五胡(と烏桓)が中原の地に入ってからの 運命は決して安定していなかった。
後漢末~三国魏は戦乱が続いた時期で、社会の変動は激しいものがあったらしい。彼らの行き先は昔ながらの牧畜自営と従軍以外にもあった。
後漢以後地主への土地所有の集中が進んでいたが、五胡には漢人地主の小作人となった者がたくさんいた。また(現代風に言うと)胡人系牧場主の使用人となった者もいた。
農耕社会と牧畜社会とでは農耕民の方が経済力が上回るのが普通である。混住によって貧富の差が発生し、胡人の側が劣勢にたたされることとなった。地方官僚の搾取の酷さなどがきっかけとなって胡人の不満が爆発し、政府への反乱を起こすことが後漢期からすでにおこっていた。
三国魏~西晋の3世紀中はなんとか漢人政権は維持されたが、4世紀初めに入って漢人政権晋朝で内部抗争が激化した隙に、黄土高原にいた匈奴が政権を樹立し、その首長(註1)が「漢」を称する事件がおこった(註2)。
- - - - - - - - - - -
註1: 匈奴の首長を単于(ゼンウ)と呼ぶ。
註2: 当時の南匈奴の単于、劉淵が304年に漢王を称した。この名は漢語の姓名だが、彼の匈奴語(?)の姓は「攣鞮(ランテイ)」といった。母系を通じて漢王朝の皇族と通婚している家柄。ということは、漢王朝がとっくに倒れていた当時の東アジアでは、牧畜社会と農耕社会両方にまたがった屈指の家柄だったというわけだ。