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何でもアル牢屋

趣味丸出しの個人コラムです。フラっと立ち寄れる感じの喫茶店的なブログを目指してます。御気軽にどうぞ!

 

 

春と言えば髪型のイメチェンなのかは知らないけども、ロン毛と言うキーワードに絞って書いたのが切っ掛けだったかな。もう一つの切っ掛けは、皇室の眞子様と結婚した小室圭氏が日本に一時帰国した際、髪を伸ばしてポニーテールにしていた事で大騒ぎになって報道が過熱していた事だった。今思うと、情けないくらい馬鹿らしく下らない報道に世間は乗せられていた様な気がする。

この現代の日本国内において、男が髪の毛を伸ばし社会活動する事は未だに嫌悪感を示される。例えばサラリーの世界でロン毛は許されない。朝、スーツを着てポニーテールで意気揚々と出勤する会社員など見掛けない。もし居たとしても、その人はサラリーマンではなく、ヤバい筋の人かもしれないと人は疑いを持つ。

そもそもロン毛は、女の専売特許ではなかった。男にはチョンマゲやサカヤキと言う伝統的な髪形があった訳で、いつからなのか<社会的に感じ悪い男の髪形>の代表になってしまった。何故、駄目なのかの理由がハッキリしない。誰も説明が出来ない。日本の不思議の一つとしか言い様がないな。

 

 

 

記事投稿をする際、ブログの管理画面に<リブログ>って言う機能があって、何の機能なのかな?と思ってた程度だったんだけど、なるほど、前に書いた過去記事を再アップすると言う機能らしい。ブログは新記事が基本だけど、こう言う機能も面白いし懐かしいから、今後もやっていこうかなと思います。新記事とは別枠と言う扱いらしいので、サブメニューとして捉えて貰えればいいかなと。

 

この記事を書いた切っ掛けは、当時、TVK(テレビ神奈川)で放送していた勝新太郎の座頭市を観てたからだと記憶している。この御時勢、日本のテレビの時代劇は死んだも同然で、演じきれる若手も居なければ作れる制作サイドも無い。知識や経験も無い。俳優の仲代達矢によれば、時代劇はいずれにしても無くなるだろうと予言している。

日本の時代劇の魂を受け継いだのは、ブルース・リーとジャッキーチェンだったと書いたのは、我ながら言い得て妙だったと思う。

「プロスポーツ選手ほど最低な人間は居ない。何故ならば彼等は社会人としての試練を受けていないからだ」
この言葉は私の言葉ではなく、引用である。一昔前、アメリカのアメフトの選手が犯罪を起こし、人様と世間に迷惑を掛け、その際に苦し紛れに吐いた捨て台詞だった。捨て台詞の割に妙に印象に残る言葉である。何故なんだろうか?
プロスポーツ選手の犯罪は何処か子供じみている印象は確かにある。目の前に歩いていた美女とヤリたいから口説いてみた。釣れない態度だったし、段階踏むのも面倒臭いから仕方なく襲ってみた。誰とは言わないが、日本でも、この類の事件はあった。プロスポーツ選手の持つ無邪気さは、時に暴力や犯罪に変化し、人様と世間に迷惑を掛ける。今、話題の大谷翔平と通訳の水原の事件が騒動を起こしているが、これも世間に迷惑を掛ける類の出来事だろう。
大谷翔平は、野球が上手な大きな子供と言う表現を私はする。あの愛嬌と生真面目さに違和感を持つ訳であり、三十路も近い男なのに毒気と言うモノが感じられない。毒気と言うのは必ずしも悪ではなく、人として人間らしく生きる為の必要な要素で、それは人生の年季であり、どれほどの人と血の通う付き合いをしてきたのかと言う経験値とも言える。何処か機械染みた大谷からは、人っぽさが感じられない。

会見での彼も、まさしくロボ的な発言であった。弁護士の書いた作文を読みながら「私は無実です」と知らぬ存ぜぬを通し、自分は被害者だと主張した。しかし思う。水原をそうさせたのはお前だろうと。お前にも責任の一端はあるだろうと。
野球に専念したいから身の回りの事は他者に任せると言う考え方自体が子供なのであり、判り易い例えで表すなら、魚の世話を猫にさせるのと同じだろうと言う事。今回の騒動で露呈したのは、大谷翔平と言う人は随分とお金に対し無頓着なんだなと言う事で、なるほど、だからアッチにコッチにバラ撒きを容易にしてしまうんだなと腑に落ちる。金を稼ぐ人間は、金を意識して、金の管理を自分で把握し、管理せねばならない。その上で信用出来るプロに任せる。プロスポーツ選手は一種の<実業家>であり、管理能力も求められる。そう言う意味では大谷翔平は実業家としては失格だろう。
 

プロスポーツ選手が社会人の試練を受けていないと言うレッテルを張られる要因の一つに、金を稼ぐ苦労を知らないと言う点がある。彼等の殆どが幼少や学生時代からチヤホヤされる環境下で育つ為、アルバイトすらした事が無い人も普通に居る。彼等にとっては10万、20万と言う<はした金>も、世間一般が、この額を稼ぐのにどれほどの苦労をするかと言う実態も知らないまま大人になっていく。

金は稼ぐが稼いでいる実感や充実感が欠落している為、金銭感覚が麻痺する。預金通帳の桁数しか見ていないので金の価値観がイマイチ判らない。それは例えば、ピン札の一万円と、十枚の使い込まれたクシャクシャの千円札を見比べても、何の感情も浮かばないと言う無関心さと無感情の日常が普通になっている。桁違いのバラ撒きを躊躇なく実行する大谷翔平には、クシャクシャの千円札の心理など判る筈も無いのだろう。その結果が、水原事件を引き起こしたとも言えるのではないか?
金の価値が判っていれば起きようもない事件であり、いわゆる<世間一般の社会>から見れば、ファンタジーゾーンの世界である。

松竹版・八つ墓村の大ファンとして、山本陽子と言う女優は私にとって圧倒的な春代さんであった。
77年度作品と言う年月もあって、出演者の殆どが他界してしまったのだが、生き残っている俳優は数えるほどになった。近年、マニアな作家の一部がレトロ映画の解説本を出版するが、そろそろ松竹版の八つ墓村のみを扱ったマニアックな本の御登場を願いたい所だ。この映画のファンを自負する春日太一あたりが出してくれないだろうか。
当然、出演者のインタビュー記事が必須となる。その最先鋒と言えるのが山崎努だと思うのだが、彼にとっては、それほど思い入れのある作品ではないらしく、どちらかと言えば「新・必殺仕置人」の念仏の鉄の方が思い出深いそうだ。所で春日太一は、この松竹・八つ墓村の関連本で快挙をやってのけている。亡くなる三ヵ月前の夏八木勲にインタビューし、落ち武者の大将・尼子義孝の役について貴重な記事を得て本を出版した。聞きたいけど誰も聞けなかった事を春日がやってのけた所に、彼の価値がある。私はその本を買って読んだが、敢えて此処でのネタバレは避けたい。書ける範囲で書く事に留めたい。

春日が松竹・八つ墓村のファンだと言う事は先に書いたが、春日によれば、私と同じく、壮絶で怪奇な演技を見せた夏八木勲の尼子義孝の存在が印象に残ったらしい。特にラストの多治見家の炎上を丘の上から見下ろす八人の落ち武者のシーンが好きらしい。

春日は夏八木に、あの尼子義孝と言うキャラをどういう想いで演じていたのか?と聞く。夏八木は、この作品をよく覚えていた。尼子義孝と言うキャラは架空ではあるけど、毛利との戦に敗れ、辿り着いた村に落ち延び、村人に裏切られ、無念の最後を遂げる武将であると夏八木は解説する。彼は役作りの為に図書館にまで足を運び、毛利と尼子の関係や歴史などを勉強したそうだ。そうする事で、より一層、役に入り込める。
彼によれば、無念さをどう伝えるかが見せ所だったそうだ。誰もが落ち武者惨殺シーンでの夏八木の怪演に息を吞んだが、その本気の演技で自分がどの様な表情になっているのかまでは計算出来ないそうだ。どう映ったかは夏八木にとって重要ではなく、演じきれたかどうかがポイントだったらしい。

撮影秘話によると、俳優達の配役に一部、変更があった様だ。山本陽子と小川真由美の役が逆だったらしい。そうなると森美也子が山本陽子で、小川真由美が春代と言う事になる。尼子義孝の役も元々、夏八木勲ではなかったらしく、沖雅也が演じる予定だったらしい。
今となっては有名な話かもしれないが、松竹・八つ墓村は、角川春樹と松竹による合作の予定だった。金銭的なこじれで角川春樹が撤退し、松竹は単体で八つ墓村を制作する事になった。一方の角川は、松竹よりも一年早く、独自の制作で「犬神家の一族」を公開した。その一年後に松竹は八つ墓村を公開。結果的に両作品とも大成功を収め、語り継がれる伝説的な日本映画になった。
そういう経緯を知ると想像してしまう。松竹の八つ墓村の金田一が石坂浩二だったら、どんな風になったんだろうか。警部役の加藤武とのコンビも面白そうだ。そうなると、かなり作風が変わっただろうなと思う。後に市川崑・監督で八つ墓村が制作された訳だが、配役は納得がいかない。金田一は豊川悦司ではなく石坂浩二で行くべきだろうと思った人は多い筈。いっその事、落ち武者の大将に豊川を使った方が見所があったのではないか?とさえ思う。

八つ墓村と言う作品が珍しいのは、原作よりも圧倒的に映像版の方が面白い事だろう。私の場合、昭和のテレビ映画で観たのが最初だったが、松竹版の陰気でドロドロとした独特な雰囲気と、映像に反して芥川也寸志の圧倒的な優美な音楽が混ざり合って、少年ながらに印象に残った。
八つ墓村の圧倒的な存在感である多治見要蔵の役が山崎努と気付いたのは随分後の事で、私の世代の山崎は伊丹十三の作品「たんぽぽ」「お葬式」でのユニークな俳優と言うイメージだったので、そのギャップに良い意味でのショックを覚えた。
原作ファンには申し訳ない書き方だが、小説は長ったらしいだけで面白くないと言う印象。原作では序盤に村の名の由来と落ち武者伝説について書かれているのだが、伝説は伝説として置かれ、犯人は伝説を利用して殺人を展開したと言う事件なのだが、松竹版・八つ墓村はそれで終わらせなかった。そこで映画では、こんなやり取りが展開される。

「事件の概要は理解出来ましたが、この事件の動機は何だったんですかね?」

此処で渥美清演じる寅さん風・金田一が淡々と語り出す。

「あの・・・この事件はね・・・何と言うか、犯人ですら知らない実に不思議な偶然があったんです」

落ち武者伝説は只の伝説ではなかった。過去から現代へと引き継がれた不思議な因縁が渦巻いていたと言う結末に視聴者は「そうだったのか・・・」と、ゾクッとした。本編終了後も奇妙な余韻が残る。
その余韻がレンタルビデオ店へと走らせる。もう一度観たい。好きな場面を何度も巻き戻しては見てしまう。この作品には中毒性があるのだろう。

 

惨劇の舞台から、たった一人だけ逃げ延びた男の物語。人はそれだけでワクワクするものだ。
前回書いた「レンフィールド」と同年に公開された作品「ドラキュラ デメテル号・最期の航海」。ドラキュラ物語を知っている者ならば、この物語の結末は既に判っている。ドラキュラと言う悪が勝利する事が確定している絶対的な条件下での話なのである。当然、登場人物はドラキュラの餌食になり、船内は惨劇の舞台と化す。
主人公は医者である。何故、医者なのかと勘繰れば、ドラキュラと対峙する有名なハンターのバン・ヘルシングの職業も元々は医者なのである。アクション要素が強くなった最近のドラキュラ映画では、バン・ヘルシングが闘志満々の吸血鬼ハンターみたいな描かれ方をするのだが、彼の本職は医者であり、そもそもモンスターを狩るハンターではない。伝説化したドラキュラと言う存在に興味を持つ、ちょっと風変わりな医者と言った方が当て嵌まる。

デメテル号と言う箱庭に目を付けたのは中々のアイデアであった。ドラキュラの舞台はイギリスだが、ドラキュラが最初からイギリスに居た訳ではない。彼はルーマニアのドラキュラ城から航海してイギリスに来たのである。何故、イギリスなのか?と言う点については作品ごとに動機が違う。例えば、クリストファー・リーの傑作「吸血鬼ドラキュラ」では、主人公のジョナサン・ハーカーの美しい妻を狙ってイギリスに渡る。ゲーリー・オールドマンの「ドラキュラ」は少し捻って、ジョナサンの妻が、昔、非業の死を遂げた妻に似ていると言う理由が動機だった。
この作品のドラキュラの動機は判り易い。餌が無くなってきたからやってきたのだそうだ。ルーマニアの山村では狩り不足になった。だから餌の多い土地へ行こうとなった。リーやオールドマンのドラキュラは、どこか人間っぽく不純な<不倫劇>を彷彿させるが、このデメテル号のドラキュラは、心そのものが無い根っからの怪物である。
要はルーマニアからイギリスへの途中劇であり、従来のドラキュラ物語の中で呆気なく語られる、漂着した沈没船で何が起こっていたのか?と言う点にスポットライトを当てた作品なのである。

実の所、ドラキュラ物語に精通している人からすれば、この船での惨劇に違和感を持ってる人は意外に多いのかもしれない。

まず、ドラキュラは空を飛べる能力がある筈なのに、何故、船なのか?この疑問に対してはあっさりとした答えが浮かぶ。飛行で夜明けまでに辿り着くのが困難だからである。飛行機だって無い時代だから船での移動となる。まあ無理の無い設定だ。
何故、乗組員が殺されなければならないのか?乗組員たちは未知の怪物と勇敢に戦って死んだのではない。只の航海中の餌だった。ドラキュラは目的地まで大人しく寝ている訳ではなく、人間と同じ様に腹が減るのである。彼は野生動物の様に、餌以外の殺生をしようとはしない。危険な存在と認識すれば襲い掛かる点でも野生動物と同じである。

この点で分析すると、最近の吸血鬼映画の吸血鬼は、シリアルキラーの様に面白がって人を殺している風にも見える。その見せ方は違うだろうと個人的に思う訳だが、どうやら世間が求める<人気の取れる吸血鬼>とは、無益な殺生をする殺人鬼でなければならないようだ。

だが、この映画には魅力が確かにある。

航海前の荷積みの場面で乗組員の一人が、長方形の木箱に描かれたドラゴンの紋章を見て顔色を変え、この紋章の意味する不吉さに戦慄する。何故ならば、ドラゴンの紋章はドラキュラの家紋だからである。不吉の象徴、先行きへの不安の印として物語に厚みを加える。
闇夜に包まれた船内と言う舞台も効果的で、僅かな明かりと、船内の軋む音、波の音しか聞こえない夜の海。乗組員は「舟から鼠どもが消え失せた・・・」と不安そうにぼやく。鼠が居てこその健全な船旅だと彼は言う。船旅とはそう言うものなのかと、このシーンで視聴者は、ちょっとした知識を教えられる。
ふと望遠鏡で辺りを見回すと不吉な何かが居た。それがハッキリと何かは判らなかったが、人間ではない何かである事だけは判った。人ではない何かが、この船に乗っている。「いいぞ、いいぞ」と視聴者のテンションは上がってくる。こう言うセンスがホラーには必須なのである。

終わってみると、この映画の位置付けは<ドラキュラ エピソード0>なのである。
ドラキュラと主人公の医師は船内でバトルを繰り広げ、細かいネタバレは避けるが、両者ともにイギリスに上陸する。医師は知っている。あの怪物が上陸し、このイギリスの何処かに潜伏しているのだと。医師は、一連の出来事を経て、自分は、あの怪物を追跡しなければならないのだと、自分に言い聞かせるように決意をする。
ドラキュラ物語の裏エピソードと言ってもよく、この主人公が、どう暗躍していくのか想像すると楽しくなってくる。バン・ヘルシングと何かの縁があるのかもしれないとか、単身、ドラキュラ城へ乗り込んで探索を開始するとか。この映画は続編を作るべきだ。商業映画を抜きにしてでも続きを観たいと思わせる魅力がある。
ネットで評判を見てると酷評に近い評価が比較的多いが、そう言う人ってドラキュラ物語に思い入れが無い人なのかもしれない。あのエンディングを観せられたら、期待と想像が膨らむばかりだろう。