こんにちは、まるこです
先日、群馬県立館林美術館に「時代に生き、時代を超える 板橋区立美術館コレクションの日本近代洋画1920s-1950s」に行ってきました

(展覧会について感想を書いた記事はこちら)
で、11月24日に行われた講演会を聞いてきましたのよ
講演テーマは「「ドロでだって絵は描ける」の背景 -戦時下の美術統制のこと」
お話は迫内祐司さん(小杉放菴記念日光美術館学芸員)です。
講演会では、太平洋戦争・戦時下の日本における美術界の規制について、画家たちが置かれていた状況について、洋画家・吉井忠の日記を紐解きながらお話ししてくださいました
今回の記事では、公演内容を中心に講演会資料やまるこメモを基に戦時下の美術統制について書いていきます
いろいろなお話が盛沢山だったため伝えきれる自信ないですが…興味ある方どうぞお付き合いください
群馬県立館林美術館・記念講演会
「「ドロでだって絵は描ける」の背景-戦時下の美術統制のこと」
画材配給と美術統制の動き
まず、第二次世界大戦の動きを年表に挟みながら、吉井忠日記に見る画材配給と美術統制の動きを見ていきます。
大戦の年表は青字、吉井忠日記からの内容(読みにくいので引用ではなく要約)はオレンジ色で書きます。
1939年、9月3日 イギリス・フランスがドイツに宣戦布告
9月4日、5日 ヨーロッパの絵具がなくなると聞き、他の画家仲間も同様に絵具を買いに走り、買いだめする様子が書かれる。
資料「昭和14年度美術界概観」『日本美術年鑑』昭和15年版 美術研究所 1941年3月によれば、
この国家的非常時に、国内すべての事柄が動かされるのは当然で、美術界もそうだった。
物資の制限から(銅その他の金属・金箔・金泥・漆などの制限、絵具やキャンバスの不足など)作家に種々の不自由を感じさせたのは事実だが、全体的に見て、社会一般が戦時に受ける影響ないし犠牲にかんがみれば、その程度はむしろ軽微だったと言える、
とのことです。
つまり、戦争という国家の非常時にあって国内すべての事柄が影響を受けるのは当然のことで、芸術家たちがいろいろと不自由を感じたことはあったが、社会一般が受ける影響や犠牲と照らし合わせればその程度は軽い方だった、と言っています。
(これは1940年ころの話なので、日中戦争はしてるけど日米開戦はまだですよ
)
1940年5月 この頃から”更生キャンバス”を頻繁に利用。
この頃絵具もキャンバスもだんだん無くなるらしいと噂を耳にした。
※更生キャンバス(更生カンバス/更生画布)とは:
キャンバス地は重要な軍事物資でした。
1938年2月、純麻の使用が禁止され、パルプなど混ぜたものを使うことと定められました。
しかし、絵を描くには混じり物が入ったキャンバス地を使うよりも、色が乗せられた従来のキャンバス地を薬品で再生させた「更生キャンバス」を使った方が良いとされていたため、吉井はよく更生キャンバスを利用していたようです。
具体的には、色が乗せられたキャンバス地を苛性ソーダに漬け、削ったりして再生させました。
もちろん何度も”更生”させているとやはり強度は弱まります。
更生キャンバスは更生処理後、絵の下地を塗って数か月乾燥させてから描かないと変色などの不具合が出やすいそうですが、そんな時間も材料もないため画家たちはたいていすぐに描いてしまっていたようです。
1941年4月 美術文化協会展示を見る。「日本画ちょっと多すぎる」と感想。
美術文化協会は洋画家の集まりなのに”日本画が多すぎる”と吉井は感じました。
この頃には油絵具が手に入りにくくなり、手に入り易い墨を使う洋画家が目立ってきたみたいですね
12月 (日本が)対米英に宣戦布告の号外を見て思わず興奮する。井上(長三郎)氏も興奮して涙ぐんだ。
真珠湾、シンガポール、マニラ、マレー、香港への攻撃、上海での戦闘をラジオで聞き興奮したと日記に書かれています。
ちょっと寄り道しますよ。
国防国家と美術/生きてゐる画家
雑誌『みずゑ』に掲載された軍人(陸軍参謀本部情報部員)の美術に対する画家たちへの考え方が分かる文章を引用します。
資料1941年1月 座談会「国防国家と美術-画家は何をすべきか」『みずゑ』434号引用
陸軍省情報部員 鈴木庫三「私は今日は大体好い機会と思ふ。画家、彫刻家の自然陶冶が出来ると思ふ。…幾ら自由主義を翳(かざ)して威張って居てももう駄目です。言ふことを聴かねば絵具とカンバスは思想戦の弾丸なりといつて配給を止めてしまふ。さうして展覧会を押へてしまへばそれつきりです。」
なかなか怖いことを言っていますね
これを読んだ松本俊介は『みずゑ』の社長に対して反論を書きたいとかけあい、1か月かけて原稿を書いたそうです。
そしてその文章「生きてゐる画家」の題名で4月・437号『みずゑ』に掲載されました。
(その文章手元にないので内容は分かりません
)
吉井忠日記に戻ります。
1942年 この頃の更生キャンバスは弱っていてあまり良くない
1943年 美術報国会が出来、絵描きたちが代議員だかになりたくて大騒ぎ。
1940年頃から材料確保のためさまざまな美術団体が作られましたが、1943年それらがまとまり美術報国会と美術統制会が出来ました。
(※報国=国恩に報いること。国家のために力を尽くすこと。(広辞苑))
その代議員になりたいと大騒ぎしている画家たちを吉井はやや冷めたまなざしで見ていたことが分かります。
美術統制団体について
ここで、戦時下に組織された美術団体について書いていきます。
ちょっと吉井忠日記から離れますよ
多くの美術団体が不足する材料・物資の確保のため組織されますが、のちに統制のための団体に変わっていきます。各団体の成り立ちからざっと見ていきます。
1937年7月、盧溝橋事件をきっかけに日中戦争へ
9月 輸出入品等特別措置法により、軍需に対する必要性を基準に生産・販売・消費・輸出入が統制され、不要不急物資の輸入が禁止されました。
1938年9月 日本塑像家連盟 発足
(→1941年3月 全日本塑像家連盟へ)
日中戦争開戦によってブロンズが不足したため、材料調達を目的に発足しました。
1940年10月 工芸美術作家協会 発足
同年11月 美術団体連盟 発足
(→1942年5月 美術家連盟へ)
1941年2月 水彩絵の具およびクレヨン類の公定販売価格決定
1942年3月 日本画製作資材統制協会 発足 …日本画家報国会 と連携
日本画の絵具は比較的手に入りやすかったが、前年12月対米開戦によってアメリカから緑青(ろくしょう)が輸入できなくなったため発足しました。
1943年1月 大日本工芸会 発足
同年5月 改組し、様々な美術団体を吸収して日本美術及工芸統制協会(美統)と日本美術報国会(美報)にまとめられる。
美術団体の役割・活動
はい。材料調達などのためさまざまな美術団体が発足した様子が分かりましたが、そうした美術団体の役割や活動を詳しく見ていきます。
*顔料運動(顔料の確保・国産絵具の開発)
不足していく顔料の確保のため、輸入することを目的に活動しました(しかし、独ソ開戦のため出来なくなってしまいます)。
また、輸入が止まってしまうため国産絵具の開発に取り組みました。
茶系の生産には成功しましたが、水銀や金属などが必要な絵具(コバルトブルーやバーミリオン等)は開発が進まず、国内の在庫が残り少なくなっていきました。
(1940か41年頃の段階であと1年分程度)
*ホワイト絵具の配給
1942年7月からホワイト絵具の配給が始まります。
油彩画では明度の調整のため大量にホワイト絵具が必要だそうですが、それが配給となりました。
*絵具の査定及び配給
絵具が手に入りにくくなってくると絵具のまがいもの(質の悪いもの)が出回るようになったため、査定が行われるようになりました。
1~3級の等級で分けられ、帯を付けて販売されました。
帯を貼る作業を画家たちも手伝ったそうです。
しかし、販売者の中には査定の時だけ基準を満たしたものを提出し、質の悪いまがいものを販売する者も珍しくなかったようです。(特に1943年頃からはチューブはスカスカですぐに変色するような酷いものも見られたそうです。)
1942年12月 配給絵具が決められる。
絵具の配給を受けるには、絵具購入予約券が必要となります。(後述)
この配給絵具は生産の関係で茶系が多かったようです。
絵具の自由販売が認められたのは18種で、土や酸化鉄、骨灰などを原料とし国内で生産可能なものに限られました。(国内で生産できないコバルト系は入っていません。)
*献納画運動
会員の作品約1200点を軍や病院/軍事保護院に献納。
美術界にとって、”軍に協力しているという姿勢を見せる”ことが大切だったのです
各美術団体に言えること
各美術団体は、発足当初は材料の配給のために作られた団体でしたが、1941年日米開戦後は統制のための団体へと変化していきました。
また、勤労奉仕(軍需工場で働くなど)する画家には優先的に配給がなされるようになりました。
美統による画家の審査・配給について
1943年5月、すべての美術団体がまとめられ美術報国会(美報)と美術及工芸統制協会(美統)が発足されたと前述しました…
ちなみに美術報国会の会長は横山大観。
美術及工芸統制協会の役割は材料の配給・審査、芸術家の審査とそれに応じた配給です。
その美統による画家の審査と配給について書いていきます。
*審査・配給方法
既定のサイズの絵と経歴書を美術統制会に提出させて審査しました。
軍報道関係者、報国会会員、陸軍美術協会会員などは優先的に扱われ、他はA,B,Cクラスに分けられ画材の配給量が決められました。
その配給量に応じて「油絵具購入表」「画布購入表」等が配られ、配給を受けました。
この制度について戦後詳しく書かれた雑誌の記事がありますので引用します。
資料「戦争画は何故描かれたか?」『美術グラフ』25巻10号(1976年10月)
特集:戦争記録画公開の背後にあるもの
「美術統制会(日本美術及工芸統制協会)が昭和18年に設立されて、美術資材の供給を一手に握り、戦争に非協力的とみなされる美術家には、絵具もカンバスも配給しないといった事態になっていった。
油絵作家は15号を、日本画家は横1尺5寸の巾ものに絵をかいて美術統制会に提出し、出身校、職歴、画歴、どこの展覧会に何回入選したか、だれに師事しているか、何会に所属し、会員か等の経歴書を提出させ審査した。
もちろん軍の報道関係者、報国会会員、陸軍美術協会会員などを最優先に扱い、外のものはA・B・Cクラスにわけられて画材の配給量をきめられた。
日本絵具の方は緑青系、朱、金銀砂箔は全く店になくなり、合成絵具がやっと手に入るだけであった。油絵具は古いチューブを持っていかないと売ってくれなくなった。画材屋に行っても店主はじめ店員も徴用にひっぱられてしまい閉店した店が多く、一か月に一度徴用の主人の休日に、やっと店が開かれて作家が殺到したが、すぐ品切れになり、配給量も手に入らずにやり場のない悲しみを味わったのが多かった。
著名作家の多くは当時すでに軍の報道班員や陸海軍美術協会の会員になり、画材の入手にことかくどころか安く豊富に軍部から支給されており、それらの作家のアトリエには画材が山積みになっていた。
一方、Aクラスあたりでもさほど著名でなく画料の高くない作家はこの配給だけでは生活していくことの困難さにぶつかり、ヤミカンバス、ヤミ絵具を探し回ったり、古キャンを再製したりした。」
とのことです。
その他のルートについて…軍からのルート
美統からの配給以外のルートについて少し書いていきます。
その他のルートとして、軍からによる画材調達がありました。
軍の美術戦略が分かる組織について少し書きます。
1938年6月 陸軍省・大日本陸軍従軍画家協会が結成され、戦地に従軍画家を派遣し絵を描かせました。藤田嗣治など多数の画家が戦地に行きました。
1939年4月 陸軍美術協会が創立し、戦争画展覧会を運営するなど、画家を支援しました。
つまり、陸軍のための絵を描けば配給が受けられるというしくみが出来ました。
(この配給には配給規定が存在したようです。)
作戦記録画について
ちょっとだけ寄り道します
軍のため、陸海軍の依頼を受けて描かれた作戦記録画ですが、茶色い絵が多く見られるのだそうです。
前述のとおり、開戦以降輸入が止まり絵具は手に入りにくくなりました。
国内で生産でき、手に入りやすい茶系の絵具を多く使う絵を描くことが多くなっていったようですね。
また、戦争の後半になり激化してくると、従軍画家たちは戦地に入ることが出来ず、軍による白黒写真を見てそれを基に描いていたことも茶色の多い絵の原因にもなっているのではと公演の中で迫内さんは仰っていました。
それではまた吉井忠日記に戻ります。
1944年1月 福沢(一郎)氏ら9人ほどで陸軍報道部を訪れ、士官学校、予科練の療養中の生徒へ絵を寄付し、陸軍美術協会でキャンバスや絵具等をたくさんもらって来ました。陸軍でもらった絵具は質が良く、量も”ウントある”と書いています。
1945年4月 ”陸軍美術展を見る。見物人多し。”
戦意高揚のため軍による美術展が開かれていたようですが、45年4月になってもまだそんな余裕(?)があったなんてちょっとびっくりしました。
吉井忠日記は以上です。
戦争による輸入制限が引き起こした副産物
講演会の最後は、ちょっとだけ明るいお話で締めくくってくださいました。
戦争によって海外から絵具が入らなくなったり、軍需優先によって絵具の顔料やキャンバスの亜麻、膠などの深刻な材料不足となったことは前述したとおりです。
その際、製造業者はその対策として代用品の開発を進め、またそれに対して買う側は商品価格と品質の関係を知るため材料に関する知識の必要性に迫られました。
つまり、非常時下を背景に、油彩画の特質と材料の科学的知識に対する関心度が高まったと言えます。
また、戦時中コバルトブルーが不足したことについても触れましたが、国は各大学研究室にコバルトの開発を命じていましたが成功していませんでした。しかし、研究費をもらっていない月光荘(画材屋)が1940年秋に完成させたというのです。
以上。
講演会の内容は以上になります。
おわりに
戦時下に画家たちが置かれていた状況について知ることのできた貴重な講演会でした。
絵具を得るだけでも大変だった時代、軍協力者へは豊富な画材が提供されたことを考慮し、戦争画や従軍画家を見るときには一定の距離が必要なのかもと思いました。
戦意高揚させる絵を描いているからと言って、心の底から戦争賛成・愛国者とは限らないということです。
最後に、講演会を聞いてまるこが思い出した藤田嗣治のエピソードを書いて終わりたいと思います。
藤田は日中戦争中は従軍画家として現地で絵を描き、太平洋戦争に突入すると陸軍美術協会理事長に就き大画面の戦争画を手がけました。
こうした立場から戦後、「戦争協力者」と批判されることもありました。
(※連合軍・GHQによる戦犯リストに画家は一人も入っていないのにも関わらず、日本人の中からこうした批判を受け、いわば”スケープゴート”のような形で非難されました。)
そして藤田は渡仏の許可が得られるとすぐにフランスに渡り移住するのですが、日本を離れる際、「絵描きは絵だけ描いてください。仲間喧嘩をしないでください。日本画壇は早く国際水準に到達してください。」と言葉を残し日本を去りました。
戦争中はさんざん持ち上げ、敗戦によって地の底に落とす…
日本を離れる藤田はどんな気持ちだったのでしょう。
戦争・敗戦によって国・国民が振り回されていた当時の日本が良く分かるエピソードだと思います。
…
なんか最後何が言いたいか分からなくなってきたけど、、、
戦争について知るほどに愚かなことと痛感します。
最後までお読みくださりありがとうございました。
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