プロの方々は多分とっくにこういう情報は仕入れているのだろう。
FT.com 5月1日記事 <http://news.ft.com/cms/s/362026b0-b781-11d9-9f22-00000e2511c8.html
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一部を要約する。
・胡錦濤氏はフランス永住権保有者である
・胡錦濤氏は中国国内で不動産事業を営んでいる
・フランスに会社を設立し、彼の不動産をそのフランス法人に買わせた
・この取引は完全に合法だ
と、国際貿易経済合作研究院(?)の通貨政策専門家 Mr. Mei Xinyu(梅新于?)が述べている、と報じている。ご丁寧に「その不動産は実際には存在しない」とまで報じている。
記事を読む限り会社の資本金はEUR建のようだ。その会社にCNY建の名目上の資産を取得させたことにしているわけだ。途上国の金持ちは外国へ資本逃避するのが普通だから、わざわざ逆をやるということは、彼の持つ権力を考慮すると、これは一種のインサイダー取引だろう。JPY高?
前回、胡と漢とで異なる役所を設置して、それぞれを別々に統治した、と書いた。もともと社会の構成の仕方が違うし、言語も生活習慣も生産活動の形態も異なるから、別々の統治は合理的とも言える。
遊牧民は核家族~数家族規模の小さな集団に分かれて少しづつ移動しながら暮らす(註1)。小集団をいくつか集めた中規模グループを編成し、それをさらにいくつか集めた大規模グループを編成し、というようにして巨大な集団・社会(国家)を形成する。集団の構成員は戦時には兵士となり、集団ごとに部隊を編成し、首長の下に統合されて巨大な軍隊になった。小集団を束ねる中規模・大規模集団のリーダーが有力政治家/軍人となっていく。
もう一方の漢人の農耕社会。世帯がいくつも集まって集落「邑(ユウ)」を形成する。壁で囲われた邑の中に住み、農作業のときは外へ出る。集落が大きくなれば「城」と呼ばれるようになる。(註2) その「邑」や「城」ごとに戸籍を整備し、世帯ごとに登録する。役所を設置する。いくつも城が束ねられて広域行政の対象となり、そこまで来ると次第に中央政府の仕事になって、中央政府に官庁が設置されて広域行政を担当するというわけだ。
もっとも、これはあくまで典型的・理想論的な組織形態で、政局が乱れに乱れた3~4世紀の華北では、農耕社会の行政機構も乱れに乱れたであろうことは想像に難くない。集落ごと(血族ごと?)に集団移住したり、戦乱から逃げてきた人々を寄せ集めた集団が、新たに集落を形成するようなことが頻繁に行われ、戸籍に載らない人も大勢いたらしい。
農耕社会を基盤にした軍事力の編成も集落の自衛の必要からもちろんあった。地方地方の農耕社会に依存して軍事力が編成された。地方地方での有力者(大地主)が中心となってその地域の庶民まで集めて軍隊を編成した。(註3)
「中期」398年~524年の期間には、上述のように社会の構成原理が異なる胡人と漢人を統合する実験が行われた。鮮卑系胡族政権「北魏」が胡人を農耕社会に組み入れようとした。(註4)
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註1: 分散して暮らさないと家畜が草を食い尽くしてしまう。人口密度を高く出来ない。養える人口は農耕社会に比べはるかに少ない。
註2: 日本人の感覚と違うのは、大陸では「壁で囲わないと危なくて夜眠れない」ということだ。山賊や狼・虎(動物より人間の害の方がはるかにひどい)が徘徊しているからだ(註5)。古い時代のシナの集落は壁で周囲を囲うのを原則としていた。
「城」というと、「軍事上の要塞」から発展した日本の城(しろ)をイメージし易い。が、漢語の「城」は日本語の「都市」や「街」を意味する。語源的には、「土」+「成」=「城」。「土で出来ている」ということ。都市の周囲を囲う壁のこと。
語源的な類義語として「國(国)」を挙げておこう。部首「くにがまえ」は、都市が壁で囲われていることを示している。その囲った中に、「口(くち)」と「戈(カ)」が入っている。「口」は人間を意味する。「戈」は武器の一種で軍事力を意味する。「人間がたくさんいて、軍事力をもっている、まわりが壁で囲われているやつ」ということだ。3千年ほど前の都市国家のことだ。
註3: この時代は中央政府が弱かった。地方の大地主を束ねる広域にわたる有力者どうしが中央の政権争奪戦をしていた。これは華北もそうだったし、華中以南もそうだった。この勢力争いに「胡と漢」の相克が混ざり合っていたのが、シナ史上の一大混乱期「魏晋南北朝期(AD 184 ~ 589)」だ。(註6)
註4: その実験は結果として失敗し、胡人中心の兵士が胡族政権北魏に対して反乱を起こした。その結果、5世紀~6世紀前半にかけて90年ほど華北を統一した北魏政権(註7)は二つに分裂する。この反乱軍の中から「隋」そして「唐」の政権の中核を占める人脈が登場する。この事件については後ほど「後期」を説明する際に述べる。
註5: 「山賊」は今でもいるらしい。10年ほど前に中国出張したときのこと。北京から山東省へ行く際、日系商社の人が笑いながら「mattさん、気をつけてくださいね。山東省には山賊がいるんですよ。道路を走っていると警察の格好をした連中に呼び止められて、身ぐるみ剥がれますからね」と言われた。どのくらい遭遇する確率が高いのか不明だが、とにかくいることはいるらしい。また、集落中でこぞって近くの鉄道線路へ繰り出し通りかかる列車を略奪する、などという事件が実際に起こっているらしい。
註6: 魏晋南北朝の「魏」は三国志の「魏」。「晋」は三国魏の後継者となった司馬氏が樹立した「晋」で、三国志の終わりの方に出てくる。鮮卑の「北魏」は南北朝の「北朝」の一つで、三国志の時代よりざっと150年ほど後。今後しばらく北朝中心に書いていく。南朝についても見るべき歴史がもちろんあるが、この「胡と漢」シリーズの目的にそぐわないので、ここでは扱わない。
註7: 「後趙」や「前秦」に比べると、「北魏」が華北を統一した期間は長かった。
4月27日FT.com記事 <http://news.ft.com/cms/s/e6ddfba2-b750-11d9-9f22-00000e2511c8.html
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米国議会も、全米製造業者協会も、IMFも、世銀も、「CNYの切り上げ/対USDペッグから通貨バスケットへのペッグ」を大合唱し始めた。今までも言ってきているから新味は何もないが、この2ヶ月くらい急に言及が増えていると思う。と、いっても、中国側がどう出るかはまだわからない。
今のところ、mattは勝手にこう思っている。
「遅くとも2007年の夏までには、非居住者がCNYと外貨との兌換を行えるようにするだろう」と。USD/JPYは下げ。長い目で見て。
2008年にオリンピックをやるからだ。世界中から観光客が押し寄せる。CNYを外貨と自由に交換できない現状のままでは、帰国時に観光客がブー垂れるだろう。中国人は面子に命を懸けている連中だから、オリンピックより少なくとも1年前には兌換を自由化させるだろうと思っている。1年くらいは時間を置かないと世の中(中国国内)の隅々までが対応するのに必要な時間的余裕を確保しにくいだろうから、そのくらいは余裕を持たせると思う。
「今年CNY切り上げか?」と問われても、それは分からない。時期を予測するのはかなり難しい。あまりに制限時間いっぱいいっぱいまで遅らせると、間際になって時期を予測しやすくなるだろうから、そこまでは遅らせないだろうと思う。
今年の後半~来年のどこかが狙い目だろうか?
南匈奴が独立政権を樹立してから百数十年の間、華北ではいくつもの胡族政権が樹立されては消え、樹立されては消えた。劉淵が立てた政権はその端緒を切ったもので、その後の変遷の細部は目まぐるし過ぎるので省く。
「胡と漢」シリーズで書こうとしていることは、「シナとその周囲の異種族との関係のとり方・関係のあり方を分析し、今日において日本人がシナとどういう関係をとるべきかを考える上で役に立つ材料を提供すること」だから、その目的に沿うことを書く。(註1)
で、しばらく次のようなシナリオに沿って書く。
(1) 初期: 胡族政権は、胡人を統治する役所と漢人を統治する役所とを別に設け、それぞれがそれぞれを統治した。
(2) 中期: 胡族政権の側から「胡人を漢人式の統治体系に組み込む」努力をした。(上からの改革)
(3) 後期: 胡人が中核となり漢人を大幅に仲間に入れる成り行きで編成された軍隊が、そのまま国家機構の中核にはまり込んで軍事政権となった。(註2)
まず、初期について。有力だった諸政権の移り変わりを簡単に述べておこう。(註3)
南匈奴族の「漢」
↓
羯族の「後趙」
↓
テイ族の「前秦」
↓
鮮卑族の「北魏」の初期
この期間、304~398年だ。
北魏の初期までは、上記(1)のように、胡と漢とで管轄する統治機構が分かれていた。これは後漢時代からそうだった。胡人の側としては、胡人中心の政権を形成し、政権の主導権を握ることで、経済力に劣る胡人の地位向上を図る面があったのではないかと思う。一種の affirmative action と言えるかもしれない。(註4)
しかし政権は安定しなかった。一つには、胡人の部族間・家族間での勢力争いが激しかったということもあるようだ。もう一つ言えるのは、歴史全体を見ると胡と漢の統合がなされたときに政権が安定しているので、漢人を十分に取り込めなかったのが政権の不安定さの原因となったのではないかと思う。
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註1: 歴史小説風に歴史上の登場人物個人個人に焦点を当てると、読み物としては面白いのかもしれない。が、ここでは原則そういうことはしない。
註2: (3)はmattの解釈といってもいいかもしれない。「北周~隋~初唐」は軍事政権だった、という主張だ。純粋にmatt独自の考えではなく、考えをパクって来た書物はちゃんとある。が、こういう主張をしている学者・識者はmattの知る限り少数派だ。中国史の研究者はどうしても Sino-centric な見方に陥りやすく、「胡」の立場からものを見ることをあまりしないのではないか、と思っているのだが。(註5)
註3: あまりに簡略すぎ、図式的に過ぎる。これだけが当時の政局だったと思い込むのは危険だ。当時の華北は、華北全体が応仁の乱だったという感じだ。
註4: これはmatt独自の見解。
註5: もし、「~初唐は軍事政権だった」と認めると、「あの大唐帝国は、その出発点において軍事政権だった」と認めることになる。「中華王朝の典型・最盛期=大唐帝国」という考えに凝り固まっている研究者は、初唐が軍事政権だと認めるのは感情的に受け入れ難いだろう。「大唐帝国」を「覇者」と言ってしまうのは、Sino-centric な人々にとってはまずい。(註6)
註6: 今日の日本語では「覇者」は悪い意味で使われていないが、儒教イデオロギー上は悪い意味だ。「徳で治める君主が legitimate であり、軍事力や謀略で統治する君主に legitimacy は無い」という立場だからだ。前者を「王者」といい、後者を「覇者」という。(註7)
註7: 個人的意見だが、シナの歴史を知れば知るほど、儒教イデオロギーのこの部分はフィクションだと思い知らされる。
こういうことを書くと、「理解してもいない異教徒が何を言うか」とムスリムから言われそうだ。でも、書こう。
(関連記事 ・・・ 4月26日の記事)
http://news.ft.com/cms/s/5249e7fe-b28b-11d9-bcc6-00000e2511c8.html
http://news.ft.com/cms/s/7107cfd2-a46f-11d9-9778-00000e2511c8.html
アメリカの言う「民主化の促進」の代表的な例が中東なわけだが、
・イラク
・サウジアラビア
・クウェート
・エジプト
あたりのニュースがぼつぼつ出てきている。それなりに改革が進捗してきているように報じられている。
世俗主義的な政治改革を行うにあたって、イスラムの教義との兼ね合いでの一つの焦点が「女性に参政権を認める」ことだろう。
今日我々から見ればどうということは無い改革だ。が、中東ではそうではあるまい。
例えばサウジアラビアでは女性が自動車を運転することが認められていなかった(現時点でどうかは確認していないが、認められたとはまだ聞いていない)。だから1991年に米軍が駐屯を開始したとき女性の兵士も当然のように駐屯したのだが、女性が自動車を運転している姿を外にさらすことそれ自体が問題になったらしい。
それどころか、女性が一人で外出することすらはばかられる。mattの個人的意見だが、「基本的人権」のうちの「身体の自由」ってやつが、宗教上の教義に抵触しそうに思う。なぜなら、イスラムは人間の内面だけを司る宗教ではないからだ。国家の運営や日常生活にかかわる世俗法までその領域に含んでいる。そういった部分までを神の領域とし、コーラン等に明確に書いてあるそうだ。
matt自身の狭い経験でも、イスラム圏の一つバングラデシュに行ったことがあるが、女性の一人歩きを見た記憶はない。だいたい外を歩いている女性が少ない。いても、多くの場合ベールをかぶっている。
公共の場所でも、外国人がたくさんいて当たり前の場所、例えば空港では、ベールをとった女性を結構見かけた。が、街中だとほとんどいない。
シンガポール/マレーシアあたりのイスラム教徒だとだいぶ違うのだが。
また、コーランは神から預かった最後の言葉だとされていて、そのことはコーランに明記されている。
聖書には(仏教の経典にも)こういうことは明記されていない。キリスト教は、基本的には人間の内面的規範についての教えだ。神の教えが人間の精神的な領域に限定されるという解釈をこのことが可能にし、世俗法と宗教法を分離する改革を可能にした。イスラムはそうではなく、人間の外面・内面両方を対象とする規範がすでに「最後のものとして」与えられており、新しく規範を設定することができない。
だから、イスラム教徒自身から改革を起こす場合、「コーランの昔に戻れ」という方向性以外はなかなか出てこない。コーランの昔に戻るということは、7世紀頃のアラビア半島の社会秩序を今でも基準とするべく、社会を変えろと主張することになる。
ムスリムに聞くと、ムスリム男性は女性の異教徒と結婚しても構わないが、ムスリム女性はムスリム男性としか結婚してはいけないのだそうだ。ムスリム女性の異教徒男性との結婚も将来「身体の自由、選択の自由」を論拠に認められるようになるのだろうか?
今のところ、サウジアラビア政府も含めて女性に参政権を与えることに前向きのように報じられている。個人的には、「こういうキリスト教徒から与えられた改革が、それも彼らの規範と反し得る要素を含む改革が、長い目で見て根づくのだろうか」という気にさせられる。だいたい「議会制民主主義」なんて、コーランには書いていないだろう。7世紀のアラビア半島で書かれているのだから。
「外的規範を無視し、イスラム教義の適用は内的規範だけにとどめておく」ということを、長い目で見てムスリム達が受け入れられるかどうか、が鍵だろうと思う。これができなければ、いつか原理主義が復活するのではないだろうか。
それとも、「民主化」を主張する連中は、イスラム圏の社会規範を破壊しようと壮大な計画でも練っているのだろうか?
五胡(と烏桓)が中原の地に入ってからの運命は決して安定していなかった。
後漢末~三国魏は戦乱が続いた時期で、社会の変動は激しいものがあったらしい。彼らの行き先は昔ながらの牧畜自営と従軍以外にもあった。
後漢以後地主への土地所有の集中が進んでいたが、五胡には漢人地主の小作人となった者がたくさんいた。また(現代風に言うと)胡人系牧場主の使用人となった者もいた。
農耕社会と牧畜社会とでは農耕民の方が経済力が上回るのが普通である。混住によって貧富の差が発生し、胡人の側が劣勢にたたされることとなった。地方官僚の搾取の酷さなどがきっかけとなって胡人の不満が爆発し、政府への反乱を起こすことが後漢期からすでにおこっていた。
三国魏~西晋の3世紀中はなんとか漢人政権は維持されたが、4世紀初めに入って漢人政権晋朝で内部 抗争が激化した隙に、黄土高原にいた匈奴が政権を樹立し、その首長(註1)が「漢」を称する事件がおこった(註2)。
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註1: 匈奴の首長を単于(ゼンウ)と呼ぶ。
註2: 当時の南匈奴の単于、劉淵が304年に漢王を称した。この名は漢語の姓名だが、彼の匈奴語(?)の姓は「攣鞮(ランテイ)」といった。母系を通じて漢王朝の皇族と通婚している家柄。ということは、漢王朝がとっくに倒れていた当時の東アジアでは、牧畜社会と農耕社会両方にまたがった屈指の家柄だったというわけだ。
FT.com 記事に久しぶりに戻れる。
4月21日付記事(購読者用ページ) http://news.ft.com/cms/s/3511dac2-b293-11d9-bcc6-00000e2511c8.html
この記事の筆者(Stephen Roach)は、
アメリカ金融引締め/高金利
↓
消費減へ誘導
↓
中国の対米輸出に減少圧力
一方で、
外国からの投資流入継続(ドルペッグのせい?)
↓
中国国内不動産取引への貸出抑制(行政的なコントロール)の効果を相殺
↓
国有企業改革に必要な経済成長(失業を埋め合わせる雇用創出に必要な成長)の維持
加熱も冷却も避け、narrow path をうまく狙いつつある、と Steve はどうやら言いたいらしい。
まあ、一つの見方だろうが。
しかし、そんな簡単に中国からの輸入を減らすもんだろうか。
とうとうはっきり言っている記事を目にすることとなった。
http://www.guardian.co.uk/japan/story/0,7369,1463078,00.html
[要旨]
・アメリカは「東アジア~中東」への展開に際して、日本を司令塔所在地/支援基地として使いたい。
・ユーラシア大陸への地上軍の配備は最小限に 抑えたい。
・ワシントン州にある陸軍第1軍団の司令部を、これから座間に移す。
・グアムにある第13航空軍の司令部を、これから横田に移す。
ほかにも、下記のようなことなどを書いている。日本のメディアと違って明快かつ簡潔に書いてくれるので、分かりやすくてありがたい。
・弾道ミサイル防衛システムの導入
・台湾を作戦行動の対象内に含めること
・北朝鮮に対する先制攻撃の可能性
好むと好まざるとにかかわらず、我々はアメリカの要求に応じることになるだろうと思う。
前回書いたように、南匈奴(ミナミキョウド)は現在の山西・陝西・オルドス(今後黄土高原と呼ぼう)に後漢期から居住するようになった。後漢末期の内乱や三国魏が興隆などの際、優秀な騎馬戦力である南匈奴は当然のことながら軍隊に編入され、各地を転戦した。彼らは食事や衣服など少しずつ漢人の文化を受容していったが、一方で匈奴-漢人間の種族の違いは意識していた。
後漢~三国魏~晋(西晋)期(AD 0 ~ 300年頃)には、このほかに以下の牧畜民も中原に入り込んできている。(註1)(註2)(註3)(註4)
・鮮卑(センピ)
・烏桓(ウガン)※烏丸と表記する例も多い
・羌(キョウ)
・(テイ)
・羯(ケツ)
彼らも、それぞれ華北に入り込んで漢人と混住した。匈奴と同様、三国魏や西晋など、時の政権の軍隊に参加した。
混住し従軍するにつれ、漢人の文化を(主に衣食から)少しずつ受け入れていったと思われる。具体的には、「麻などの布の衣類を着、粟などの穀物を食する」ようになった、ということだ(註5)。また、漢人の言語を理解するようになっていった。
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註1: 烏桓を除いた上記4部族と匈奴とを合わせて、五胡と呼ぶ。316年に晋が倒れて以来百数十年間、華北には多数の政権が興亡したが、この時代を「五胡十六国時代」と呼ぶ。烏桓を除くのは、政権を樹立した実績がないからだ。
註2: 残念ながら第二水準漢字で「テイ」を見つけることができない。「抵」の「旁(つくり)」だけで構成される文字だ。mattの探し方が悪いのかもしれない。見つけ方をご存知の方はご一報されたし。
註3: 鮮卑はその故地が分かっている。現在の黒龍江省西北部の興安嶺(シンアンリン)の山中にある洞窟「カツ仙洞」とその周辺と推定されている。(カツ仙洞の「カツ」は第二水準漢字にあるが、テキストファイルに貼り付けると文字化けしてしまう。第二水準漢字で部首「口(くち)」の最後から114番目) なお、鮮卑は匈奴が南北分裂して弱体化した後、モンゴル高原の少なくとも東半部を勢力下に収めたらしい。鮮卑内部にいくつもの部族があったのだが、その一部が現代の山西省北部~内蒙古東南部に割拠し、後に代(ダイ)国を建国する。
註4: 烏桓は遼寧省西部~内蒙古自治区東南部(戦前に言う熱河地方)あたりの出身らしい。羯は匈奴から別れ出た一部族だったらしい。匈奴が人種的・言語的にどういう系統だったのかはよく分かっていないが、コーカソイドとモンゴロイドの混合集団だったという説もある。羌とテイは、現在で言うと、チベット人と親戚関係なのではないかという可能性のある部族だ。が、いずれにせよ、人種的・言語的に現在のどの種族の祖先と彼らが関係あるのか特定するのは大変困難である。この時代、彼ら騎馬民は自分たちの言語を記す文字を持っていなかったので、記録が不十分かつ言語系統を言語学的に現在調べられないのが理由だろう。
註5: 騎馬遊牧民は皮革で衣類を作り(布も使うが)乳製品を主に食べる。ときどき肉を食べる(註6)。農耕社会と混住する遊牧民が「布の衣類を着、穀物を食べる」ということは、農業生産への依存が始まり、純粋牧畜生活の昔へ戻れなくなる道を歩み始めたということだ。
註6: 遊牧民の食事を試したい方は、東京都文京区にモンゴル料理店「シリンゴル」があるので、そこを訪問されたい。Yahoo! Japan で「シリンゴル」で検索すると探すことができる。メニュー内容は農耕民化(シナ化)が進んでしまっているが、それでも遊牧民がどういう乳製品を採っているかぐらいのことは少し実体験できる。運が良ければ朝青龍などのモンゴル人力士に会えるかもしれない。
註7: 偉そうな書き方になって恐縮だが、率直に申し上げる。これから長々と「胡と漢」シリーズを綴っていくつもりだが、結構マニアックな記述が出てくると思う。読者がご存知ないことが書かれていても少しも不思議ではない。読んで不明なことがあって気になる場合、遠慮されずコメント欄に書き込んでいただきたい。可能な限り説明する。ただし、話の流れの都合で説明を意識的に後回しにすることはあり得ると思うので、ご容赦いただきたい。matt自身、誰かと話すときここに書いているようなことを話題にすることは、日常的にはまずない。一般的な知識とはとても思えない。