三女敦子を事故で失ってから1年後、昭和38年11月に飯塚家にとって待望の男子が生まれた…長男雅俊、つまり俺のことだ。
その頃になるともやし屋業もますます順調となり日に日に注文が増えていった。昭和40年代に入ると近所の主婦や学生をバイトに雇う余裕もできた。工場長という現場の責任者も育ち、働きどおしだった両親にもいくぶんかの余裕が生まれてきた。
「なんかいつのまにか借金が終わってね、どんどんお金が増えたのもあのころだったねぇ」
と母、衣子はその頃を振り返り話していた。
もやしを栽培し、洗浄、袋詰め、出荷する場所を「もやしこうば」と呼んでいた。旧住まいから徒歩で1分の場所、そして「もやしこうば」は子供の頃の俺の絶好の探検場、遊び場でもあった。真っ暗なムロ(栽培室)に入れば、湿気を含んだ生温かさとツンとしたブラックマッペもやしの香りに包まれる。夏の暑いときはもやしを洗う水槽に勝手に水を汲んで飛び込んだこともある。ブラックマッペの麻袋が高く積んである倉庫では木登りならぬ豆登り。麻袋を引っ張る手鉤を両手に持ってよじ登り、てっぺんからジャンプ。時々手鉤で袋を引き裂き、そこからジャーッとブラックマッペがこぼれ落ち、見つかった父にひどく怒られたこともあった。
いつからだろうか。もやし屋を自分もやるんだろうな、と思うようになり、学校でよくやる「将来何になりたいか」では俺は必ず「もやし屋をやる」と答えていた。もやし屋の子供というのはやはり珍しいのだろう。学校でも同級生だけでなく教師からも「もやし屋んち」と呼ばれたりした。気にはしなかった。だって実際そのとおりだからだ。
古い農家の出である両親にとって子供が家業を手伝うのは当たり前なこと。だから小学生のころから俺はよくもやし仕事を手伝わされた。最初の仕事は樽で原料を仕込んである(浸漬してある)水抜きだ。50個はある樽の栓を抜く作業。まず樽に入っている水の様子を伺う。もやしが呼吸をした証である小さな泡が水面中央に固まっている。プクップクッと肉眼で豆の呼吸が確認できればよい塩梅だ。俺はバケツを持って樽の下部に刺さっているゴム栓を一つ一つ抜く。よく漬け込み水がシャーッと音を立てて直径1cmの穴から飛び出す。どんどん栓を抜いてバケツに栓を放り込む、そのたびに水抜きの音は大きく重なっていく。そして仕込みの部屋はブラックマッペを浸けこんだ水の酸っぱい香りに包まれるのだ。
昭和50年、地元の中学に進学した俺は、本格的に仕事を手伝わされる。「ちょっと手伝いな」と、朝の6時前に母に急に起こされてやらされるのは、業務用もやし作りの手伝いだ。コンテナに山盛りに入れられた洗い立てのもやしを業務用袋3~5kgに詰める。私が袋をもって母がもやしを両手で包んで袋に放り込む。
「ほら袋をもって。そんなに広げるんじゃない。もう少しゆったりと持つんだ。一回お母さんが入れたら少しトントン、ともやしを下におろすんだよ。2回入れたらこの秤に一緒に乗せるんだ、いいね」
思いのほか仕事が長引いて、「そろそろ学校へ行かないと遅刻するよ」と、訴えると決まって母は「今日は休みな、学校には言っておくから」と仕事を優先させてしまう。飯塚家は何よりももやし仕事を優先させた。そんなことで、寝不足の俺は体が丈夫ではないこともあり、中学校2年の時は23日学校を休んだ。
俺が生まれたときはもやし屋がうまくいっていたので、大人になるまで金の苦労をしたことがなかった。俺が自分で選ばなくても、両親が隣町のデパートでよく俺の服を買ってきたりしていた。だから今でも俺のことを「昔はこいつはブルジョアだから」とからかう同郷の友もいる。そんな生活にどっぷりだったので、もやし屋に永遠の明るい未来を見ていた当時の俺は世間を舐めていたかもしれないし、他人に対して傲慢だったかもしれない。
…いや、もしかしたらあの頃は俺だけでなく、家族皆が有頂天であった…
…それでももやしは伸び続ける。