昭和56年、地元高校を卒業した俺はそのまま飯塚商店に入社した。やることは別に変わらない。朝早く起きて、もやしを洗って、袋に詰めて、それを車に積んで、太田市~足利市~館林市~羽生市エリアの配達をする。この頃は取引を始めた地元スーパーがどんどん店を増やしていったので、当然もやしの出荷も年々増えていった。仕事で外に出るといろいろ話を聞く機会が増える。「飯塚さんちのもやしは美味いんだよねぇ」と取引先から何度か聞いた。その時は「ああ、そうなんだ」といった感じで他社のもやしとの違いは俺にはよくわからなった。
昭和58年には新しいもやし栽培施設を建設、移転をした。そこには大きなムロ(栽培室)に散水機、もやしを洗う水槽、脱水機、最新の業務用包装機を1台、小袋用包装機を2台を導入、増え続けるスーパーに対応して大規模効率化を進めた。しかし…大きな水槽でもやしを大量に泳がせ、いくつもの水車でかき回すこのやり方は、確かにもやしを早く大量に洗えて、黒い殻も取れたけど、同時にもやしの折れが増えたのも気にはなっていた。だが増えつづける収入の前に、まずは商売、と両親も俺も目をつむっていた。
小袋250gの卸価格も23円から、諸物価の上昇に合わせて30円にあっさり決まったのもこの頃だった。当時も「もやしは物価の優等生」と言われていたが、まだ物価との連動が比較的実現できた時代であった。小袋卸値15円以下となってしまった現在(平成26年)からは考えられない。
25歳を過ぎたあたりから、俺は父に代わり取引先スーパーのバイヤー相手を務めることになった。
「飯塚さん、今こういうもやしがあるの知ってますか?」
昭和63年頃だったろうか、会社を訪れた取引先バイヤーがそういって保冷バッグから一つの袋を取り出し机に置いた。四角い袋に収まっていたそれは最近よく見かけるあの太いもやしだ。胚軸は太く、白く、根が短く、豆がない。
「知っています。福島のN(大手もやし会社)さんところが高級もやしとして売り出しているやつですよね。たしかお店では100円で売っていますよね」
そう答えるとバイヤーは
「そう。今これが流行ってきているんですよ。飯塚さんのところでもこういうもやしが作れませんかねえ?」
…目の前に置かれた、飯塚商店のものとはまるで違う新時代のもやしを見つめながら俺は社長と検討します、と答えた。
その日、俺はバイヤーがおいていったその太いもやしを夜の食卓に軽く炒めて出してみた。両親に食べさせるためだ。
「へえ。○○(もやし会社)さんちか。こりゃずいぶんとふてぇな。エチレン※を利かせたな」
社長…父はもやしを見るなりそういって箸で数本つかみ食べる。それはシャクシャクと噛み心地は軽く、水分が多いのかすっと溶けて特有の風味が残らず、水の苦みが舌の奥に残るもやし…。
箸を置いて父が
「…こりゃあうちじゃ作れないな」
と言い切った。
「なにこれ。これはもやしじゃないよ。ゴリゴリしてて、まるで木だよ」
と、母が付け加えた。
俺も
「そうだなぁ」
と同意した。この夕飯時の他愛もない会話で飯塚商店は新しいもやし=いずれ全国を席巻する「緑豆太もやし」を拒否した。何の疑いもなく。細くて豆がついていて根っこの長いブラックマッペもやしを信じて。あの香りを正しいと信じて。そしてそのもやしへの強い思い入れが皮肉にも深谷のもやし屋、飯塚商店転落への舵を切ってしまった。
…昭和から平成へ。日本のもやしともやし産業は大きく変わろうとしていた。
それでももやしは伸び続ける。
※エチレン…植物ホルモンのひとつ。もやし栽培室の大気に人工的にエチレンを一定量混ぜることでもやしの胚軸が太くなり、豆の部分が落ちる。