ティモシー・リアリーの「チベット死者の書」を読んでいたら見知った一節が現れました!
ちょっと驚いて、確認してしまったのですが、これはBeatlesの一節。それも冒頭。
John Lennonの「Tomorrow never knows」の冒頭です。
Turn off your mind, relax and float downstream
It is not dying, it is not dying
Lay down all thoughts, surrender to the void
It is shining, it is shining
That you may see the meaning of within
it is being, it is being
(マインドのスイッチをオフにして、流れに身を委ねてみなよ。
それは死ぬこととは違う、死ぬこととは違う
思考をすべてやめてみて、「空」に身を投げ出してみな
それは輝いている、輝いている
そうすると内部表現の意味が見えてくるだろう
それは明らかに存在する、存在する)
ジョン・レノンが「死者の書」にインスパイアを受けて作ったのが「Tomorrow never knows」です。明日は誰も知らず、もしかしたら涅槃にいるかもということでしょう。そのための「死者の書」。そしてそれを楽曲にしてしまいました。
ダライ・ラマが法要をしているかのような作品にしたかったそうで、それは成功していると思います。
先日のセミナーでも話したのですが、僕は「チベット死者の書」に関して、どうしても拭えない疑問があって、これが分かるまでにはここから10年くらいかかるだろうなーと思っていたら、オラクルが振ってきて、唐突に解決しました。
そういうものですね〜
ありがたいことです。
気になって仕方なくて、どうしても疑問が拭えないでいて、これは矛盾だよなーというものを発見してしまい、気になって仕方なくて、死者の書をゲルグ派もニンマ派のも読みまくっていたら、あっさりと解決しました(いや、スコトーマが大きかっただけ)。
僕自身の疑問はシンプルで、なぜラマたちは解脱しないのかというものでした。
いわゆる「死者の書」とは臨終の席で耳元で読まれるお経。
そして中有状態でも耳が残る限りは聞いていると見做して、読まれるお経です。
それは卓越したガイドであり、一寸先は闇の世界(死後の世界)での灯明です。
「ずっとそばにだれかが坐っていて、なにがどうなっているかを君に語りかけるんだ」という状態です。
(先のブログで、このような「なにがどうなっているかを君に語りかける」存在として、ヒーラーもメンターもありたいと書いたような書いていないような)
僕自身の推論は、おそらくは卒業できるのに、弥陀の本願と同じく、一切衆生が救われるまで自分は極楽の往生しない(第十八願)ではないかと思ったのですが、、、、、、まあ、そのとおりでした。
できるけど、しないのです。
解脱はできるけど、しないのです。
なぜなら一切衆生を救うためでしょう。
同様に高い位のラビには「死者の書」の読経は不要とされるシーンもあるので、彼らも同じことなのだと推定されます。
弥陀の本願であるならば、話しは納得です。
言われてみれば当たり前のことですが、解決には時間がかかりました。
まあ、そんなわけで楽しく秘密集会タントラを学びましょう!!
ドーシャスクールをお楽しみに!!
【4位、12位御礼!総合ランキング6位御礼!】
いつも応援ありがとうございます!!!