飯塚商店の売り上げはみるみる落ちていく、加えて20年を超えた設備…ポンプ、暖房器、包装機などは故障が重なり機器の入れ替え、メンテナンスにも金がかかった。自己資金にも限界が見え、県の制度融資を使って急場をしのぐ…。俺には何の光も見えなかった。
平成16年、俺はどうしても同じブラックマッペもやしで頑張っているもやし屋さんを見たくなった。仕入れ先の原料輸入商社の社長にお願いして、鹿児島の小さなもやし屋さんを訪れた。そこはエチレンを使わずに、自然な成長だけでもやしを栽培していた。俺が目指している本来のもやしだ。感動した。しかしそのもやし屋さんは数年後に廃業してしまった。作り手の理想=売れない、という現実に再び怒りを覚えた。
平成18年、この頃から緑豆太もやしの価格が大きく崩れだした。関東圏で言えば、勢力を伸ばしている安売りスーパーが緑豆太もやしを通常価格「18円(税込)」で売り出したのだ。特売ならともかく、毎日が18円なんて信じられない。高付加価値として期待された緑豆太もやしだが、今ではどこでも普通に造るようになってくると、いよいよ本格的な価格競争が始まったのだ。作り方が確立された緑豆太もやし、その最大のデメリットは「差別化」しにくいことだった。
「どこのもやしも同じなら安い方がいい」
取引しているスーパーのバイヤー、八百屋の店主から卸価格の値下げを迫られたとき、彼らは同じようにそう話していた。この頃から本当にもやしの価値は「低価格」だけになってしまったのだ。
平成20年頃、不思議なことが起きていた。この頃は野菜の「安さ」だけを求めるお店ばかりかと思えば、逆に野菜ソムリエといった資格が人気になっている。いわゆる「こだわり野菜」がもてはやされていた。もしかしたら「価格」と同様「情報」が求められている時代なのか?と思い、俺は確かめたくなった。
これでダメならもやし屋は終わりだ。そんな背水の陣で、俺はあちこちのウチのもやしを扱う店に立ってみた。価格は下げない。「私が作っているもやしです」そうお客さんに話しながら。時には試食を用意して、時には飛び込みで何も持たずに店に入り伝えてみた。そして、俺は立ち止まったほとんどのお客さんが「細くても、根っこが長くても、気にしない」ことに気が付いた。生産者が「もやしとは本来こういうもの」と言えば納得してくれるのだ。
かつて両親は「お客さんはわかってくれる」と信じていた。しかしわかってくれなかった。ひとつ肝心なことが抜けていたからだ。
『生産者自らが伝えること』
…生産者が伝えれば食べる人は理解をしてくれるのだ。もっともお金がないから「伝えること」しか出来ないが…しかし実はそれが今一番大切なことだったのだ。もやしの価値観を裏返す…並大抵のことじゃない、だがやる価値はある、いやそれしかやることがない。俺はもやしのオセロゲームに着手した。
平成21年、ありとあらゆる手段を講じて、俺はもやしの発信に努めた。店頭試食販売の他に、HPの開設、ブログ、絵本の作成(HPで公開)、もやしイベント…儲けるためではない、あくまでももやしを伝えるための活動だ。そしてやればやるほどオセロのコマは裏返った。
その年の9月、俺は地方新聞、読売新聞の取材を受けた。「もやしの絵本」についてだ。もちろん公のメディアで紹介されるのは初めて。新聞に記事が掲載された日はあちらこちらから問い合わせの電話があった。忘れられたもやし屋に再び光が当たろうとしていた。