日本史がひっくり返る?
秀次事件は真実を隠すために起こされた
秀次事件は秀吉が秀次を切腹させて豊臣政権を潰すことを起こした、とされています。
しかし事の真相は豊臣秀吉の家来であった徳川家康が合理的に豊臣から徳川の世に移行する為に必要であったわけなのです。
天下平定から明(中国)に軍を出した秀吉の死後、軍は引き上げられ、その後に関ケ原の戦いが起こり
本来は豊臣家家臣の家康と三成の戦が豊臣家を没落させる結果となるわけですが、
この家臣同士の戦いが本家を潰す事になる
この事に何の不思議も感じないのはなぜでしょうか。
関ケ原は255万石の大大名家康と19万石の三成が対峙するという構図です。
どうして三成が西軍を構成する事ができたのか、その大元が大河ドラマの「どうする家康:逆襲の三成」に出てきます。
三成挙兵を案じる大谷吉継が度々佐和山を訪れて三成の様子を探っていた大谷吉継は、
家康は三成を買っており、共に政をやりたいと申していると説得するも・・・(略)
大谷吉継『我らだけの手勢で…何が出来る?!』
石田三成『奉行集と大老たちをこちらに付ければ…勝てる!』
その直後、三成の側近である嶋左近が床下に隠していた黄金を取り出します…。
アメブロ どうする家康 第41回 『逆襲の三成』よりhttps://ameblo.jp/cr07jf23/entry-12827112917.html
当初徳川側だった大谷吉継も軍資金の存在を確認してから三成に参戦するようになるわけで
この様に三成には大軍を動かせる軍資金(大資金)があったわけです。
そんな大大名の家康に対峙できるほどの軍資金をどうして三成が持っていたのか
当初は私も三成の資金はドラマでも紹介されていた様に淀(茶々₎からと思っていましたが
違っていました。
歴史資料を見ますと、淀殿と三奉行(増田長盛・長束正家・前田玄以)からは家康に
「三成と吉継が謀反を企てているので、事態を沈静化させるために急いで家康に上洛をするよう」という書状を送っていますし
三成が切望した秀頼の墨付きの発給や秀頼の出陣を淀(茶々)殿は許していません、家臣同士の争いですから豊臣家としては
事態を傍観する姿勢を取っておられたわけです。
しかし、徳川を危うくする軍資金(大金)をどうして三成が持っていたのかという不明が德川の疑心となり
西軍=豊臣方という理解(誤解₎が生まれ助命嘆願もかなわず淀・秀頼は大坂夏の陣で自刃し豊臣家が滅亡し
それと共に徳川の世が生まれてくるわけですが
德川の疑心を生んだ大金(軍資金₎をどうして三成は持っていたのか、三成ら(小西行長など)が大金を得る機会があったのか
ここがポイントになってくるわけです。
このポイントに対しては秀吉が攻めて行っている明(中国)にスポットを当てると見えてくるものがあります。
それは徳富蘇峰氏の近世日本国民史「豊臣氏時代篇:朝鮮役中」にあるのですが
「明帝より賞金十万両の懸賞の令が発せられた」とあります
元凶秀吉謀主玄蘇を擒斬(きんざん)して献ずる者通侯上賞
秀次を擒斬(きんざん)する者同上
とあります。
秀吉の唐入りで明帝(中国)は秀吉・秀次の首(処刑)に懸賞金を出していたの知ってるhttps://ameblo.jp/matsui0816/entry-12204998208.html
それは秀吉の征明(中国)の際に明の皇帝が秀吉または秀次の首に大金を掛けていたのです。
要は「表に出せない大金」を三成たちが得ていたという事なのです
基本的に石田三成や小西行長らは中国の実態に触れ明と戦ったら豊臣は潰されると本気で思っていたかもしれません
当時の石田三成や小西行長らが明に対して送った書には秀吉の意に添わない明(中国)におもねる内容が書かれています。
淀殿も「表に出せない大金」の為に理由が分からないまま(淀は徳川を大事にするという姿勢を示していたのに)徳川に疑心をいだかれ、家臣の徳川に 「豊臣打つべし」という流れを作られる事になったわけなのです。
つまり、豊臣の家臣である徳川が豊臣に打ち替わる一番の条件は豊臣から徳川が戦いを仕掛けられてくる事なのです。
家康は三成の態度から、大金(軍資金)を持っている事を察知していたわけで、必ず打って出てくると三成の蜂起を心待ちにしていたと思われるわけです。
時代は変わりますが日本が先の大戦で真珠湾攻撃に至る事を、つまり日本が攻撃を仕掛けてくる事をアメリカもソ連も中国も心待ちにしていたのと全く同じ構造であることに驚かされます。
(現在ではガザ地区がそうなっていますが・・・秀次事件の真相は国際事件とも言うべきものなのです)
秀次事件で秀吉が秀次を切腹させて豊臣政権を潰すことを起こした事にすることで
要は全て秀吉が原因(悪い₎とすることで、豊臣の反抗を起こらない様にして長きにわたる徳川の基が作られている。
(先の大戦後では秀吉が日本に置き換わる)
という事が分かってくるわけなのです。
私も秀次事件を研究していましたらは日本の将来を考える事にもつながってくる事実に遭遇し驚きまして、近江八幡のローカルな歴史事件ではない事もお伝えしたくなったわけです。
歴史を正し日本の未来を創る所は近江八幡でしょう❣
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