南匈奴が独立政権を樹立してから百数十年の間、華北ではいくつもの胡族政権が樹立されては消え、樹立されては消えた。劉淵が立てた政権はその端緒を切ったもので、その後の変遷の細部は目まぐるし過ぎるので省く。

「胡と漢」シリーズで書こうとしていることは、「シナとその周囲の異種族との関係のとり方・関係のあり方を分析し、今日において日本人がシナとどういう関係をとるべきかを考える上で役に立つ材料を提供すること」だから、その目的に沿うことを書く。(註1)

で、しばらく次のようなシナリオに沿って書く。

(1) 初期: 胡族政権は、胡人を統治する役所と漢人を統治する役所とを別に設け、それぞれがそれぞれを統治した。
(2) 中期: 胡族政権の側から「胡人を漢人式の統治体系に組み込む」努力をした。(上からの改革)
(3) 後期: 胡人が中核となり漢人を大幅に仲間に入れる成り行きで編成された軍隊が、そのまま国家機構の中核にはまり込んで軍事政権となった。(註2)

まず、初期について。有力だった諸政権の移り変わりを簡単に述べておこう。(註3)

南匈奴族の「漢」

羯族の「後趙」

テイ族の「前秦」

鮮卑族の「北魏」の初期

この期間、304~398年だ。

北魏の初期までは、上記(1)のように、胡と漢とで管轄する統治機構が分かれていた。これは後漢時代からそうだった。胡人の側としては、胡人中心の政権を形成し、政権の主導権を握ることで、経済力に劣る胡人の地位向上を図る面があったのではないかと思う。一種の affirmative action と言えるかもしれない。(註4)

しかし政権は安定しなかった。一つには、胡人の部族間・家族間での勢力争いが激しかったということもあるようだ。もう一つ言えるのは、歴史全体を見ると胡と漢の統合がなされたときに政権が安定しているので、漢人を十分に取り込めなかったのが政権の不安定さの原因となったのではないかと思う。

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註1: 歴史小説風に歴史上の登場人物個人個人に焦点を当てると、読み物としては面白いのかもしれない。が、ここでは原則そういうことはしない。

註2: (3)はmattの解釈といってもいいかもしれない。「北周~隋~初唐」は軍事政権だった、という主張だ。純粋にmatt独自の考えではなく、考えをパクって来た書物はちゃんとある。が、こういう主張をしている学者・識者はmattの知る限り少数派だ。中国史の研究者はどうしても Sino-centric な見方に陥りやすく、「胡」の立場からものを見ることをあまりしないのではないか、と思っているのだが。(註5)

註3: あまりに簡略すぎ、図式的に過ぎる。これだけが当時の政局だったと思い込むのは危険だ。当時の華北は、華北全体が応仁の乱だったという感じだ。

註4: これはmatt独自の見解。

註5: もし、「~初唐は軍事政権だった」と認めると、「あの大唐帝国は、その出発点において軍事政権だった」と認めることになる。「中華王朝の典型・最盛期=大唐帝国」という考えに凝り固まっている研究者は、初唐が軍事政権だと認めるのは感情的に受け入れ難いだろう。「大唐帝国」を「覇者」と言ってしまうのは、Sino-centric な人々にとってはまずい。(註6)

註6: 今日の日本語では「覇者」は悪い意味で使われていないが、儒教イデオロギー上は悪い意味だ。「徳で治める君主が legitimate であり、軍事力や謀略で統治する君主に legitimacy は無い」という立場だからだ。前者を「王者」といい、後者を「覇者」という。(註7)

註7: 個人的意見だが、シナの歴史を知れば知るほど、儒教イデオロギーのこの部分はフィクションだと思い知らされる。