見た目の良さと高い利益率を兼ね備えた画期的なもやし、「緑豆太もやし」を深谷のもやし屋飯塚商店は拒んだ。その影響は少しずつ、
「飯塚さんちは太いもやしはねえのかい?」
「よく根っこが邪魔だって言われるんだよねえ」
「太いのと比べて色が悪いんだよねぇ」
といった取引先からの批判、要望の声となって現れてきた。
しかし頑固な父は曲げない。逆に
「やつらもやしのことなんか知らないんだ」
とあくまでも自らの判断を信じ、言い放った。
母も
「大丈夫だよ。いいものさえつくっていればね、いずれはみんな戻ってくれるよ」
と不安がっていたを慰める。
…そうかもしれない。いや、そうに決まっている。俺もそう信じ込んだ。
…しかし、誰も本当のもやしを知ることはなく、誰も戻ってはくれなかった。
つぎつぎと…小さな取引先から先に、飯塚商店と離れていった。…そして年々売り上げは減少していく…
同時に緑豆太もやしを作る他社はますます規模を拡大していった。
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「飯塚さんのもやしが悪いわけじゃないのですが、弊社も一部上場となりましてね。それに見合った設備の会社と取引をしたいのです。栃木に出来た○○さんの新しい工場は立派でした。申し訳ないけど飯塚さんとの取引は今月いっぱいということでお願いします」
平成11年4月、突然飯塚商店を訪れた最大取引先のスーパーのバイヤーから取引の終了を言い渡された。さらにその年の8月、
「なに?もう○○さんところに卸していないんだって?」
もう一つの取引先である、大きなスーパーのバイヤーが、飯塚商店のもやしがライバルスーパーから切られたことを知り、「飯塚商店の細いもやしは完全に時代遅れ」と捉えたのだろう。そのスーパーは注文の数を一気に半分近くに減らし、減った分を他社緑豆太もやしに切り替えてしまった。これで優良だった飯塚商店は完全な赤字会社に転落。毎月100万以上発生する損失を、父は自己資金で補てんし続けた。…おれは心配だった。しかし父は決して俺に内情を家族に伝えなかった。全部自分で責任を取ろうとしたのかもしれない。
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「雅俊、お父さんが起きてこないんだよ!ちょっと来て!」
平成13年の1月、両親が住む隣の実家から母が必死の口調で連絡を寄越した。
駆けつけると、そこには大きないびきをかいて寝ている父。「父さん!」呼びかけてもゆすっても全く反応がない。これは大変だとすぐに救急車を呼んだ。「脳梗塞」だった。この時はまだ症状は軽い方で数週間の入院で済み、一時父は復帰した、が翌年の1月にまたも父は倒れてしまった。今度は長期入院となり、からだの半分に障害が残った父は引退、そのまま俺が社長となった。俺はすぐお抱えの経理士を呼んで飯塚商店の現状を調べた。億を超える負債、資金は底をついていた。数日後に約束手形が不渡りになるところ…まさに倒産一歩手前であった。俺はあまりの絶望的な状況に愕然とした…。
俺は…社長になってやりたいことが沢山あった。飯塚商店を立派なもやし屋にしたかった。同時にもっと好きな趣味にも没頭したかった。生まれたばかりの子供の面倒をみてやりたかった。それらの夢はすべて失われ、残りの人生をただ会社の立て直しだけに費やすことになったのを実感した。
そして同時に沸き上がる「生産者として正しいと信じていたことが通用しない現実」に対しての怒り…
「いまさら緑豆太もやしに変えるつもりはない。俺はこのもやしを突き通す」
…と、誓った。
俺は業績の悪化を一切家族に相談しなかった父を恨めなかった。あれは家族を不幸に巻き込みたくないという必死の愛情だったと、今自分も父の立場になって理解ができる。父は息子の俺に対していつまでも強い父親でありたかったのだ。よくわかる。
ある日、ムロ(もやしの栽培室)に入って仕事をしていた時、父の見舞いから帰ってきた母親がやってきた。
「さっき病院で、お父さんに『雅俊は一生懸命頑張っているよ』て言ったらね、お父さん『すまない、すまない』と涙をこぼしていたよ」
俺は「…そう」と応え、父が命がけで愛した細くて長くて、力強く根っこのピンと張ったビルマのブラックマッペもやしを手に取った…。
…それからの8年間、俺は逆風の中を這いつくばり血と涙を流しながら進むもやし屋であった。
それでももやしは伸び続ける。