石田三成失脚後、家康は大阪城の西ノ丸に入り、『内府』として、豊臣政権下における実質的な政のリーダーとなりました。




そういった中、家康に不満を持っていた浅野長政、土方雄久、大野治長の3人が謀反の企てを図ったとして、処分が下されようとしていました。
この企てには前田利家の嫡男・利長も関わっていたことが発覚。



無益な殺生をする気がない家康は、浅野長政には蟄居、土方雄久と大野治長には流罪を言い渡し、寛大におさめました。




一方で、思うがままに政を動かす家康を茶々は快く
思ってはいませんでした…。




そういったある日、家康の前に現れたのは、あの豪商・茶屋四郎次郎のジュニア。
息子も中村勘九郎さんの2役です。





彼が家康の前に連れてこさせたのは日本に漂流したひとりの異国人…。
現在のイギリス出身であるその男の名は、ウイリアム・アダムス。
オランダ船で航海をしていた際に嵐で難破し、現在の大分県の豊後に流れ着いたというのです。




彼はあくまで商いをするために日本に来たということで、怪しい者ではないということを訴えます。

それを聞いた四郎次郎ジュニアも、明や朝鮮などと戦をしている場合ではない、これからは異国と商いをして国を豊かにすべきと持論を展開します。



家康はアダムスと四郎次郎ジュニアの2人から、かつて瀬名が理想としていた『助け合う国作り』に共感を覚えたかもしれません。




『その通りじゃ…。
日の本の揉め事をさっさと片付けんと…どんどん置いていかれるのう…。』






そしてこの頃、五大老のひとりである会津・上杉景勝に謀反の疑いありと、家康は越後の堀秀治を通じて知らされます…。

家康は、事の真相を確かめるべく上杉に上洛を要求するも上杉は拒否し続けていました…。




今、政を取り仕切る家康に謀反を企てるということは、豊臣家に謀反を企てるも同じこと…。
家康は直ぐ様秀頼と茶々に今回の疑惑を報告…。




茶々はかつての小田原攻めのように、家康も大軍勢を率いて会津に向かうように勧めるのでした。




再び家康サイドからの謀反の疑いに関する上洛を促す書状が届けられ、上杉景勝は激怒。




しかし、窮地に立たされるかに見えた上杉の危機に立ち上がったのは、景勝の右腕である直江兼続でした。



兼続が家康のみならず、各国の大名にも送った長い長い書状…。
これが俗にいう『直江状』…。

端的に内容を申し上げると、

上方から遠く離れた会津から度々上洛せよというのは理不尽な話、

主・景勝に謀反の疑いありということをろくに調べもせずに堀秀治の話だけを一方的に信じるなどあまりの度量の小ささである、

家康公が一部の話だけを鵜呑みにして上杉を逆賊呼ばわりするなど残念極まりなく愚かしきこと…。


上杉側の言い分も最もな部分もある内容ではあります。




しかし、これは家康に対する上杉からの挑発以外何ものでもありませんでした。

静観を決め込んでいた家康でしたが、ついに上杉攻めを決意します。




豊臣本家より黄金二万両、兵糧二万石を授かり、戦への備えは磐石。








かつての四天王、本多忠勝、榊原康政、井伊直政も集まり、最強の徳川軍が再び集結となりました。



残された問題は自分が会津に向かう間に上方の留守を誰に任せるかでしたが、そして、ふと家康に声をかけられたのは鳥居元忠でした。



おさらいしますと、彼は家康が今川家の人質だった時代から行動を共にしてきた主従歴50年の間柄。
家康にとってはこの時点でもっとも信頼できる家臣でした。



『彦…。
この伏見…おぬしに任せたい…。
上方を離れれば…兵を挙げる者がおるかもしれん…。』



『石田治部殿が…?
いやぁ…無謀でござろう…。』



『治部は…損得では動かん…。
おのれの信念によって生きている…。
負けると分かっていても…立つかもしれん…。

信念は…人の心を動かすでな…。
わしを恨む者が…加わらんとも限らぬ…。




万が一の折り…要となるのは…この伏見…。
留守を任せられるのは…最も信用できる者…。
逃げることは許されぬ…。
必ず…必ず守り通せ!』



『殿のお留守…謹んで…お預かり致します…。』




『すまぬ…兵は…おぬしが要るだけ…。』

『いやぁ!3000もいれば十分で!
ひとりでも多く連れていきなされ!



なぁに!
伏見は秀吉がこさえた堅牢な城!
そう容易く落ちゃあしませんわ!

殿…!
わしは挙兵してえ奴はすりゃあいいと思うてます!
殿を困らせる奴は…このわしが!
みんなねじ伏せてやります!

わしは…平八郎や直政のように腕が立つわけでもねぇし、
小平太や正信のように知恵が働くわけでもねぇ。
だが…殿への忠義の心は…誰にも負けん!
殿のためならこの命…いつでも投げ捨てますわい!

上方は!
徳川一の忠臣…この鳥居元忠が…お守り致しまする!』




この男にならこの上方の留守を任せられると考えた家康の判断はやはり間違いではありませんでした…。



『殿にお仕えして50年…。
あの泣き虫の殿が…よくぞここまで…。

殿!
宿願を遂げる時にこざいますぞ!
戦なき世を…成し遂げてくださいませ!』



『彦…頼んだぞ!』






ここまでも分かる通り、この2人のやり取りは、
『留守を任せた』
『承知しました』
で済むような簡単な話ではありません。

家康と元忠…ふたりがもしも三成の挙兵を確信していたとすれば、
家康が会津に向かった瞬間に上方の拠点である伏見城を三成が狙うのは当然。

ふたりがそれを分かった上でこの会話をしたとするならば、家康は元忠に対して
『わしの天下取りのために犠牲になってくれ』
すなわち『死んでくれ』と言ったも同然…。
一方の元忠もそれを理解した上で『承知しました』と言ったことになります…。

事前に僕はこの場面の詳細を知っていたために、どんな場面になるのかと思い、想像していたのとは少し違いましたが、50年もの間、主従関係だった2人だからこそ描ける悲しくも麗しいシーンであったはずです(´;ω;`)。



奇しくも11月1日(水)放送の『歴史探偵』でもこの場面が紹介されていましたが、改めて鳥居元忠の家康に対する忠誠心と覚悟の大きさを再確認できました。
確実に負ける、死ぬと分かっていても何の迷いもなくこの大役を引き受けてそれを全うしようといる鳥居元忠、まさに『あっぱれ!』な生き様です。




慶長5年(1600年)6月18日…。
家康率いる大群は伏見城から東に向けて進軍。
7月21日には江戸城を出発して会津へと向かいました。




そして、それを見計らったように、家康の読み通り石田三成が挙兵を決意しました!





度々佐和山を訪れて三成の様子を探っていた大谷吉継は、家康は三成を買っており、共に政をやりたいと申していると説得するも、



『徳川殿のことは…信用してはおらぬ!
殿下のお決めを次々と破り…、
抗う者は…とことん潰して!
政を思いのままにしておる!』


『天下を鎮めるためであろう!』

『いや!
全ては!天下簒奪のためなり!
野放しにすれば…いずれは豊臣家は滅ぼされるに相違ない!
家康を取り除けば…殿下のご遺言通りの政が為せる!
今度こそ…わが志を為してみせる!』




『形部!
正しき道に戻そう!』



『我らだけの手勢で…何が出来る?!』



『奉行集と大老たちをこちらに付ければ…勝てる!』





その直後、三成の側近である嶋左近が床下に隠していた黄金を取り出します…。



この黄金の出所はまさかの大阪!
茶々は家康だけでなく、三成にも黄金を渡していたことになります!
一体その狙いは?!





この間三成は、毛利輝元、宇喜多秀家、小西行長といった大名を味方に引き込むことに成功。
総勢4万ともいわれる軍勢となりました。



そして三成は、茶々と秀頼のもとに現れ、

『無用の戦を起こし、天下を簒奪せんがための不行状の数々…許しがたし!』





三成に賛同した茶々は三成たちと盃をかわし…、

『逆賊!徳川家康を成敗いたす!』




三成挙兵の知らせは、下野小山に陣を構えていた家康のもとにも伝わります。



そして、対応に追われようとしていた家康のもとに今度は茶々から書状が届きます…。

その内容は…、
『治部が勝手なことをして怖くてたまらん。なんとかしてほしい』
というものでした…。



先程は三成と盃を交わしたと思ったら、家康に対してはこの書状…。
茶々は家康にとって敵か味方なのか…?
はたまた家康も三成も共倒れさせた上で秀頼の天下を磐石なものにしようとしているのか…?
まさに狐のような女子です…。



その書状を見て不気味に笑う家康…。
文字通りの『狐と狸のばかし合い』は既にこの時から始まっていたのかもしれません…。




そして次回!
ついに日の本全てを二分する大一番が開戦!



鍵を握るのは因縁の真田親子!



そしてあの小早川秀秋!



そして伏見城を任された鳥居元忠は?!



徳川家康の最大の運命の瞬間は、今回果たしてどのように描かれるのでしょうか?!






そして私、3日(金)よりつば九郎と共に『どうする家康』三河ツアーへと向かいます!
今回目指すは家康の生まれ故郷・岡崎と奥三河・長篠!

今回もつば九郎によるおすすめスポットや絶品グルメのレポートにご期待ください!