A. ソブール著『19世紀におけるフランス革命の伝統と創造(その2) | matsui michiakiのブログ

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横浜市立大学名誉教授
専門は19世紀フランス社会経済史です

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  歴史的に言えば、ジャコバン主義は1793年と同一視される。ジャコバンクラブは4年間に及ぶ発展を経ているが、ジャコバン主義を別の年代的規定をもって語ることは事実てきにできない。先見の明に長けたJ.ミシュレは、1792年の末頃、反ロベスピエール、反ジャコバンを標榜する党派の出現において「協会」が第3世代に入ったことを認める。その頃から「1793年のジャコバン主義が始まる。〔……〕それがロベスピエールを用い、また、彼とともに用いられるようになる。したがって、1793年のジャコバン主義はルソー主義と結びつけ、反革命伝統および像を結晶させた。「エベール主義」の名をもらい受けたサンキュロット主義も同様である。プルードンはルソーを「ジュネーヴのペテン師」と呼んで嫌忌し、ジャコバン主義を「教条主義の変種」と定義づけた。トリドンや彼の反ロベスピエール的呪い「ロベスピエールまたはトルクマーダの妄信者、閨房および舞台裏のジャコバン、中傷の要塞、心の弱者、コミューンに戻れ、93年に到着せよ」と言った。しかし、I. テーヌもまた「近代フランスの起源」を執筆するにあたって、「社会契約論」を細かに分析したのち、こう述べている。「そこで、実践は理論を伴い、大衆によって解放された人民主権のドグマは完全なアナルシーを、つまり、サンキュロット主義、人民権力のゆえにアナルシーを生じるだろう。」その首魁によって解釈されれば、それは完全なる独裁に行き着くだろう。これぞジャコバン主義と公安委員会の独裁である。

 

 政治的気質によって判断するかぎり、ジャコバン主義はひとつの革命的技術として定義される。

 原理への固執、道理をもつことの確実性と慢心、態度の硬直化はしばしば教義の曖昧さを覆い隠した。ジャコバン主義はいとも簡単に不寛容となり、しばしば党派的となり、ある矛盾をおかすことなく統一の熱狂的探究に専念する。「したがって、あらゆる党派は犯罪的である。それは人民、人民協会の孤立であり、政府の独立であるからだ」、とサン=ジュストは共和暦第2年のヴァントーズ23日(1794年3月13日)に「外国研究」に関する報告の中で宣言した。「だから、すべての徒党は犯罪的である。p.23 なぜなら、それは市民を分断してしまう傾向をもつからだ。」ジャコバンは疑いなく、このような統一への情熱をセクシオンのミリタンと共有する。だが、自然発生的運動や人道主義的熱情である心情はここでは理論的要求として原理化される。ジャコバンは政治的情熱を極端にまでおし進める。ジャコバンはその高慢な信念のうちに英雄主義的自殺の力を見出す。秩序・団体・共同体を破壊する革命の真只中においてジャコバンは党派心を再興した。セクシオンのミリタンを意味する大衆よりも政府の閣僚又は議員のほうがジャコバンにとって大衆と接触した際、容易に当惑することを明確にしなければならない。

 ジャコバン主義の革命的技術に関し、そのメカニズムは久しい前から機能を失っていた。そして、敵意を招くことは避けられなかった。ジャコバン派は教義を固定し、政治的指針を明確にし、単純にしてかつ効果的な合言葉でもってそれを具体化する。そして、抑制的委員会の実践に焦点を合わせる。ひとたび人民主権の原理が宣せられたとしても、粛清という一種の挑戦が選挙を準備し導いていく。そして、その必然的帰結は浸透である。「粛清のための調査」のゆえに加盟者は候補者がその受任を履行することに適しているかどうかの審査が可能になる。かくて、制限された競争、導かれた選択および自由が有権者に与えられる。明らかにこのような実践はセクシオンのミリタンにとっては無駄ではなかった。ジャコバン主義は体系的にこうした実践を整序する。究極的に会合占拠または指名が選挙にとって代わる。この見地からみると、1793年3月(共和暦第2年春)におけるパリのセクシオンの革命委員会の進展は典型的である。

 選択され先導されて公的生活に入った市民は、まさしく公安委員会が政府の行動であるように、母協会の衝動「世論の唯一の中心」の衝動を受け取る加盟組織網に締めつけられる。共和暦第2年、ベルヴィルの人民協会の回状によれば、そこから出ると、「光と人生の特徴は愛国主義を活気づけ温めるであろう」。かくて、大衆の革命的躍動は指導グループによって割り当てられた目標に向かって導かれることになる。p.24 「民衆運動は暴政がそれを必須化したときにのみ正当である」と山岳派の新聞は1793年9月19日に書く。「幸いにしてパリの人民はつねにこの必然性を感じている。」〔……〕特に民衆権力の機関としてのセクシオン協会の解散はこのような権威主義的中央集権主義のジャコバン的要求を例証する。セクシオン協会は共和暦第2年フロレアル26日(1794年5月15日)に最後の論争の結果、「連邦主義の恐ろしい妖怪」であるとして廃止された。世論の統一を再建しなければならず、すべての愛国者が母協会たるジャコバンに集中することが必要となった。この協会は公安委員会の表明でもあり、その支えでもあったのだ。

 かくて、ジャコバン国家への権力集中に対する最後の障碍は消失した。

 ジャコバン的革命実践はひとつの論理的帰結に到達したが、厳密な意味での中央集権主義は革命勢力の社会的ニュアンスを何ら考慮に入れていなかった。疑いなく、この実践は民衆的暴力に組み合わさって非常に大きな効力を発揮した。それは1793年に覇権を掌握した。革命政府の樹立、公安委員会の独裁、ついには共和暦第2年春における共和国軍の勝利がそれである。しかし、それまでは自立性を維持し、固有の願望、固有の組織、固有の民主主義を保持した民衆運動はジャコバン的枠内にむりやり組み込まれ、かくてジャコバン独裁はセクシオンのミリタンから離れた。かくて、サンキュロット主義とジャコバン主義の両立しがたい敵対関係ができあがる。また、このことによって革命勢力の分裂により「テルミドール」への道が開けた。

 

 フランス革命が19世紀の革命運動に遺贈したジャコバン的財産は究極的に2人の人物という化身となってあらわれる。すなわち、その実例の評価は矛盾的といわれるロベスピエールとマラーである。19世紀の革命運動の流れに2人の浮沈を追跡してみるのは興味深い。ここでは第二帝政の末年に注意を惹いた人物、つまり、コミューンのミリタンに限定しよう。

 ロベスピエールは1830年代に共和主義者にもてはやされた。かくて、『マクシミリアン・ロベスピエール選集』の著書を1832年に、『歴史評論』を1840年に公刊したラポネラージュ(Laponnerage)は次のように述べる。ロベスピエールは「フランス革命の最も有力で傑出した人物のひとりあり、ルソーを理論的父とし、イエスを創始者として仰ぐジャコバン党のミリタンの首魁である」。ビュッシェ(Buchez)のロベスピエール主義と彼の著書『フランス革命議会史(1834-1838)』を想起されたい。ロベスピエールなる人物を借りてジャコバン主義の称揚は1848年を生き抜くことができなかった。ミシュレは、漸進主義(positivisme)の支持者が同時に復権されたダントン好みをけっして包み隠さなかった。特にロベスピエールは革命家たちにとって1848年の政治家殊にトリドンの言うところの「リュクサンブールの前説教師」につながりをもつ不信用に包まれた。

p.25  ブランキはひどく乱暴に反ロベスピエール主義を標榜する。この点について象徴的なのはロベスピエールに関するブランキの解釈である。彼は1848年5月15日の暴動に参画したかどで有罪判決を受け、ドゥーラン(Doullens)城に拘禁されていた。1850年8月に書く。「ロベスピエールは早熟のナポレオンである。異なった手段をもつが、共通の情熱をもつ同じ綱領 ― 革命的精神への憎悪、軽信性への憎悪、文筆家への反感、特に権力欲 ― に従う。私は心的無関心については語るまい。どちらも人類に属さないのだから。2人とも社会を古い形而上学の上に築くことを欲した。」さらに続けて言う。「テルミドールにはもはや人民がいない。ロベスピエールは人民を意気阻喪させ、反動的独裁と宗教の再興計画でもって心的朦朧状態に追い込んだ。」そこにこそ議論の核心があるように思われる。反カトリックで無神論者のブランキは最高存在の祭典のゆえにロベスピエールを許さなかったのだ。

   ロベスピエールが1806年までは革命派のアイドルであったのに対し、ブランキが革命派に向かってロベスピエールを棄てるべきだと説いたのは事実である。1865年から1867年まで3巻にまとめて出版されたエルネスト・アメル(Ernest Hamel)の『ロベスピエール物語』は聖者伝的で少々鎮痛的であるものの、この流れを正すことはできなかった。それ以来、理想化されるようになったのはエベール派である。ブランキの弟子としてのトリドンが1864年に擁護者として現われ、彼らが追求されるべきモデルとなった。しかし、たとえブランキがロベスピエールを反革命の鬼として拒絶したとしても、その革命的、中央集権的、エリート集団的実践はジャコバン主義の右翼的系統となんら変わるところはない。

 もっと正確な言い方をすれば、ジャコバン主義の影響への固執、この基本的状態でのマラー主義であった。トリドンがエベールの名誉回復を図った1年後、アルフレ・ブジュアール(Alfred Boujeart)は別の意味で定評ある作品の中でマラーを褒めたたえ、「不公平な判断をやめる」ことを主張した。ブジュアールは「人民の友」(マラーのこと)が暗殺される夕刻、「追求すべき諸事件に想いをよせるよう自問している。カミーユ・デムーラン(Camille Desmoulins)の記事(1793年12月10日の『ヴィユ・コルドリエ』第2号)を取りあげ、ブジュアールは答えて言う。「…マラーのみが共和政・自由・革命を救うことができたはず。なぜというに、彼のみがどの点を踏み越えると無茶が始まり、どの点まで到達しなければ反動が始まるかを弁えており、その地点に踏みとどまったからである。」

p.26  行きすぎと生温さのあいだの中間点こそジャコバン主義のそれであった。これは多分にマラーのおかげのせいであろう。

 マラーは革命政府の諸要求に直面するにはあまりに早逝した。明らかに彼の存命中の最後の数週間に「過激派」に対する彼の攻撃、特にジャック・ルーに対する攻撃をみると、なにがマラーの行動指針であったかを垣間見ることができる。しかし、思うに、これこそ革命的自覚に覚めた「人民の友」のもっと簡潔なイメージであった。マラーの「眼」と人民の歩哨、預言者としてのマラー。マラーははっきり革命的監視の要求、暴力の要求を置いた。1789年9月、それが形をとるか取らぬかのうちにマラーは革命の安寧が通らなければならない唯一の道を見出した。マラーの精神において1793年夏になってようやく実を結ぶことになる革命権力の集中の思想が明確に形をとるようになったのは1789年9月であった。あまりに多くの者に権力が分散すれば、革命的行動は消耗するばかりである。「政治機構が暴力的動揺によってのみ巻き戻されうる。」先見の明あり、優れた洞察力!

 簡素なままにとどまる政治思想にもまして、声高に要求された独裁概念はけっして中身においても、またその期間 — 3週間または3日間 ― においても明確化されることはなかった。「このために私は行動する必要さえ感じないであろう。祖国への私の献身や正義のための私の尊敬、自由のための私の愛・・・」。マラーは革命的暴力を要求し、それを正当化する。彼は書いている。1790年7月26日のチラシで「500ないし600の首が飛べば、諸君は休息・自由・幸福が保証されるだろう。似非人道主義は諸君の腕を掴み、諸君の攻撃を中断させる。しかし、それは何百万という諸君の兄弟の生命を危うくすることになる。」マラー派の革命的警戒と革命的暴力の要求とその正当化は大衆の気質と行為に合致していた。それは1人の独裁者の手中への権力の集中の檄に合致していた。

 最後に、19世紀の「マラー主義者」が保持したのはマラーの変形されたイメージではなかった。特にブジュアールはマラーをロベスピエールと対決させた。ジャコバン派、マラーはたとえその革命的独裁の理念が粗雑なものにとどまったとしても、権力と権威集中への要求に彼が固執するゆえにジャコバン派でもあった。また、大衆の革命的自発性に対し明確に不信をいだいている点においてもそうであった。彼は1774年以来、『奴隷の鎖』で書いたように、「これら不幸せな者に何を期待できようか?」 彼は直接民主主義の実践についてもまた不信の眼を向けていた。1793年6月21日、彼は両刃の剣としてのセクシオンの永続化の危険性を非難した。p.27 だが、マラー主義から革命的集団意識は予言と警戒の訴え、暴力の要求のみを保持した。かくて、革命的伝統において一種のマラーの人民的イメージのジャコバン主義を生みだす。

 

 サンキュロット主義とジャコバン主義は両者の同盟によってのみ効果を発揮することが判った。単一の力にたち戻れば、それらはともに失敗するにいたるべきものだった。ジャコバン独裁は人民的基礎から切り離されれば失敗する。当時、1794年の夏から秋にかけて反ジャコバン的「新エベール主義の」反動が、もっと正確にいえば、サンキュロット主義の一時的に復活した。一方、共和暦第3年プレリアルの戦闘でサンキュロットが敗北したため、ジャコバン独裁をある程度復権させた。この2度の経験から新たな革命的実践がついに解き放たれた。和解する総合ではなく、真実の変容が生じた。この本質的な段階はバブーフ主義によって構成される。そこからサンキュロット主義とジャコバン主義が融合し、バブーフはじっさい大革命そのものから生まれた新しい社会のイデオロギーであるのみならず、ブオナロッティの『平等党の陰謀』(1828)を通じて彼が30年代の革命家世代に、特にブランキに遺贈したひとつの実践を発露することができた。

 世人はしばしばバブーフ主義とブランキ主義の姻戚関係を強調するが、その問題については細かく吟味する価値がある。

 共和暦第5年(1795~96年)における平等党の陰謀組織はそれまでのジャコバン的ないしは人民的革命運動によって使用された様々な方法でもって破壊点を標した。しかしながら、後者は人が言うほどに明瞭であるとは思われない。殊に組織された陰謀について世人は語る。明らかにクーデタないしは一揆に非ずして民衆暴動に訴える。秘密保持の要求が明瞭に主張される。「秘密組織の革命主力に対する最初の指令」により規定された秘密行動を執ることの必要性」、このような要求はブランキ主義に受け継がれていく。

p.28   しかし、1792年8月10日の蜂起は秘密裡に形成された革命的コミューンによって準備されたのではないか? そして、エヴェーシェの秘密委員会による1793年5月31日~6月2日の民衆暴動はどうか? このことのゆえにバブーフ主義とジャコバン主義の関係が主張された。

 平等党の陰謀そのものの組織に関していえば、それはドマンジェ(Domanget)氏の表現を借りと、「力強い方向」により特徴づけられる。したがって、秘密組織の中核にバブーフの周りに集団指導の小グループが位置する。これらの人物は「一つ方向に指導するために民主主義の散らばった糸を1点に束ねるのである。・・・」かくて、中央集権主義の必要性が生まれる。これこそジャコバン主義の主要な作品である。指導的中核の周囲に…ごく少数の試練済みの秘密のミリタン、つまり革命家たちが位置を占める。その外側に共和暦第2年のシンパ、愛国者、民主主義者、これらは秘密の外側にあり、彼らが新しい革命的理想を共有したとは思われない。そして、その外郭に人民大衆そのものが指導されるべきものとして位置する。それが組織された陰謀であることはまったく疑いを入れない。しかし、大衆と必要な連携の問題は不確実な方法で決められた。そういった問題は提起されていたのか? いかなる条文も広がりの階梯で「愛国者の集会」と大衆のあいだの関係をどのようにして確立するかについてふれない。強力に構成された政党の概念からも程遠い。革命的前衛はそれが導くべき人民大衆から切断されているように思われる。これはすでにジャコバン的実践を特徴づけ、かつブランキ派の革命組織をも特徴づけるものだった。

 蜂起がそのカベを取り払った。最初の目標は達成された。つまり、旧国家の破壊が成就されたのである。(この際、「その出生において非合法的であり、その精神において抑圧的であり、その意図において専制的なものとして」共和暦第3年の憲法)革命権力の問題が措かれる。ここではブオナロッティの『平等党の陰謀』を追跡すれば、「貴族権力の崩壊と人民憲法の決定的樹立のあいだの」過渡的段階の必要性が説かれる。ブオナロッティが述べる論議は、フランス革命の経験が陰謀家たちに示唆したそれである。「自然秩序から極めて遠ざけられた人民はほとんど有用な選択をなす能力をもたず、ひとつの特別の手段 ― 効果的かつ擬制的ではなくして主権を行使することができるような状態でそれにとって代わりうる手段 ― を必須とした。p.29 そこから「革命的・臨時的な権力の」「特別権力」を樹立する必然性が生まれてくる。

   そうした教訓は失われなかった。1848年に「選挙の延期と臨時政府による独裁」ことによってブランキはその当時の政治的・社会的条件について注意深く分析することでその教訓に依りながら「蜂起と新体制の樹立のあいだの何らかの中間期」の過渡的段階に関するバブーフの理論を細かく定めた。しかし、その教訓が1871年3月には保持されなかったように思われる。その時は、人民への訴えと選挙が勝利した蜂起の8日間を支配したからである。

 秘密総裁の論争とブオナロッティの原文を調べていくとき、何がこの過渡的権力となるべきであったか? 「或る者はわれわれに国民公会の残骸を呼び戻すことを要求した。また或る者は共和政の臨時政府を放棄中のパリ人民によって指名された政体に移譲するよう促した。また或る者は一定期間、執政官ないしは調整官と呼ばれる1人の人物に最高権力と共和政を制定する気遣いを渡すべきだとの見解をもっていた。」粛清された国民公会の檄はジャコバン的解決を与えた。独裁はマラー主義の伝統を意味する。叛徒による臨時的権力の指名は人民的伝統、つまり「エベール主義」を意味する。

 唯一の合法的権力としての国民公会への回帰は拒絶された。必要な粛清はあまりに複雑な問題と「テルミドール9日の犯罪」に加担した山岳派とジャコバンを戻すことにつながる。革命的効果の要求は合法性の気遣いに関してそれを押し出してしまったのだ。

 独裁は特別権力としてダルテ(Darthé)によって規定され、次の二重の機能を帯びる1人の人物に委任された。すなわち、「人民に対して平等と主権の真実の行使をおこなうべき単純にして固有の立法権を与えること、・・・ 国民が予備的措置を受容する気分にならせるような立法権を臨時的に指揮すること」。p.30 同様に重要な任務が思想と行動の統一、したがって単独の頭脳、他の人々によっては忌まわしい思い出のあるテルミドール9日の前夜、政府の委員会の真只中での集団的合議制と分別を要求した。秘密組織はそれにもかかわらず、独裁を避け、選択の困難と「抗しがたく思われる一般的偏見」を提起した。あらゆる形態の個人的権力に対する人民の憤激が革命の起源をなした。

 人民のラインでは3つ目の解決法が残されていた。パリの叛徒により国民の政府が付託すべき臨時的権力を指名させるという解決法を提起した。それは1871と同様に1793年における大衆が根深く愛着を懐いている人民主権の原理と一致するものであった。だが、コミューンは革命的実効性の必要な保証を示したであろうか? 平等党の陰謀にたち戻ると、秘密独裁はそれに疑念をいだく。なぜというに、それは人民の意志を相互に啓発し導く傾向をもつ2つの決定をおこなったからである。先ず第一に、選挙を提案する民主派について細かく調査させるべし。次いで第二は、「達成された革命はその事業を継続し新議会の行動を監視する。」これはジャコバン中央集権の実践を再現することであった。1871年のコミューンにたち戻れば、1796年の秘密独裁が最終的に定義したように、しかも、それがかつて規定した用心をもつことなく、約束が人民に対してなされた。したがって、コミューンは最初から効果的革命権力の本質的特徴のひとつ、つまり思想的行動の統一を欠いていたことになる。「革命的コミューンは権力を統御する。エドワール・ヴァイヤン(Edouard Vaillant)によれば、コミューンは思想と行動の統一をもなければ、エネルギーももたなかった。それは十分なまとまりももたない議会であった。」

 ここで引用された原文や事実に忠実であるかぎり、19世紀の革命的独裁においてブランキ主義と新ジャコバン主義を対比させるうえで幾らか誇張がなされた。バブーフの遺産全体において多くの特徴がジャコバン主義とブランキ主義の姻戚関係が伺われる。すなわち、権力的・中央集権的実践と革命のエリート的概念がそれである。したがって、その反ロベスピエール主義にもかかわらず、ブランキ主義はバブーフ主義を通じて吟味・訂正され、かつ社会主義に色づけられたイデオロギーに関連するジャコバン主義の実践であるにすぎないといってよい。p.31

 エベール主義と呼ばれる人民的伝統、幾つかの異なったニュアンスをもつジャコバン的伝統、の二重の伝統は19世紀にも残り、革命運動やコミューンそのものにも痕跡を残した。

  次の世代によって過ぎ去った体験の重圧のもとに屈折され変形されることも同じようにありえた。1848年の失敗はここでは、それが当時まで認められていた革命的価値を引きずった修正によって重要であるように思われる。しかしながら、フランス革命のイメージが19世紀を通して革命独裁において変貌した ― 特にロベスピエールに対する不信と1860年代におけるマラーないしはエベールに向けられた崇拝のかたちで確認される ― としても、幾つかの局面の持続性を強調しておかねばならない。

 ジャコバン主義の見解は変わることができた。その実践の本質的局面はブランキ主義と同じ程度にジャコバン主義とともに確認される。こうした中央集権的ラインにおいて再発見される。さらに言えば、民衆的行動の特徴としてのサンキュロット的伝統は最終的に新エベール主義を標榜し、1871年のコミューンの数週間を特徴づけた自然発生性と膨張のかたちで生き永らえた。

 1793年の先駆者と同じく、二重の、しかも何と重い遺産であることか! その代わり、コミューンはそれらを相続人に遺贈した。・・・しかし、この二重の遺産は、それが人の心底に位置するのと同じく、あらゆる革命の本性そのものにも位置するのではなかろうか!