久しぶりの投稿になります。

 

現在、来月(11月30日)に出版予定の私の書いた本、

 

「闘うもやし」(講談社刊)

 

の編集作業が進んでいます。

 

12万文字(約250頁)に及ぶ原稿は今年7月の上旬に書き上げて渡しました。脱稿ということです。もやしの本というよりは、深谷のもやし屋飯塚商店の57年を綴った内容となっています。もちろん私から見たもやしの話もあります。

 

ここのところ毎日のように編集者であるAさんとの内容を確認しあってます。先週の土曜日などゲラを読みながらの確認作業は8時間半ぶっとおしとなり、それでも1/5ほど残ってしまいました。

 

書いているときは無我夢中でしたが、最初から通して読んでいるといろんなものが見えてきました。1980年代、バブルが始まるあたりから

 

「父も私も何か大きな力に操られようとしていた」

 

のがわかります。それは何もわかってないスーパーのバイヤーでもなく、株やらゴルフ会員券やら進めてきた銀行でもなく、もっともっと大きなものです。その大きな意思をありのままのもやしに思い入れのあった父と私は拒んだのです。そしてどん底まで転落していきました。

 

同時に今まで聞いたことのない言葉が襲ってきました。

 

「こんなのはもやしじゃない」

 

「もやしの根っこはじゃま。取るのが大変」

 

そして

 

「太くて根がなくて豆が取れているもやし」

 

がもやしの標準となってしまいました。その新しい標準のもやしも今は

 

「もやしなんかどれも同じだからね。だったら安いほうがいいや」

 

の言葉どおり、30年前よりも店頭価格が安いというあり得ない低価格競争に突入し、体力のない小規模のもやし生産者はバタバタと廃業、倒産を余儀なくされてしまいました。

 

おかしいと思いませんか?

 

「生産者が良いと信じているものが突然否定される」

 

「逆に言う通りにしてきた生産者もありえない低価格化に陥り喘いでいる」

 

儲けているのは誰でしょうか。笑っているのは誰でしょう。

 

そんなことを考えながら、今日も57年前と変わらないもやしを育てています。

 平成13年の1月に父が倒れ、以来跡を継いで社長に就任した俺は倒産寸前のもやし屋の再建に明け暮れた。だが父と母、そして自分の自己資金を投入しても、会社の出血は止まらない。さらに顧客はますます離れていき、同時に量販店の過剰な出店攻勢に負けた町の小売店、青果市場はバタバタと廃業、倒産した。

 

飯塚商店の売り上げはみるみる落ちていく、加えて20年を超えた設備…ポンプ、暖房器、包装機などは故障が重なり機器の入れ替え、メンテナンスにも金がかかった。自己資金にも限界が見え、県の制度融資を使って急場をしのぐ…。俺には何の光も見えなかった。

 

 平成16年、俺はどうしても同じブラックマッペもやしで頑張っているもやし屋さんを見たくなった。仕入れ先の原料輸入商社の社長にお願いして、鹿児島の小さなもやし屋さんを訪れた。そこはエチレンを使わずに、自然な成長だけでもやしを栽培していた。俺が目指している本来のもやしだ。感動した。しかしそのもやし屋さんは数年後に廃業してしまった。作り手の理想=売れない、という現実に再び怒りを覚えた。

 

 平成18年、この頃から緑豆太もやしの価格が大きく崩れだした。関東圏で言えば、勢力を伸ばしている安売りスーパーが緑豆太もやしを通常価格「18円(税込)」で売り出したのだ。特売ならともかく、毎日が18円なんて信じられない。高付加価値として期待された緑豆太もやしだが、今ではどこでも普通に造るようになってくると、いよいよ本格的な価格競争が始まったのだ。作り方が確立された緑豆太もやし、その最大のデメリットは「差別化」しにくいことだった。

 

「どこのもやしも同じなら安い方がいい」

 

取引しているスーパーのバイヤー、八百屋の店主から卸価格の値下げを迫られたとき、彼らは同じようにそう話していた。この頃から本当にもやしの価値は「低価格」だけになってしまったのだ。

 

平成20年頃、不思議なことが起きていた。この頃は野菜の「安さ」だけを求めるお店ばかりかと思えば、逆に野菜ソムリエといった資格が人気になっている。いわゆる「こだわり野菜」がもてはやされていた。もしかしたら「価格」と同様「情報」が求められている時代なのか?と思い、俺は確かめたくなった。

 

これでダメならもやし屋は終わりだ。そんな背水の陣で、俺はあちこちのウチのもやしを扱う店に立ってみた。価格は下げない。「私が作っているもやしです」そうお客さんに話しながら。時には試食を用意して、時には飛び込みで何も持たずに店に入り伝えてみた。そして、俺は立ち止まったほとんどのお客さんが「細くても、根っこが長くても、気にしない」ことに気が付いた。生産者が「もやしとは本来こういうもの」と言えば納得してくれるのだ。

 

かつて両親は「お客さんはわかってくれる」と信じていた。しかしわかってくれなかった。ひとつ肝心なことが抜けていたからだ。

 

『生産者自らが伝えること』

 

…生産者が伝えれば食べる人は理解をしてくれるのだ。もっともお金がないから「伝えること」しか出来ないが…しかし実はそれが今一番大切なことだったのだ。もやしの価値観を裏返す…並大抵のことじゃない、だがやる価値はある、いやそれしかやることがない。俺はもやしのオセロゲームに着手した。

 

平成21年、ありとあらゆる手段を講じて、俺はもやしの発信に努めた。店頭試食販売の他に、HPの開設、ブログ、絵本の作成(HPで公開)、もやしイベント…儲けるためではない、あくまでももやしを伝えるための活動だ。そしてやればやるほどオセロのコマは裏返った。

 

 その年の9月、俺は地方新聞、読売新聞の取材を受けた。「もやしの絵本」についてだ。もちろん公のメディアで紹介されるのは初めて。新聞に記事が掲載された日はあちらこちらから問い合わせの電話があった。忘れられたもやし屋に再び光が当たろうとしていた。

 

それでももやしは伸び続ける。
もう何年も前からお話はいただいていたのですが、私が執筆する

「深谷のもやし屋の本」(タイトルは未定)

が講談社から出版されることが決まりました。来年の夏頃の予定です。

詳しいことが決まり次第、またこちらでお知らせします。




見た目の良さと高い利益率を兼ね備えた画期的なもやし、「緑豆太もやし」を深谷のもやし屋飯塚商店は拒んだ。その影響は少しずつ、 

「飯塚さんちは太いもやしはねえのかい?」 

「よく根っこが邪魔だって言われるんだよねえ」 

「太いのと比べて色が悪いんだよねぇ」 

といった取引先からの批判、要望の声となって現れてきた。 

しかし頑固な父は曲げない。逆に 

「やつらもやしのことなんか知らないんだ」 

とあくまでも自らの判断を信じ、言い放った。 

母も 

「大丈夫だよ。いいものさえつくっていればね、いずれはみんな戻ってくれるよ」 

と不安がっていたを慰める。 

…そうかもしれない。いや、そうに決まっている。俺もそう信じ込んだ。 

…しかし、誰も本当のもやしを知ることはなく、誰も戻ってはくれなかった 

つぎつぎと…小さな取引先から先に、飯塚商店と離れていった。…そして年々売り上げは減少していく… 

同時に緑豆太もやしを作る他社はますます規模を拡大していった。 

・・・・・・・・・・・・ 

「飯塚さんのもやしが悪いわけじゃないのですが、弊社も一部上場となりましてね。それに見合った設備の会社と取引をしたいのです。栃木に出来た○○さんの新しい工場は立派でした。申し訳ないけど飯塚さんとの取引は今月いっぱいということでお願いします」 

平成11年4月、突然飯塚商店を訪れた最大取引先のスーパーのバイヤーから取引の終了を言い渡された。さらにその年の8月、
 

「なに?もう○○さんところに卸していないんだって?」 

もう一つの取引先である、大きなスーパーのバイヤーが、飯塚商店のもやしがライバルスーパーから切られたことを知り、「飯塚商店の細いもやしは完全に時代遅れ」と捉えたのだろう。そのスーパーは注文の数を一気に半分近くに減らし、減った分を他社緑豆太もやしに切り替えてしまった。これで優良だった飯塚商店は完全な赤字会社に転落。毎月100万以上発生する損失を、父は自己資金で補てんし続けた。…おれは心配だった。しかし父は決して俺に内情を家族に伝えなかった。全部自分で責任を取ろうとしたのかもしれない。 

・・・・・・・・・・・・

「雅俊、お父さんが起きてこないんだよ!ちょっと来て!」 


平成13年の1月、両親が住む隣の実家から母が必死の口調で連絡を寄越した。 

駆けつけると、そこには大きないびきをかいて寝ている父。「父さん!」呼びかけてもゆすっても全く反応がない。これは大変だとすぐに救急車を呼んだ。「脳梗塞」だった。この時はまだ症状は軽い方で数週間の入院で済み、一時父は復帰した、が翌年の1月にまたも父は倒れてしまった。今度は長期入院となり、からだの半分に障害が残った父は引退、そのまま俺が社長となった。俺はすぐお抱えの経理士を呼んで飯塚商店の現状を調べた。億を超える負債、資金は底をついていた。数日後に約束手形が不渡りになるところ…まさに倒産一歩手前であった。俺はあまりの絶望的な状況に愕然とした…。


 俺は…社長になってやりたいことが沢山あった。飯塚商店を立派なもやし屋にしたかった。同時にもっと好きな趣味にも没頭したかった。生まれたばかりの子供の面倒をみてやりたかった。それらの夢はすべて失われ、残りの人生をただ会社の立て直しだけに費やすことになったのを実感した。
 

そして同時に沸き上がる「生産者として正しいと信じていたことが通用しない現実」に対しての怒り… 

「いまさら緑豆太もやしに変えるつもりはない。俺はこのもやしを突き通す」 

…と、誓った。 

俺は業績の悪化を一切家族に相談しなかった父を恨めなかった。あれは家族を不幸に巻き込みたくないという必死の愛情だったと、今自分も父の立場になって理解ができる。父は息子の俺に対していつまでも強い父親でありたかったのだ。よくわかる。 

ある日、ムロ(もやしの栽培室)に入って仕事をしていた時、父の見舞いから帰ってきた母親がやってきた。 

「さっき病院で、お父さんに『雅俊は一生懸命頑張っているよ』て言ったらね、お父さん『すまない、すまない』と涙をこぼしていたよ」 

俺は「…そう」と応え、父が命がけで愛した細くて長くて、力強く根っこのピンと張ったビルマのブラックマッペもやしを手に取った…。 

…それからの8年間、俺は逆風の中を這いつくばり血と涙を流しながら進むもやし屋であった。 

それでももやしは伸び続ける。

  昭和56年、地元高校を卒業した俺はそのまま飯塚商店に入社した。やることは別に変わらない。朝早く起きて、もやしを洗って、袋に詰めて、それを車に積んで、太田市~足利市~館林市~羽生市エリアの配達をする。この頃は取引を始めた地元スーパーがどんどん店を増やしていったので、当然もやしの出荷も年々増えていった。仕事で外に出るといろいろ話を聞く機会が増える。「飯塚さんちのもやしは美味いんだよねぇ」と取引先から何度か聞いた。その時は「ああ、そうなんだ」といった感じで他社のもやしとの違いは俺にはよくわからなった。

昭和58年には新しいもやし栽培施設を建設、移転をした。そこには大きなムロ(栽培室)に散水機、もやしを洗う水槽、脱水機、最新の業務用包装機を1台、小袋用包装機を2台を導入、増え続けるスーパーに対応して大規模効率化を進めた。しかし…大きな水槽でもやしを大量に泳がせ、いくつもの水車でかき回すこのやり方は、確かにもやしを早く大量に洗えて、黒い殻も取れたけど、同時にもやしの折れが増えたのも気にはなっていた。だが増えつづける収入の前に、まずは商売、と両親も俺も目をつむっていた。

小袋250gの卸価格も23円から、諸物価の上昇に合わせて30円にあっさり決まったのもこの頃だった。当時も「もやしは物価の優等生」と言われていたが、まだ物価との連動が比較的実現できた時代であった。小袋卸値15円以下となってしまった現在(平成26年)からは考えられない。

 

25歳を過ぎたあたりから、俺は父に代わり取引先スーパーのバイヤー相手を務めることになった。

 

「飯塚さん、今こういうもやしがあるの知ってますか?」

 

昭和63年頃だったろうか、会社を訪れた取引先バイヤーがそういって保冷バッグから一つの袋を取り出し机に置いた。四角い袋に収まっていたそれは最近よく見かけるあの太いもやしだ。胚軸は太く、白く、根が短く、豆がない。

 

「知っています。福島のN(大手もやし会社)さんところが高級もやしとして売り出しているやつですよね。たしかお店では100円で売っていますよね」

 

そう答えるとバイヤーは

 

「そう。今これが流行ってきているんですよ。飯塚さんのところでもこういうもやしが作れませんかねえ?」

 

…目の前に置かれた、飯塚商店のものとはまるで違う新時代のもやしを見つめながら俺は社長と検討します、と答えた。

 

その日、俺はバイヤーがおいていったその太いもやしを夜の食卓に軽く炒めて出してみた。両親に食べさせるためだ。

 

「へえ。○○(もやし会社)さんちか。こりゃずいぶんとふてぇな。エチレン※を利かせたな」

 

社長…父はもやしを見るなりそういって箸で数本つかみ食べる。それはシャクシャクと噛み心地は軽く、水分が多いのかすっと溶けて特有の風味が残らず、水の苦みが舌の奥に残るもやし…。

 

箸を置いて父が

 

「…こりゃあうちじゃ作れないな」

 

と言い切った。

 

「なにこれ。これはもやしじゃないよ。ゴリゴリしてて、まるで木だよ」

 

と、母が付け加えた。

 

俺も

 

「そうだなぁ」

 

と同意した。この夕飯時の他愛もない会話で飯塚商店は新しいもやし=いずれ全国を席巻する「緑豆太もやし」を拒否した。何の疑いもなく。細くて豆がついていて根っこの長いブラックマッペもやしを信じて。あの香りを正しいと信じて。そしてそのもやしへの強い思い入れが皮肉にも深谷のもやし屋、飯塚商店転落への舵を切ってしまった。

 

…昭和から平成へ。日本のもやしともやし産業は大きく変わろうとしていた。

 

それでももやしは伸び続ける。

 

※エチレン…植物ホルモンのひとつ。もやし栽培室の大気に人工的にエチレンを一定量混ぜることでもやしの胚軸が太くなり、豆の部分が落ちる。