A. ソブール著「19世紀におけるフランス革命の伝統と創造」(その1) | matsui michiakiのブログ

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横浜市立大学名誉教授
専門は19世紀フランス社会経済史です

La Commune de 1871, Colloque de Paris, mai 1971. Le Mouvement Social No 19  (Avril-Juin 1972),  Les Edition Ouvrière.

アルべール・ソブール著『19世紀におけるフランス革命の伝統と創造』

Albert Soboul, Tradition et Création dans le mouvement révolutionnaire français au XIXe siècle.

 

p. 15   再び始まった批判的考察のために1871年のパリ・コミューン百年祭を祝福し、共和暦第3年を想起から始めることはまず奇妙であり、かつ厚かましいことのように思われる。しかし、解釈論争を超克し、コミューンを歴史の連続においてあらゆる富をなおまだ探索をなし尽くされず、また説明しつくされていない事実案件として扱うと同時に、その後に続く世代に降りかかる一例ないしはモデルとして位置づけることがわれわれの狙いである。黄昏か、それとも夜明けか? 相続人か、それとも先駆者か? このような論争、このような無意味なスコラ的命題はひとまず措くことにしよう。すなわち、コミューンは鎖に繋がれているのだ。その説明が19世紀全体に亘っての伝統および創造の二重の局面において革命運動史に提起されねばならないと言ったら、それはあまりに陳腐であろう。コミューンがそれ自体としてこの運動のその後の発展を導いたと主張することが陳腐であるのと同じように。

 われわれがコミューンを革命運動の歴史的連続において置きなおそうと試みるとき、共和暦第2年はまずわれわれにとって免れない事実であろう。ところで、どんな革命実践の問題なのか? また、どんな行為であるのか? われわれは、共和暦第2年に近代革命政治の誕生がきわめて勇壮にしてかつ巨大な友誼の発露をもって、また術策や陰謀を伴って現出したことを目撃する。当時、行動が起こされ、諸傾向が姿を現わし、その革命的実践の証拠が確認された。すべての者が次々と最終的に集合精神に身を寄せる。社会的抗議、世界観、革命行動の規範とモデル ― 1793年の大舞台に重要な役割を演じた ― などは、心理構造や精神的枠組において p.16 既存の公式に従ってこれらを「長期の牢獄」の中に挿入されるのだ。明らかにパリ市民と人民大衆は19世紀中にゆっくり変貌した。しかし、社会的要素や経済的要素に後れて来る知的要素は思考や行動においてなおまだ古い形式を維持したままである。

 じっさい、フランス革命以来、19世紀全体を貫徹し、また、1871年のコミューンにおいて交差する革命行動と実践の根本的な2つのラインが現われる。大衆の革命運動と実践と、位階組織の指揮下における集権化された実践がそれである。革命行動の必然性に直面して、この2つの傾向が姿を現わしたが、その敵対関係はサンキュロット主義とジャコバン主義のあいだの敵対関係のかたちで歴史的に結晶する。したがって、私見によれば、バブーフが(政権の座にたどり着かなかったとはいえ)批判的省察を豊かにすることができたのは、この2つの経験の効果的な統合をなしえたからである。

 これらの問題を細かく規定することはわれわれにとって意味のないことではなかろう。フランス革命は19世紀に対してなんらかの相続遺産を贈ったのであるが、1871年に出現したのは革命的伝統のどちらであろうか! 歴史的連続性においてコミューンの位置は多くの性格さをもって位置づけられるであろう。

 

 1789年から共和暦第2年までパリのサンキュロットは革命闘争の効果的な道具を考案してきた。1793年においてその行動によって彼らは革命政府の樹立を可能にし、したがって、内部の反革命と外部勢力との大同盟の敗北を可能ならしめた。もっと正確な言い方をすれば、1792年から1795年までパリの民衆のミリタン(闘士)はたとえ社会的・経済的・効果的な綱領を考えつくことができなかったとしても、首尾一貫した政治的傾向を活用し、革命的実践を利用し、社会的行為を主張した。サンキュロット主義と、ブランキ主義者のトリドンによって特に普遍化されたエベール主義という表現は歴史的にみて、私には誤りのように思える。それは「個人崇拝」の所産であるにすぎない、といった便利な用語を含む傾向や実践行為がこれである。

 

 パリのサンキュロットの政治的傾向として人民主権の概念 ― ひとつの抽象的義務ではなくて、具体的・日常的現実としての概念 ― を考えてみよう。p. 17 法律の承認、被選出者の支配と罷免の権利のようなセクシオン(区)の永続性と自治、直接統治の実践への傾向、そして、人民的民主主義の樹立はここに源を発する。革命政府と革命国家の問題に関して、権力の集中と集権主義のジャコバン主義に敵対する概念が共和暦第2年にこのようにして表明された。そして、共和暦第2年以降、19世紀フランスの革命運動の特殊なラインのひとつ、すなわち絶対自由主義(libertaire)の路線「自然性」がこのようにかたちを結んだのである。

 権力の革命的集中は基礎をもつ。権力というものは譲渡というかたちで移譲されない。個人的ないしは集団的独裁のすべての関しての不信と憎悪はここから発する。独裁とは簒奪にほかならない。この本質的特徴、人民の手中に革命的権力を保持するこの気遣いは明らかに幾つかの状況下にマラーが「護民官」ないしは独裁者を指名する提案についてほとんど成功しなかった理由を説明する。エベールおよびコルドリエ・クラブに対してなされた告発 ― そして人民の精神において彼らを失わさせるため巧妙に拵えあげられた告発 ― によれば、彼らは大審判官を創設しようと企てたというのだ。人民大衆は、諸党派の粛清後に全権が政府の諸委員会の中に集中された共和暦第2年春に彼らの不満をいま一度表明しているのである。つまり、「革命は凍結した」と。

 人民主権の行使は制限を受けることはありえないゆえに、サンキュロットは革命の真っ盛りにおいてさえ全体的にそれを享受しうると解していた。例外的状況下でサンキュロットは実質的に立法権をとり戻していた。かくて、1793年7月6日における憲法の受容の際がそのようなものであり、蜂起の時がそのようなものであることは言うまでもない。革命政府の樹立は、ジャコバン的集権主義が再び強化される共和暦第2年の春までは少なくとも、これらの要求を修正しなかったように思われる。

 直接統治の一種の実践まで混乱して追いやられた人民主権の原理から民衆のミリタンは人民に依る法の承認を超えて、すべての市民の裁判と武装の自由についての民衆的実践を導きだした。かくて、1782の夏から1793年冬にかけての革命の危機的状況下において真正の人民独裁が現われたが、これは革命政府の樹立の過程のいて重大な貢献をなした。われわれは他の処で展開されるはずのこうした局面についてはこれ以上の説明を慎しむことにし、われわれは結果についてのみ留意したい。

p.18   じっさい、革命政体に関して人民的概念と、山岳派ないしはジャコバン派のブルジョワジーの概念とのあいだには究極的な矛盾があった。主権をもつ人民の基礎組織の恒常的支配はひとたび設置された革命政府を維持すべきだったであろうか? 逆に、その権力は代表民主主義(多かれ少なかれ明瞭に述べられた)の原理の名において一つの集会、そして究極的には一つの指導委員会の手中に集中すべきだったであろうか? 時の状況のせいでジャコバン的概念がその権力を手に入れた。しかし、それは、この革命政府を権力の座に就けた民衆運動の高揚をうち壊すことでもあった。ジャコバン主義はサンキュロット主義よりも短いほんの数か月の間だけ生き永らえた。権力の二重性の問題、これこそパリ・コミューンがかつて直面し、現に再び直面する本質的な問題のひとつをそこに認めるのである。
 

 サンキュロット主義の革命的実践は創造的なもの、特殊なものであった。2つの本質的原理が人民大衆の政治的行動を導いた。彼らにとって暴力が究極的な手段をなした。最初の原理は公開・人民の護衛・革命的監視の必然的帰結である。感情と確信の合一にもとづき行動の協調の実現を可能ならしめ、かくて最初の本質的要因のように思われる。統一が第二の原理である。民衆運動の得失が宿るのはそのゆえであり、革命的でさえあるブルジョワジーに対して取返しのつかぬほどに敵対したところの、一定数の実践はそれに由来する。

 公開原則(publicité)は民衆たちが社会的関係をつくりあげた単純にして友誼的観念に由来する。共和暦第2年ヴァントーズ25日(1794年3月15日)フォンテーヌ=ド=グルネル区からオクセールの人民協会に宛てられた書簡によれば、「愛国者は個人というものをもたない。愛国者は共同の集団をもたらす。享楽と苦痛はすべてわが同胞の胸中に流れる。ここにこそ同胞的すなわち共和主義的秩序を特徴づける公開性の根拠が宿る。」政治綱領に関して公開原則は重大な結果をもたらした。見地として公共的善のみを懐かない愛国者はその意見やその行為を隠してはならない。したがって、公共生活は、主権者の見ている前で白日のもとに展開される。行政体は一般集会と同様に公開された会議で討議し、傾聴席の注視のもとに声高に有権者は投票した。悪しき市民のみが隠れて行動する。p.19 告発はひとつの市民の義務となった。

われわれは公開投票の実践に対して主張しようと思う。それは1792年夏に民衆運動の勝利のうちに現われ、翌年夏のあいだサンキュロットの政治的影響が強まるに比例し普及するにいたった。「声を発した公開投票」。1793年8月7日、ポンヌフ区の人民協会によれば、「自由人の投票」とはそのようなものであった。それゆえにこそ、サンキュロットを活気づけた満場一致の、この熱烈であるとともに曖昧な願望にまさしく照応する拍手によって投票をおこなった。しかし、この満場一致こそ敵手を挫くための唯一の手段でもあった。拍手による投票は共和暦第2年春まで同様に効果的だった着席・起立による投票のブルジョア方式と相並んで用いられた。このような民衆的な投票実践はヴァントーズの危機とコルドリエ派の告発を機として終わりを告げた。再び強化されたジャコバン独裁とともにブルジョア方式投票への回帰が始まる。拍手による投票ないしは発声式投票は粛清後のコミューンの代理人たるペイヤン(Payan)によってセクシオン総会から追放された。かくて、セクシオンは従わねばならなくなった。しかし、サンキュロットは以後、総会に出席しなくなる。共和暦第2年のジャコバン反動を特徴づける秘密投票への回帰は革命政府に対する人民の不人気を助長することになった。

 拍手による投票は公開原則に一致し、それと同時にサンキュロットを鼓舞した満場一致への願望を示すものであった。民衆組織のあいだと同様に市民間における統一への探求はここに発する。セクシオンのプランにおいて統一実践は総会への精勤の絶え間なき檄によって、次いで欠席しがちなことに対する告発によって、最後に無関心主義の告発によって表明される。コミューンのプランにおいてはセクシオンとセクシオン協会の行動を協調させること、すなわち、コミューンそれ自体のために自立性をもたせることが重要であった。集団的名における請願、セクシオン組織間の通信は長いあいだ有益な方式だった。1793年春、ミリタンたちは別の意味で曖昧さそのものにおいて有効なひとつの武器、つまり、セクシオンからセクシオンへの友誼を完成した。友誼の接吻はその象徴であり、宣誓はそれに対する准宗教的価値を授けた。

 「つねに一致していること」「友誼的に単一であること」「反目せず、すべて兄弟であること」、共和暦第3年プレリアルの悲劇的戦闘の時、ポパンクールの無名のミリタンが発したこれらの感動的演説は民衆の満場一致の精神という本質的要求を浮き彫りにする。サンキュロットは孤立した個人として理解されることを嫌った。p.20 サンキュロットは集団で物ごとを考え行動する。友誼は抽象的な美徳ではなく、歴史的記念碑の真正面に刻印されるべきものだった。しかし、一方、人民的統一の半ば物理的な感動であり、熱の籠った感情であった。「ともに友誼的であること」、1871年の戦いに参加した人々も同じように叫び、コミューンの全盛期においもそうであった。リサガレーの『歴史』ないしはヴァ―レスの『叛乱者』の最も美しいページの中にもその言葉が見出される。

 

 最後に、長いあいだ19世紀の革命運動に維持されるところの民衆的・社会的行動について幾つか指摘することはわれわれにとって無益ではないであろう。

 まず、キミ、ボクの呼び名と「市民」という呼称である。これら呼称は1793年夏のあいだに、すなわちサンキュロットが政治舞台に出てきたときに姿を現わした。1792年12月4日、サンキュロット、前の植物園区のセクシオン総会は「あなた」を「封建制の名残」として退け、「おまえ」という言い方を「自由人に相応しい真実の用語」と推奨した。それと相前後して10月3日、『パリ通信 Chronique de Paris』は「あなたがMonsieurに相応しいのであれば、おまえは市民(Citoyen)に相応しいであろう」と書いた。「平等の恵まれた政治のもとで親密さは人が心中に刻む友愛の美徳のイメージにほかならない」。この点に関して社会的行動の裂け目のラインを捉えることができる。無用な「こうした無作法な言葉づかい」、と宣したブリソー(Brissot)と同じく、ロベスピエールもキミ、ボクの呼称に反対であった。共和暦第2年ブリュメール21日(1793年11月11日)、国民公会はそれを義務化することを拒絶した。共和暦第2年の全期間を通してキミ、ボクの呼び名がセクシオンやパリの組織において普及したとするなら、そうした呼称の使用をジャコバン派が嫌ったことは民衆運動の退潮が始まるジェルミナール以後に表面化した。

 革命運動に関する結果とあい並んで社会的行為を特徴づけるためには、婦人に対する態度がさらに重要である。ここでは大きな民衆運動における婦人の役割にふれず、多くのセクシオンの組織、総会、人民協会における婦人たちが占めていた位置を想起しなければならない。それらの組織は1792年夏から1793年秋にかけて事務局を設け、積極的な討論に参加し、幾つかのセクシオンは彼女らに発言権を与えた。クレール・ラコンブ(Claire Lacombe)によって鼓舞された「革命的共和主義協会」は政治的平等、すなわち「権利の宣言」は両性に共通である」

を採択するよう要求した。1793年秋以降にジャコバンの反動が始まった。ブリュメール8日(同年10月9日)、ファーブル・デグランティーヌ(Fabre d’Eglantine)は国民公会の演壇上から、一家の母ではなくて、p.21 「妖婦、さまよえる女騎士、放縦な娘、男勝りの大女」から成る婦人クラブや婦人協会の解散を訴えた。共和暦第2年の革命運動における婦人の活動はこのようにして終焉し、そして、サンキュロット主義とジャコバン主義の敵対関係はまさにこの点をめぐって表面化したのだ。

 サンキュロットのあいだに反女性的偏見が存在しないことは、明らかに民衆生活の基本的特徴のひとつに照応していた。自由な結婚が常態であって、そのことは、ミリタンが庶子と嫡子を同権と要求する主張の根拠となった。その実践においてセクシオンの諸権力は共和暦第2年において婦人と嫡子の別をまったくつけなかった。共和暦第3年になると、紳士たちはそうした慣行を捨て去り、彼らとともに伝統的なモラルが戻ってきた。メゾン=コミューンのセクシオンはメシドール20日(1795年7月8日)、「正式結婚を証明せざる」結婚は兵士の留守家族に対する援助の対象から外すという決議を採択した。

 

 本稿においてわれわれが定義しようとつとめたように、サンキュロット主義はエベール主義という共通用語における歴史では扱われている。じじつ、こうした言い方はガイドというよりオウム返しにくり返す人々としての代弁者の1人によって民衆運動の中で扱われている。こうした革命的伝統は1864年、トリドン(G. Tridon)の小冊子「歴史の中傷に対する苦情、エベール派」(1871年に再販されたが)が称揚された。トリドンは書いている。すなわち、「大革命は始終、パリの運動によって乗り超えられた語句の舞台ではない〔……〕。革命は下層民の心底に、フォブールの憤懣に、セクシオンやクラブの野次怒号の中に、つねに行動してやまない無名ないしは毛嫌いされたこれらの人間たち ― 強者を苛立たせ、弱者を激励し、いたる処で暴君とドグマへの憎悪の種を撒き散らす ― の中に住んでいるのだ。〔……〕パリは金属が溶解している大窯であり、自由の大きな立像が飛び出す鋳型である。」大衆の革命的自発性をこれ以上に称揚することはできない。革命「この人間の沸騰、この思想の噴出、この情熱 ― すべての願望、すべての原理、すべての人間の苦難が現われる尊敬と恐怖の入り交じった情熱 ―の激発にほかならない。帝政末期に「新エベール主義者」に課された革命のイメージはこのようなものであり、彼らは「ロベスピエールを連想させる不毛にして獰猛な偶像」に対置して立てた革命のイメージでもあった。

 革命の民衆的伝統に対してはじっさい、ジャコバン主義の伝統と対立した。