「秀次事件」は
近江八幡の市民力
で 解くべし
NHK・BS「英雄たちの選択」で國學院大の矢部健太郎教授が言われた「秀吉は秀次に切腹を命じてはいない」という説に対し
番組の司会者で歴史学者の磯田道史教授がなんと言われたのか!
教授は「これね、確かにさもありなん、というところもあるですけど、まだ僕は説は乱立している状況にあると見てます」
とやんわりと否定されるわけです、
しかし「小瀬甫庵の「太閤記」の中にある秀吉の切腹命令があれが本物ではない ねつ造であろうことは僕も同じなんです。」
と同意するところもあると述べられてから
「(ただ)太閤記の秀吉の書類による切腹命令が無いからと言って口頭で使いを使わせて秀吉が切腹命令を秀次に遣わした可能性が
完全に否定できているか、というと現在論文の段階でも いろんな 説が乱立している状況にあるんですね。」
と矢部健太郎教授の説は決定的なものではないと言われるわけなのです。
私は思いました「やっぱりなあ!」と
「秀次事件」を長く調べてきましたから、色んな大学の先生の講演や交流も出来たのですが、そこで感じてきましたのは
大学の先生は、大学という組織の中で活動されている存在であって、「近江八幡を何とか」「地元を何とか」
という気持ちを持って頂ける存在ではないという事なのです。
大学の先生に地元の熱い思いを持って頂くことを願っても無理という事なんです。
この当然のことを私は再確認させて頂いたわけです。
「秀次事件」の解決で、秀次の冤罪を晴らすことで城下町近江八幡の復活を見ることは大学の先生頼みでは
何時(いつ)になったらできるかわからん、らちが明かん、
いつまで経っても解決しない
なぜこうなのか、それは大学の先生がダメなのではなく
大学の先生に頼るという依頼心が間違いだったんだという思いに至ったわけなのです。
確かに学問の大切さを教えてくださる先生は大事な存在です、
特に日本では古くから先生の存在は尊重されるものであるという思いが日本には存在しています。
その為か、私の祖父(松井秀二郎)が村長(近江八幡市に合併前の岡山村)をしていました時に必ず言っていたのが
「先生の言う事をよく聞いて」の一言でした。
ただ祖父には訛(なまり)がありまして
「先生が」「シェンシェイ」とか「チェンチェイ」と聞こえまして
未だに同窓会などで懐かしく語られていますが、
昔は良かった先生尊重も過大になり過ぎるのは問題であるわけです。
とは言え、私は一介の自営業者に過ぎません、大学の先生と違い、歴史の研究と言っても仕事の合間に、図書館やネットや
先生の講演などを聞きに行くなどで進めていくしかありませんので、学者任せの頭ではダメなんだとは言え
ハンディキャップは大きいわけです。
大学の先生は国からお金がもらえますが自営業者は働いて稼ぎませんと本代もままならない訳です。
そこでこの様なハンディキャップは地元を何とかせにゃならんという、熱意で超えて行こうと思った次第です。
倒れるまでやれば良いわけです。
何故この様に申し上げるのかと言いますのは、これまでの研究を発表したいと思ったからです。
「秀次事件」が起こった時というのは秀吉の征明時代、中国を征服に行った時代なのです、
中国というのは当時も大国、今も大国です
その中国と戦争して大国が黙っているでしょうか、
各国政府に対してのスパイ工作などが問題視されてます様に
相手国政権内などに親中派を作る、お金で操るなどを当然のごとくヤッている国なのです。
孫子の兵法を持つ中国の「戦わずして勝つ」という基本戦略は脈々と行われているのです。
ですから「秀次事件」を歴史からきちんと見ていけば外交、軍事、経済、情報など学ぶべき内容がいっぱい出てくるのですが
今の日本歴史学会の秀次事件ではその様な時代背景が全く取り上げられていません。
「おかしい?」です!
私は一介の自営業者です大学の教鞭(教える)をとった事もありません、ですのでこの「おかしい?」を言って良いものかと自重していました。
しかし、大学の先生頼みでは何時(いつ)になったら解決できるかわからん、らちが明かん、学者任せの頭ではダメなんだ、
と悟らされた瞬間、皆様にこれまでの研究をお伝えして、皆様から御意見を頂こうと言う方向に切り替わった訳です。
(秀次事件がキチンと解明されていたら外交も進化して、かの大戦に参加していなかったかも・・・)
「秀次事件」は冤罪であり、キチンと解明されて来なかったが為に日本の外交は400年遅れてしまった、「秀次事件を正しく解明することは日本国にとっても大事なことなんだ」
を近江八幡から発信して行きたいと思っています。では・・・
歴史を正すところは近江八幡でしょう❣
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