが、もし興味のある方がいましたら、論文原本や要約記事は以下のリンクからどうぞ。日本語訳がめんどくさくてリンクを貼ってすませようとしているわけでは決してありません・・・よ。笑 論文原本 Mordality and Morphorogy: What we write may not be what we say. (様相性と形態:私たちが書くことは、話すことと違うかもしれない) 論文要約 How the human brain separate the ability to talk and write (人間の脳がどう話す能力と書く能力を分けているか) 長くなりそうなので、今日はこれで失礼しますね。次回は今日の続きです。今日も読んでくださってありがとうございました。まるこ
こんにちは、まるこです。このブログに足を運んでくださってありがとうございます。前回の続きです。前回のブログを読んでいない方は、こちらからどうぞ。6,7回くらい、毎回この宿題を提出して先生に説明をしました。先生は、いつも答えをくれません。それが非常に、はがゆかった時もありました。苦しみから解放されたいのに、なんで自分でばっかりこんなにしんどいことを考えないといけないんだろう、と。先生は寄り添って、私に問うだけです。ある時はうまく答えられるけど、またある時は全く言葉がでてこなくて、言葉を探すのが難しくって沈黙になったりして、先生はずっと私自身が自分の意志で気持ちや考えを出すまでの時間、隣に座って待ってくれていました。私はその中で、自分の中に頻繁に浮かんでくるある考えに気づきました。「言葉にしても、もしそれが正しくなかったら?」「本当にこれが、わたしが言いたいこと?」問ううちに、私は自分の言葉を自分自身で信頼していないことに気づきました。自分の感情や考えに、正しい正しくないなんて、ないのに。「なんで自分の気持ちや考えを、自分自身が信じてあげようとしないんだろう」そのとき、はじめて自尊心というものを考えるきっかけとなりました。 自尊心とは、他人からの評価ではなく、自分が自分をどう思うか、感じるかである。そして、それは自分の幼少時代のことを考えるきっかけにもなりました。その件に関してはこちら(私の経験2:わたしとあなたの距離感)で少し述べさせていただきました。2か月ほどだった頃でしょうか、私はいつものようにカウンセリングの部屋へ行き、いつも通り宿題の説明をしていました。すると、急に先生から「今日でもう終わりにしようね」と言われました。突然のことにビックリしたのですが、最終的に私は先生にこういわれました。「君は病気でもないし、うつでもない。薬も必要ないんだよ。」その場の状況は、あっけらかんとしていた事をすごく覚えています。自分の中では「完治」した感覚もありませんでしたし、まだ必要ではないかと思っていたことを覚えています。全部の言葉を丸ごと覚えてはいないのですが、でも先生は、「不安になること、壁に立ち向かわなければならないこと、それがとても高い壁に感じることは、これから長い人生いくらでも出てくる。僕は、君がきっと卒業できると信じている。君が自分が卒業できると信じるかどうかは、君が選択すること。不安になることは人間が生きていくうえで、本来必要不可欠のことをまずは覚えておいてほしい。それはとてもしんどいけど、悪ではないんだ。将来いつか、僕が助けが必要になったときに、君にお世話になるかもしれない。そのとき君は、これまで君が苦しみや不安を経験したからこそ分かる、他人の痛みの分かる人としてたくさんの人を助けることができると信じているよ。」的なことを伝えてくれたと思います。初めて聞いた先生自身の言葉に、戸惑いもあり嬉しさもあり複雑な気持ちでした。ただ、あぁ、そうか。これで終わりじゃないんだ。と思いました。私は今まで自分と向き合ってなかったことに気づけて、自分の感情や考えを自分自身で認識して居心地が悪くても受け入れていくことを学んで、そしてこれからまた困難な状況や不確かな状況で生きていかなければならないときに、自分自身を自分から離さないようになるために、この宿題をずっとやっていたんだ。カウンセリングにいったから、合格する可能性が増えるんじゃなくて、合格するかもしれないし、不合格になるかもしれない状況の中で、不安を抱えながらも、自尊心を持ちながら生きていくこと。多分、これが私に必要な作業だったんだなぁと今になって思います。これで、私の経験4を終わらせていただきます。長々となってしまいました。いつものまるこですみません。笑。世界のどこかにいる、あなたの力に少しでもなれますように。まるこ にほんブログ村 にほんブログ村 人気ブログランキングへ