秀吉の唐入りで明帝(中国)は秀吉・秀次の首(処刑)に懸賞金を出していたの知ってる | はちまんMatsuiコラム

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一級建築士・一級瓦葺き技能士・宅建士・歴史研究 松井秀夫

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秀吉の唐入りで明帝(中国)は秀吉・秀次の首(処刑)に懸賞金を出していたの知ってる!

wikiより

「秀吉は秀次を殺すつもりはなかった」とこれまでの通説は「おかしい!」が論証されてきています。

秀次事件は次代の豊臣政権を担う人を秀吉が亡き者にした、という、秀吉何してんねん!と人々に思わせる内容が通説となっていますが、その話の根拠となっている話の元は徳川の時代に書かれているモノばかりです。

また、この秀次事件には、唐入りという秀吉の明(中国)へ攻めていく、という時代背景があり、明(中国)が取った日本への対抗策や外交交渉術があるにもかかわらず、日本の歴史ではほとんど伝えられていません

更に明が他国との貿易を禁じていたために、日本と中国の取引の中をバテレン(イエズス会など)が取り仕切っていたことで、大きな利益をバテレンが得ていた事と、その利益にあやかろうという日本側の動きもあった事

そんなバテレンと日本国内の動きに対し
秀吉がバテレン追放令を出しています、ですからバテレン追放令を出した後に秀吉の唐入り(文禄慶長の役)が行われていることが秀吉政権内にどのような影響を及ぼしていたか、などの論議が未だに聞こえてこないのはどうしてでしょうか。

また私も驚きましたのは矢部先生もご指摘 の様に秀吉政権当時の資料の多くが無視されていることなのです。

そこで秀次事件は
文禄4年で、秀吉の唐入り(文禄慶長の役)と言われる国際紛争の真っただ中で起った事件として、なぞ解きを進めていこうと思った次第でございます。

まず今回は大正時代に
宣祖実録
(朝鮮王朝実録https://ja.wikisource.org/wiki/%E6%9C%9D%E9%AE%AE%E7%8E%8B%E6%9C%9D%E5%AE%9F%E9%8C%B2
などの、
相手国側の資料を駆使して、秀吉の唐入りを論じておられます徳富蘇峰氏の近世日本国民史「豊臣氏時代篇:朝鮮役中」より、

明帝より賞金十万両の懸賞の令が発せられた

元凶秀吉謀主玄蘇を擒斬(きんざん)して献ずる者

通侯上賞

秀次を擒斬(きんざん)する者
同上



(写真をクリックされると大きくなります)


徳富蘇峰の朝鮮役では賞金は10万両とあり以下の「朝鮮史」「日本戦史」では1万両とあります(この違いについては分かりません)

当時の1万両がどれくらいかをネットで調べますと、約20~30万円と出てきますので、この金額をあてはめますと、約300億から20億の賞金という額と感じられます。



「朝鮮史」や「日本戦史・朝鮮役」の二冊は国立国会図書館デジタルコレクション にあり記載ページを記入しておりますので一度ご確認ください


国立国会図書館デジタルコレクション - 朝鮮史. 第四編第十巻
  6ページ (写真をクリックされると大きくなります)

国立国会図書館デジタルコレクション - 日本戦史. 朝鮮役
 148ページ (写真をクリックされると大きくなります)

秀次事件と言われる関白秀次の切腹や三条河原での秀次一族の処刑になぜ違和感を感じるかと思いますと、日本的と思われないところがあるからです。

なぜそこまで?・・・
しかも秀吉政権存続に必要な親族を?
豊臣の存続を強く願う秀吉が殺すなんて?

この様な素朴な感情を持ってしまいます

そこで、これまでされてこなかった秀次事件を明(中国)の歴史から考えてみますと思い当たる事柄が出てくるではありませんか
以下はネットからの抽出です、

「謀反の罪をかけ、皇帝の名において逮捕させる。そして例によって一族皆殺しである。これを「族誅(ぞくちゅう)」と言うが、族誅(ぞくちゅう)は中国史の伝統である。」

注:族誅(ぞくちゅう)は、封建時代の中国において、重罪を侵した者について、本人だけでなく一族についても処刑することである。族滅もしくは三族/九族皆殺しとも呼ばれる。・・・(wikiより)

国という国は冤罪をでっちあげて断罪する国であるということ、そして、やれるとなれば血も涙もなく暴力を行使して徹底的にやる国だということである。」

出典サイト 
中国4000年のおそろしさ――不気味な隣人の素顔
http://www.saisei21.jp/report/2012/report-1



秀次事件の検証では、これまでが日本の国内問題としてしか見られておらず、すでに存在していた宣教師として来ている西欧勢力の目的、中国や朝鮮などの国民性や国の成り立ち、外交政策や国外戦略の考え方などの日本史に影響する外国からの影響研究が日本史研究ではほとんど見られません。

それに比べ海外ではどうでしょうか、先の大戦でも、戦争の相手国のアメリカや隣国のソ連(ロシア)も日本の国や国民の徹底分析をやっています。

日本の政治家が中国に行けばハニートラップではありませんが中国寄りの日本人になって帰ってくることが話題になった事があります。

中国の情報戦の能力は大国アメリカや国連を動かすくらい半端ではありません、唐入りの文禄時代でも、秀吉の明への全権大使を預かった小西行長が、秀吉からの明への7か条の要求よりも、明国の家来に
秀吉がなるという屈辱的な交渉を決めてくるという、まるで明帝の使いの様に変わってしまっています。

なぜこの事の重要性を日本史家は追及しないのでしょうか、先の徳富蘇峰はこの事態を小西行長が
明国沈惟敬の催眠術にかかった、という言い方をしていますが、
小西行長は明に騙されていたわけです、なぜなら秀吉が求めていた7か条がなんら含まれない、言い換えれば秀吉を騙した講和条約を小西行長は取りまとめ、小西行長としては明と苦労して何とかまとめたのだから、こちらの立場もわきまえて明も対応してくれると思っていたのでしょう(アホでしたね)

講和成立の報告を秀吉に行うとき、小西行長は明の使者に、秀吉の条件が受け取られたと偽って読んでほしい、と依頼したのです、使者は内容を正しく読み伝えたわけです。

当然、事実を知った秀吉は激怒し小西行長に死罪を命じられることになったわけです

つまり・・・
小西行長を利用し、利用するだけでなく更に自ずと処分されるようにしているわけです。
(つまり秀吉側の落ち度で起こった事件にもっていかされている)

もし当時の日本人が中国の情報戦に長けていたのなら、小西行長に事情聴取して、どの様な対応を中国でされたのかを聞きとり分析して、以後の日本の使者が中国の洗脳にあわないようにする学習ができていたのではないかと思われるのですが、(400年たってもまだまだの様ですね)

外国映画などでは影響されて帰ってきたものに洗脳を解くことがすぐ行われたりしていますが、日本ではその様な技法など全く考えられていないわけです。(シベリヤ帰りの日本兵のケヤができていませんね)

更にこの問題が小西行長だけに終わらなかったというのは明との交渉に石田三成もいたからなのです。

ですから明帝の影響を受けた秀吉家臣の発生と豊臣政権内部対立を推し進めようとするバテレンの動きや賞金を狙ったと思われる国内(反豊臣)の動きがジワジワと勢いを増してくることで、
豊臣政権内での秀吉の孤立化が、文禄2年の文禄の役一旦休戦以後から、進むことになるわけで、その延長線に秀次事件(文禄4年)の芽生えがあったのでは、という見方を私はしているわけです。

ですから、秀次切腹後の秀吉政権ナンバー2一族処刑を中国歴史を知る立場から観られたら、どうして唐入り(中国攻め)の秀吉が中国式の処刑をするのか、という疑問を感じられるかもしれないわけでして、そういえば北朝鮮
ナンバー2張成沢の家族・親族・姻族が幼児に至るまで一人残らず惨殺されたニュースは大陸での族誅(ぞくちゅう)の伝統が独裁政権の中で今も続いている事を知らされるのではないでしょうか。

日本は温情のある国柄ですから、
先の小西行長も前田利家・淀殿などの懇願で死を免れています確かに一族の処刑という事はあっても、伝統的ではありませんし、ましてや高い位の人に行われることはなかったわけです。

この様な事から、秀次切腹後の一族処刑は秀次の首にかけられた賞金狙いも兼ねた中国明帝向けの諸行ではなかったのかと考えているわけなのです。

では、なぜこの事件にバテレンが関係しているという事を申しあげるのは、秀次一族の処刑時に秀次の首が三条河原に晒された、と伝えたれていますが、なんと、実際には秀次でない人物の首が使われていた、という事が書かれている、イエズス会宣教師の記録があるからなのです。(演出されていたのか)

日本人が知り得ないことをどうして彼らは知っているのでしょうか

次回はこの資料(書物)をお伝えして、更に秀次事件を追求していきたいと思います。

歴史の真実に光を当てる・・・
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