◆大己貴命(おおなむちのみこと)

 

 

 やっぱり書いてると長くなってしまうのはもう仕方ないですね(;´Д`A ```

 

 本稿は引き続き、阿波・徳島説となる私説となりますのでご注意ください。

 また通常の阿波説よりもかなり穿った見方をしておりますので、重ねてご注意くださいませ。

 

 「道は阿波より始まる その二」より、

 「貝府郷の南端宍咋(ししくい)の港が履中天皇ゆかりの鷲住王を祖とした宍咋別王の根拠地です。この貝府郷(加井府)には昔古より「はりま」といわれる地方があります。正に針間の地名通りに山合を細長く縫うが如くつづく邑なのです。海亀で有名な日和佐町(現美波町)の本村より玉厨子山と五剣山の山すそを縫って「はりま」「馬木」「原野」「府内」「なが」「かんば」「芝原」「橘」「小松」と連なり牟岐までに出てくる山合いの村々が針間で、今でこそ細長い谷間の寒村ですが一度歩いて通ってごらんなさい、倭の国以来の古代の臭いが残っているのが感じられる地方です。」

 …とあります。

 

 記されてある場所はこちら

 

 分かりにくいのでチョット広域にしますと

 

 ●徳島県美波町西河内はりま

 

 上記のルートを地図にしますと、西河内はりまから、くじら岩を南に下り、本村を経て山河内、高智神社、玉姫神社前を通り、橘、小松そして牟岐町河内に至ります。

 

 針間の説明ルート

 

 拡大地図サーチ

 

 

 牟岐町河内もそうですが、阿波では「河内」を「こうち(かわち)」と訓みます。

 当地にある高智神社も同様で、”こうち”と読み、北河内(きたがわち)、西河内(にしがわち)山河内(やまがわち)、奥河内(おくがわち)などになったと推測されます。

 

 ●海部郡美波町北河内

 

 ●美波町西河内

 

 ●美波町奥河内

 

 ●美波町山河内

 

 ●牟岐町河内(こうち)

 

 地理地形を見て頂くとわかると思うのですが、地名となる地域は山間部であり、その真ん中に川が流れている、つまり河が(山々の)内側にあるので「河内」の地名由来となります。

 

 

 現在の東大阪辺りにあった河内国(かわちこく)は、wikipediaにも書かれてあるように、7世紀の設立国であり、ご覧の通り本来の地名由来となる条件を全く満たしてはいませんね下矢印

 

 ●河内国(範囲は現在の藤井寺、八尾・柏原・羽曳野など)

 

 当地には古くから河内の屯倉があったとされますが、実際は7世紀以前の痕跡も見当たらず、従って律令後に新しく作られた際、別の場所から名前を貰い受けた国であるということをまずご理解しておいて下さい。

 

 さて、冒頭で説明しました「はりま」、現在の播磨といえば言わずと知れた兵庫県旧国名である針間国、こちらも少し調べればわかると思いますが、7世紀の設立です。

 徳島県に存在する「はりま」は、岩利大閑氏の説明にもあるように、正に針で山合の間を通したが如くつづく邑となっております。

 倭建命の母であり、12代景行天皇の前皇后である播磨稲日大郎姫はりまのいなびのおおいらつめ)は当地に所縁があると思われ、息子の大碓皇子は、wikipediaによりますと、

 

 

 身毛津君(みけつ)と書いて牟宜都(むげつ)国造等祖とありますね。

 

 身毛 広(むげつ の ひろ)は、飛鳥時代の人物。牟宜都比呂とも書く。姓は君。壬申の乱の大海人皇子(天武天皇)方の功臣。

 

 ●出自:身毛氏(牟義公・身毛君・身毛都君)は美濃国の地方豪族で、牟義都国造家とされる。身毛(牟義)は美濃国の武芸郡(むげのこおり、後の武儀郡)を指す。

 また『日本書紀』は身毛氏は景行天皇の子である大碓皇子の後裔であるという。

 ●経歴:壬申の乱(672年)において大海人皇子が挙兵を決断した際、広は吉野にいた皇子のそばにおり、舎人として仕えていた。美濃には皇子の湯沐邑があり、広が舎人になったのもその縁ではないかという学者もいる。

 皇子自身が行動をおこす2日前、6月22日に、身毛広は村国男依、和珥部君手と3人で美濃国に先行するよう命じられた。彼らの任務は、安八磨評(後の安八郡)の湯沐令多品治に連絡し、まずこの評を挙兵させることであった。彼らは無事にその任を果たし、美濃の兵3千が大海人皇子のために不破道を塞いだ。このおかげで大海人皇子は東国の兵力を集めることができた。

 その後の広の活躍は不明だが、乱の後、80戸の封戸を与えられた。『日本書紀』は12月4日に勲功ある人を選んで冠位を増し、小山位以上をあたえたと記すので、広もこれと同じかそれ以上の位を受けたと思われる。

 その後の身毛広については記録がない。(wikipedia 身毛 広より抜粋)

 

 …ということで、

 律令後の美濃国の北部は牟義都(むげつ)国造が支配しています。

 

 牟義都国造(むげつのくにのみやつこ・むげつこくぞう)伊自牟良君は美濃国北中部を支配した国造。・牟宜都国造・身毛津国造。

 

 ●本拠:牟義都国造伊自牟良君 美濃国伊自良(現山県市旧伊自良村)を本拠 壬申の乱の功績により、領土を拡げ関市池尻に居館を移したか 後に美濃国武儀郡が中心領域(概ね現在の岐阜県関市・美濃市)。関市池尻の弥勒寺跡隣接地の発掘調査により、7世紀後半の弥勒寺造営に先行する豪族居館と、奈良時代の郡衙に伴う正倉が設置されていたことが明らかになった。『上宮記』の伊自牟良を『和名抄』の山県郡出石郷に比定し、伊自良村(現山県市)氏神は甘南備神社、又は県神社 甘南備神社は、同時期の王美努王を祀る。壬申の乱にて、栗隈王美努王は中立を保つが、大友皇子の反感を買い刺客佐伯男により栗隈王は殺されそうになるが、栗隈王の二人の子、三野王(美努王)と武家王が側にいて剣を佩き、退く気配がなかったため、恐れて断念した。大海人皇子が天武天皇になった壬申の乱の牟義都国造伊自牟良君の功績に感謝した美努王と何らかの接点があったか

 国指定史跡 弥勒寺官衙遺跡群は、牟義都国造という記載も、周囲に神社(奈良時代以前)も見られません。伊自牟良君には、その二つがあり、同一氏族で、壬申の乱の功績により範囲を広げた勢力、領地により、居を移したと考えれば、弥勒寺官衙遺跡群も 伊自良もムゲツ氏関連である証明が出来ると思われます。(wikipedia 牟義都国造より抜粋)

 

 …とも記されてあるように、当地に奈良時代以前に牟義都国の本拠があった痕跡がみられないようです。

 つまりこちらも後に成立した、移された国なのです。

 

 大碓皇子について、『新撰姓氏録』では、

  • 左京皇別 牟義公 - 景行天皇皇子の大碓命の後。
  • 左京皇別 守公 - 牟義公同氏。大碓命の後。
  • 河内国皇別 大田宿禰 - 大碓命の後。
  • 河内国皇別 守公 - 牟義公同祖。大碓命の後。
  • 河内国皇別 阿礼首 - 守公同祖。大碓命の後。
  • 和泉国皇別 池田首 - 景行天皇皇子の大碓命の後。

 う~ん、全て皇別氏族ですなぁ。まぁ当たり前ですが。

 

 全てのルーツが阿波にある。

 そう考えると意外と簡単に物事が見えてきたりします。

 

 以前「薩摩から考察」で書いたのですが、天平7年(735年10月)の平城京跡から出土した木簡から、現徳島県海部郡牟岐(むぎ)は、武芸(むげ)と記されていたのが確認できます。

 

 

 …ということは、姓氏録にもある「和泉国」についても阿波人の歴史研究家であればどこから移されたのかは想像ができますね。

 

 ●和名類聚抄:阿波国那賀郡和泉郷

 

 

 また、大碓命の後裔となる『古事記』押黒兄日子王、押黒弟日子王の異母で描かれている兄弟も、それぞれ三野之宇泥須和気之祖、牟宜都君等之祖とあり、この三野(美濃)についても、以前「応神天皇の痕跡から考察④」で記しましたように、現在の阿南市見野林町が往古は見能方(みの-かた)であったことが分かっています。

 

 地図にしますとこのようになりますね下矢印

 

 岩利大閑氏著の「道は阿波より始まる その二」にも、

 「実兄大碓命の子押黒兄日子王が見能(みの)見能林町の支配を、押黒弟日子王が南方の要港牟岐町(現在は海部郡)の支配者なったのをみても長郡(那賀郡)にかたまっている一族なのです。」

 …と記されています。(岩利氏と見識が一致してたZE( ´∀`)うれちぃ

 

 …ということは、『新撰姓氏録』にある、左京皇別守(もり)公は、現在においては森(もり)氏であると思われ、当地周辺特に海際に多数氏族が見られますから、これは阿波水軍で有名な森水軍の森氏でしょうかね。

 

 徳島県の牟岐と岐阜県の武儀との違いは、創建不詳ながらも神社として痕跡を残す「牟岐津神社」がキッチリとご鎮座するところ。

 

 

 

 

 この牟岐津神社の御祭神は兄の大碓命ではなく、双子の弟である小碓命(=倭建命)のようですね。

 

 つまるところ牟宜都国(徳島県牟岐)は、双子の兄弟が寄り添っての事績を残すパターンということなのでしょう。

 

 そして、更に牟岐町河内から南に下ること海陽町宍喰の隣地名に…

 

 

 

 ここにも実は「河内」の地名が存在します。

 この高知県安芸郡の河内と海部郡宍喰浦竹ケ島との間には甲浦(かんのうら)という地名の残るところで、往古「神浦」とも呼ばれていました。

 東洋町河内の南側は、海陽町宍喰に伝説の残る鷲住王の息子である野根命(のねのみこと)の名が残る東洋町野根地区となります。

 

 この東洋町野根地域にある河内神社のご祭神を見て見ますれば、

 

 

 

 祭神未詳或云としながらも、天蔭命をお祀りしており、

 「河内国ノ聖者当村ニ来リシトキ奉祀スル所ノ神体ヲ当村ノ内別役?ニ鎮座ス。その分霊を奉祭スト土人ノ口碑ニ伝。…古来河内大明神ト称ス…部落の産土神ナリ。」

 

 河内神社の御祭神である河内大明神こと天蔭命は、二つの野根地域部落の産土神ということですね。

 

 では突っ込んでいきますね。

 

 凡河内国造(おおしこうちのくにのみやつこ・おおしこうちこくぞう・おおしかわちのみやつこ・おおしかわちのこくぞう)は、河内国・摂津国・和泉国を支配した国造。凡川内国造・大河内国造とも。

 

 ◆祖先

 天津彦根命・天之御影命(凡河内国造では天戸間見命と称する)。天照国照彦火明櫛玉饒速日命に随伴して、天児屋命ら32神で天孫降臨した際、天之御影命は近江国野洲郡三上郷の三上山(旧称・御影山)の山頂に降臨した後、三上氏より別れ、伝承では神武朝に彦己曾保理命(=彦己曽根命)が国造になったという。

 

 ◆氏神

 天戸間見命(=天之御影命の別名で天津彦根命の一人息子)。

 嫡流以外、天之御影命を家祖として名乗ることが許されなかったため、別名を用いている。

 河内国魂神社(兵庫県神戸市灘区)か(wikipedia 凡河内国造より抜粋)

 

 …とあるので、早速本家本元である河内国を覗いてみますと、

 

 河内国一宮 枚岡神社(大阪府東大阪市出雲井町)

 

 

 wikipediaの概要には、

 中臣氏から分かれた藤原氏が氏神として春日大社を創建した際には、祭神4柱のうち2柱として当社の天児屋根命比売神の分霊が勧請されており、それに由来して「元春日」とも称される。(wikipedia 枚岡神社より抜粋)

 

 一方、二宮 恩智神社(大阪府八尾市恩智中町5丁目10番地)

 

 

 ◆祭神 大御食津彦大神 大御食津姫大神

 

 『日本三代実録』の記載から2座の内容は「大御食津彦命神(大御食津比古命神)」・「大御食津姫命神(大御食津比咩命神)」であることが知られる。

 「ミケツ」の字義から食物を司る神(穀神)とされる。現在の神社側では大御食津彦命天児屋根命の後裔大御食津姫命豊受大神(伊勢神宮外宮祭神)に同じとし、本殿2棟に各1柱が祀られる。

 なお、社伝では元々の祭神を天児屋根命とし、枚岡神社・春日大社に移ったとして当社を「元春日」と位置づけるが、考証上では春日社家の大東家が恩智社家になり中世頃以降に生じた伝承になるとされる。(wikipedia 恩智神社より抜粋)

 

 由緒的には双方とも「元春日」を主張しており、「ミケツ」の神であること。

 また、大御食津姫命は豊受大神と同じとあり、上記説明からこれが「比売神」と同神と考えられます。

 

 既にご存知の方もおられるとは思いますが、阿波国の国神は大宜都比売であり、「大いなる食物の女神」の意味です。

 

 阿波国一宮である式内社 天石門別八倉比賣神社の御祭神は、天照大神こと大日孁女命(おおひるめのみこと)その別名が八倉比売命であり、諱が撞賢木厳御魂天疎日向津比賣、中臣の大祓詞では天照大神の荒御魂である瀬織津姫でもあります。

 この神が豊受大神と同神であることは以前書きましたので一応リンクを貼っておきますね。

 矢印羽衣伝説 Vol.阿波 ①」「羽衣伝説 Vol.阿波 ②」「羽衣伝説 Vol.阿波 ③

 

 …で、氏神であろうと目されている河内国魂神社はというと、

 

 河内国魂神社(かわちのくにたまじんじゃ)とは神戸市灘区国玉通にある同名の式内社と推測される神社。

 

 

 元々は五毛天神、五毛天神社という。五毛は胡麻生(ごまう:胡麻を栽培していたのか?)という当地の旧地名から来ていると言われている。

 祭神大己貴命少彦名命菅原道真となっており、凡河内氏の祖神である天津彦根命や、児とされる天御影命は祀られていない。(wikipedia 河内国魂神社より抜粋)

 

 河内国の一宮・二宮、そして河内国の国魂を祀っているはずの神社においても、どう言う訳か祖神とされる天津彦根命や天御影命が一切お祀りされていませんねぇ。

 しかも河内国魂神社の所在する場所は旧の摂津国ですな。

 

 う~ん、においますなぁ( ̄∞ ̄)

 

 これは四国(特に阿波)における定型美である、

 阿波国一宮である式内社 上一宮大粟神社(徳島県名西郡神山町)

 社伝によれば、大宜都比売神が伊勢国丹生の郷から馬に乗って阿波国に来て、この地に粟を広めたという。 (wikipedia 上一宮大粟神社より抜粋)

 

 春日神社(徳島県板野郡藍住町矢上春日68)

 春日神社御造営記念日には、「春日の地名は、安閑天皇の二年に春日部の屯倉を置きしに始まり、鎌倉時代に至って、奈良春日大社の御分霊を勧請して…云々。

 矢印開化天皇から考察

 

 式内社 水主神社(香川県東かがわ市水主1418)

 社伝によると今から二千有余年前水主神社御祭神倭迹々日百襲姫命都皇居今の奈良県桜井市黒田幼き頃より神意を伺い、まじない、占い、智能のすぐれた御方と言われ都皇居に於いて塵に交なく人もなき皇居の黒田を出られお船(うつぼ船)に乗りまして西へ西へと波のまにまに播磨灘今の東かがわ市引田安堵の浦に着き水清き所を求めて今の水主の里宮内にお着きになり住われ(ここを大内と言う)土人に弥生米をあたえて米作り又水路を開き雨祈で雨を降せ文化の興隆をなされた御人といわれる。

 矢印孝霊天皇から考察 ②

 

 …何が言いたいのかと言いますと、リンクを貼っている考察をご覧頂ければと思いますが、いずれも調査をすれば本来の逆パターンで記すことによって、皇祖の元つ国の痕跡を隠蔽している形跡が見られるということです。

 簡単に言えば、実際あるはずとされる場所にはなく、移しましたよとわざわざ書いているところには昔からあったということですね。

 

 つまり、上記河内大明神こと野根地域の産土神である天蔭命は、「河内国ノ聖者当村ニ来リシトキ奉祀スル」ですから、当地河内が元河内であろうと考えられるのです。

 当の河内国や河内国魂神社には全くお祀りされていない凡河内国造の祖神を、少なくとも当河内では産土神としてお祀りしておりますヨ。

 

 一応、説明を挟んでおきますれば、

 天目一箇神(あめのまひとつのかみ)は、日本神話に登場する製鉄・鍛冶の神である。『古語拾遺』、『日本書紀』、『播磨国風土記』に登場する。別名は天之麻比止都禰命(あめのまひとつねのみこと)、天久斯麻比止都命(あめのくしまひとつのみこと)、天之御影命(あめのみかげのみこと)、天之御蔭命(あめのみかげのみこと)、天津麻羅命(あまつまらのみこと)、天久之比命(あまくしひのみこと)、天戸間見命(あめのとまみのみこと)、天奇目一箇命(あめのくしまひとつのみこと)、天目一箇命(あめのまひとつのみこと)、天目一箇禰命(あめのまひとつねのみこと)、天戸須久根命(あめのとすくねのみこと)、天照眞良建雄命(あまてらすますらたけおのみこと)、明立天御影命(あきたつあめのみかげのみこと)。ひょっとこ(火男)の原型とも伝えられている。

 

 ●概要

 『古語拾遺』によれば、天目一箇神は天津彦根命の子である。岩戸隠れの際に刀斧・鉄鐸を造った。大物主神を祀るときに作金者(かなだくみ、鍛冶)として料物を造った。また、崇神天皇のときに天目一箇神の子孫とイシコリドメの子孫が神鏡を再鋳造したとある。『日本書紀』の国譲りの段の第二の一書で、高皇産霊尊により天目一箇神が出雲の神々を祀るための作金者に指名されたとの記述がある。『古語拾遺』では、筑紫国・伊勢国の忌部氏の祖としており、フトダマとの関連も見られる。

 鍛冶の神であり、『古事記』の岩戸隠れの段で鍛冶をしていると見られる天津麻羅と同神とも考えられる。神名の「目一箇」(まひとつ)は「一つ目」(片目)の意味であり、鍛冶が鉄の色でその温度をみるのに片目をつぶっていたことから、または片目を失明する鍛冶の職業病があったことからとされている。これは、天津麻羅の「マラ」が、片目を意味する「目占(めうら)」に由来することと共通している。

 天目一箇神は『播磨国風土記』の託賀郡(多可郡)の条に天目一命の名で登場する。土地の女神・道主日女命(みちぬしひめのみこと)が父のわからない子を産んだが、子に盟酒(うけいざけ)をつぐ相手を諸神から選ばせたところ、天目一命についだことから天目一命が子の父であるとわかったというもので、この神話は農耕民と製銅者集団の融合を表していると考えられている。天目一箇神を祀る天目一神社(兵庫県西脇市大木町(旧多可郡日野村大木)現在のものは再興)では製鉄の神として信仰されていた。(wikipedia 天目一箇神より抜粋)

 

 さて、wikipedia河内国魂神社の項にもある、

 「元々は五毛天神、五毛天神社という。五毛は胡麻生(ごまう:胡麻を栽培していたのか?)という当地の旧地名から来ていると言われている。」

 …等と記されてありますが、地名由来とされる「五毛」は、本来は”ごまう”などと訓むのではなく、”いつも”(=出雲)と訓むのではないですか?

 

 当社の祭神が「河内」の国魂神であるのであれば、当地に伝わる五毛天神は、出雲の神である大己貴命・少彦名命であるということ。

 この二神は、「兄弟」でありながら、共に寄り添って国土開発を競い合った事績がありますね。

 

 また隣接する「播磨(針間)」国の一宮は、

 

 伊和神社(いわじんじゃ)は、兵庫県宍粟市にある神社。式内社(名神大社)、播磨国一宮。旧社格は国幣中社で、現在は神社本庁の別表神社。

 

 

 ◆主祭神 大己貴神

 

 『播磨国風土記』の記載では、播磨国の神である伊和大神と葦原志許乎命(大己貴神の別称・葦原醜男)は同神とみなせる。

 

 ◆配神 少彦名神 下照姫神

 

 『風土記』では伊和大神は出雲から来たという。「伊和」の語源について『風土記』では神酒(みわ)から、或いは大己貴神が国作りを終えて「於和(おわ)」と呟いたためとする。(wikipedia 伊和神社より抜粋)(う~ん、定型美笑

 

 さて、当項は、拡大解釈するように記されている理由となる、日本武尊の説話が律令後の国名に置き換えられ、更にそのルーツとなる地はやはり「阿波」であるということの触りの位置付けです。

 さぁここからどう広がっていくのか。

 

 一応、日本武尊が能褒野で亡くなったとされるのも、例の如く類似地形によるものと推測しております下矢印

 

 引き続き、四国右側における倭建命の痕跡についてもう少し迫ってみたいと思います(´・ω・`)ノ これがどう倭建命に繋がるのかねぇ?...ってオマエが言うなって!?笑