開化天皇(かいかてんのう、孝元天皇7年 - 開化天皇60年4月9日)は、日本の第9代天皇(在位:孝元天皇57年11月12日 - 開化天皇60年4月9日)。
和風諡号は、『日本書紀』では「稚日本根子彦大日日天皇(わかやまとねこひこおおひひのすめらみこと)」、『古事記』では「若倭根子日子大毘毘命」。
●系譜
父:第8代孝元天皇。
母:皇后で欝色雄命(内色許男命、穂積臣遠祖)の妹の欝色謎命(うつしこめのみこと、内色許売命)。
第二子であり、同母兄弟には大彦命・少彦男心命・倭迹迹姫命
異母兄弟には彦太忍信命・武埴安彦命がいる。
妻子は次の通り。
皇后:伊香色謎命(いかがしこめのみこと) - 元は孝元天皇の妃。
第二皇子:御間城入彦五十瓊殖尊(みまきいりびこいにえのみこと、御真木入日子印恵命) - 第10代崇神天皇。
皇女:御真津比売命(みまつひめのみこと:古事記) - 日本書紀なし。
妃:丹波竹野媛(たにわのたかのひめ、竹野比売) - 丹波大県主由碁理の娘。
第一皇子:彦湯産隅命(ひこゆむすみのみこと、比古由牟須美命)
妃:姥津媛(ははつひめ、意祁都比売命) - 姥津命(日子国意祁都命、和珥氏祖)の妹。
第三皇子:彦坐王(ひこいますのみこ、日子坐王)
妃:鸇比売(わしひめ) - 葛城垂見宿禰の娘。
皇子:建豊波豆羅和気王(たけとよはづらわけのみこ:古事記) - 日本書紀なし。
『帝王編年記』『本朝皇胤紹運録』など中世編纂の史書には、以上の后妃のうち鸇比売のみが見えず、代わりに吉備津彦命の女の包媛(色媛?)が挙げられている。
●事績
『日本書紀』『古事記』とも、開化天皇の事績に関する記載はない。
『日本書紀』によると、孝元天皇22年1月14日に立太子。孝元天皇57年9月2日の父天皇の崩御を受け、崩御の同年11月12日に即位した。そして翌年の開化天皇元年10月13日、宮を春日率川宮に遷した。
その後、開化天皇60年4月9日に在位60年にして崩御した。時に『日本書紀』では115歳、『古事記』では63歳という。開化天皇60年10月3日、遺骸は「春日率川坂本陵(または坂上陵)」に葬られた。
●宮
宮(皇居)の名称は、『日本書紀』では春日率川宮(かすがのいざかわのみや)、『古事記』では春日之伊邪河宮。
宮の伝説地は、現在の奈良県奈良市本子守町周辺と伝承される。同地では、率川神社境内が宮跡にあたるとされる。この説は開化天皇陵にも近く優勢であるが、一方で奈良市春日野町の東の四恩院廃寺付近とする説もある。
●陵・霊廟
開化天皇の陵(みささぎ)は、宮内庁により奈良県奈良市油阪町にある春日率川坂上陵(かすがのいざかわのさかのえのみささぎ)に治定されている。公式形式は前方後円。考古学名は「念仏寺山古墳」(前方後円墳、墳丘長約100m)。
陵について『日本書紀』では前述のように「春日率川坂本陵(坂上陵)」、『古事記』では「伊邪河之坂上」の所在とあるほか、『延喜式』諸陵寮では「春日率川坂上陵」として兆域は東西5段・南北5段、在京戸10烟を毎年あてる旨とともに遠陵としている。近世には近隣の念仏寺の墓地になったため墳丘は削られたが、幕末に墓地の移転と陵の修補がなされて現在に至っている。
◆開化天皇 春日率川坂上陵(奈良県奈良市)
(wikipedia 開化天皇より)
…それではいつものように阿波・徳島での説として考察していきたいと思います。
この開化天皇は、父である孝元天皇と、母である欝色謎命の末子であり、孝元天皇の妃でもあった伊香色謎命を皇后として娶ります。
この伊香色謎命を祀る神社は日本唯一阿波国に鎮座する式内社 伊加加志神社(徳島県吉野川市川島町)だけです。詳しくはこちらをご覧ください➡孝元天皇から考察 ①
また、開化天皇との間に皇子である御真木入日子印恵命(第10代崇神天皇)をもうけますが、この皇子も伊加加志神社の境内社の「王子宮」にて我国唯一箇所にて祭祀されております。
伊香色謎命は先代の孝元天皇との間に第一皇子である彦太忍信命をもうけており、孫に後の大物大臣である武内宿禰がお生れになります。
更に伊香色謎命の父である大綜麻杵命も隣町である鴨島町の瑜伽神社(徳島県吉野川市鴨島町麻植塚)に祭祀されております。
当地(旧麻植郡)の「麻植塚」の地名は、阿波風土記曰く、「大綜麻杵命と呼びにくき故、麻植津賀(おえづか)、麻植塚と称するならんと云う」と、『麻植郡郷土誌』にあり、大麻綜杵命は阿波忌部族とも記されています。
その母の名は、高屋阿波良姫。
これら等から考察するに、阿波(徳島県)との結び付きが無かろうはずがありません。
まず宮である「紀」:春日率川宮(かすがのいざかわのみや)、「記」:春日之伊邪河宮のあったとされる場所の考察からなのですが、
春日(かすが、はるひ、はるび、しゅんじつ)
本項目では「春日」と表記・略記される物質、地名等について列挙する。「はるひ」と音読し、異体漢字ないし仮名で表記される物質、地名、人名等については「はるひ (曖昧さ回避)」の項目を参照のこと。
春日(かすが)
- 春の季語のひとつ。
- 枕詞のひとつ。もとは「はるひ」と読み霞にかかるとされる。後に「滓鹿(かすが)」または「霞処(かずみが)」との枕詞によって、「かすが」と読まれるようになったと言われている。
- 市町村
- 福岡県春日市
- 兵庫県氷上郡春日町、現丹波市。
- 熊本県飽託郡春日町、現熊本市。
- 春日町 (曖昧さ回避)も参照のこと
- その他地名
- 春日町 (曖昧さ回避)も参照のこと
- 茨城県つくば市にある地名 → 春日 (つくば市)
- 東京都文京区にある地名 → 春日 (文京区)
- 岐阜県揖斐川町にある地名→春日村 (岐阜県)
- 奈良県奈良市にある地名 → 春日 (奈良市)
- 徳島県徳島市にある地名 → 春日 (徳島市)
- 熊本県熊本市にある地名 → 春日 (熊本市) (wikipedia 春日より抜粋)
wikipediaにあるように、「春日(かすが)」は、枕詞の一つであり、春の日が霞(かす)む意から、同音の「かす」を含む地名の「春日(かすが)」にかかる枕詞であり、本来の読みは「はるひ」です。
そもそも「春日」と書いて「かすが」とは読めませんね。
また、「春日」の地名が残るところで、記紀神話及び大和王権が確立する以前の国土範囲から推察し取捨すると、中部・関東は消え、①福岡県春日市、②兵庫県氷上郡春日町、③熊本県飽託郡春日町、④奈良県奈良市にある春日、そして、⑤徳島県徳島市にある春日となります。
現在の徳島県徳島市にある「春日」は加茂地域に属し、一丁目から三丁目まで設置されています。
地理的には、第7代孝霊天皇の宮である黒田廬戸宮があったと推測される徳島市国府町黒田から東にある鮎喰川と吉野川が合流する位置になります。
この周辺は、吉野川を中心に無数の支流が合流する地帯となっています。
そして、当地から吉野川を挟んで北側の藍住町矢上に春日神社がご鎮座します。
春日神社(徳島県板野郡藍住町矢上春日68)
春日神社といえば、云わずと知れた御祭神、武甕槌命、経津主命、天児屋根命、比売神。
八百万の神サイトでは単に「春日神」と記されています。
◆春日神社御造営記念碑
安閑天皇(あんかんてんのう、雄略天皇10年?(466年?) - 安閑天皇4年12月17日(536年1月25日?))は、第27代天皇(在位:継体天皇25年2月7日(531年3月10日?) - 安閑天皇4年12月17日(536年1月25日?))。(wikipedia 安閑天皇より抜粋)
屯倉(みやけ)とは、ヤマト王権の支配制度の一つ。全国に設置した直轄地を表す語でもあり、のちの地方行政組織の先駆けとも考えられる。(wikipedia 屯倉より抜粋)
wikipediaの「屯倉」を参照頂くとわかるのですが、屯倉は第11代垂仁天皇から記録され、大化の改新(646年)により廃止されましたが、上記ある第27代安閑天皇治世時に、肥(火)国と阿波国の二国にのみ「春日部屯倉」が見られます。
肥国は後に分かれて肥前・肥後となり、現在の長崎県・佐賀県・熊本県となりますが、その中の熊本県にwikipedia「春日」の項にもあるように現地名として残っています。
徳島県でも同じく「春日」は古くより地名として現存しており、神社碑に書かれている通り、6世紀初頭の532年頃にはすでにこの地は天皇直轄地であったということを裏付けています。
また、屯倉を廃止してから約100年余り経て、奈良県が大和国(おおやまとこく)として成立(757年)することになります。
◆鹿の墓
例の如く「奈良の春日神社をこの地に分祀した…」等と書かれておりますが、やはりここでも冒頭に「六世紀の皇室領の屯倉がこの地に置かれ」云々…と記されてあります。
全国1,000社に上る春日神社の総本社である春日大社(奈良県奈良市春日野町160)が創建されたのが実は768年、つまり八世紀中後半。
看板には、「一頭の鹿が当地と奈良を往来したという伝説」があったと書かれておりますが、春日大社をwikipediaで調べてみますと、武甕槌命が白鹿に乗ってきたとされることから、鹿を神使とする。とあります。
時代や内容を擦り合わせますと、時系的には、当地(阿波)に居た鹿が大和(奈良)に行った後、再び藍住町矢上春日に戻って来た(往来した)、後にこの地で鹿が亡くなったからここに墓がある。と考えるのが自然ではないでしょうかこの場合の”鹿”の正体が何かはハッキリとは分かりませんが(´・ω・`)
ここでもいつもの通り「奈良→阿波」ではなく、始まりは「阿波→奈良」であったことが分かってしまうのです。
つまり春日大社は、六世紀にすでに皇室領であったとされる徳島県の藍住町矢上春日から、八世紀に奈良県の春日野町へ分祀したというのが本当のところでしょう。
ということはこの地に鎮座する春日神社が、春日大社の元社と言い換えることもできますが、実は、「道は阿波より始まる」の著者、岩利大閑氏や「記・紀の説話は阿波に実在した」の著者、髙木隆弘氏共、当社を開化天皇の皇宮であった「春日之伊邪河宮」に比定されています。
◆春日神社御神木「矢上の大樟」
推定樹齢1200年、目通り・樹高共12mを超える巨木です。県指定天然記念物。(奈良に分祀した記念に植えられたのかも…)
また陵名ですが、「紀」:春日率川坂上陵、「記」では「伊邪河之坂上」、『延喜式』諸陵寮では「春日率川坂上陵」として兆域は東西5段・南北5段、在京戸10烟を毎年充てる旨と共に遠陵であるとしています。(やはりここも「遠陵」ですな。)
そしてここで初めて兆域の単位に、「段」の文字が現れます。
たん【反/段】 の意味
1. (「端」とも書く)布類の長さの単位。鯨尺で幅9寸(約34センチ)、長さ2丈6尺から2丈8尺(約10メートル)。だいたい一人分の衣服に要する長さ。
2.土地の面積の単位。1町の10分の1(約10アール)。10畝、また、300歩。もとは360歩。
3.距離の単位。6間(約11メートル)。
4.和船の帆の幅をいう単位。おおよそむしろ1枚の幅で、3尺(約91センチ)。「だん(段)」
(goo国語辞書)
現在の測量と相違なければ開化天皇陵の規模はおよそ55m四方となります。
また、陵は記紀共に記されているように「坂上」にある訳ですから、当地周辺ですと春日神社の川向かいの北にある四国八十八ヶ所第2番札所日照山無量寿院極楽寺の辺りが適当します。
四国八十八箇所霊場の第二番札所 日照山 無量寿院 極楽寺(徳島県鳴門市大麻町桧字ダンノ上12番地)。
●歴史
寺伝によれば、奈良時代(710年 - 784年)、行基の開基という。弘仁6年(815年)に空海(弘法大師)がこの地での三七日(21日間)の修法で阿弥陀経を読誦したところ満願日に阿弥陀如来の姿を感得したため、その姿を刻んで本尊としたといい、この阿弥陀如来の後光は遠く鳴門まで達し、魚が採れなくなったため、困った漁民たちが本堂の前に山を築いて光をさえぎったということから「日照山」と号するとされる。
天正10年(1582年)に長宗我部元親の兵火により焼失。万治2年(1659年)に阿波藩主によって再建される。(wikipedia 極楽寺より抜粋)
空海の伝説の裏にはいったい何があるのでしょうかねぇ。
阿波においては、太古の歴史を封印したともいわれている空海は、とても人の仕業では計り知れないような大そうなトンデモ伝説が数多く存在します。
そこに常に付き纏うのが、阿波の「倭(やまと)」の痕跡を悉く「寺」や空海の説話に置き換え、歴史から消していったのではないのかということ。
邪馬台国四国山上説を提唱されておられる大杉博氏はこれを「封印」されたのだとしています。
隠されたことが事実なのであれば、逆に、空海関連の「寺」や伝説話を追えば、そこは古代倭の重要な拠点や所縁があった可能性が高いともいえますので、そういった視点を以て調査するとまた新たな発見があるのかも知れません。
この開化天皇の和風諡号なのですが、「紀」:稚日本根子彦大日日天皇、「記」:若倭根子日子大毘毘命(わかやまとねこひこおおひひのすめらみこと)。
当春日神社の北にある極楽寺があるのは「日照山」であること。
また、皇后である伊香色謎命を祀る日本唯一の式内社伊加加志神社は、日命(ひのみこと)大明神といわれていたこと。
この天皇から特に「日」との只ならぬ関係があることを示唆しています。
ちなみに、
現治定されている開化天皇陵である「念仏寺山古墳」ですが調べてみますと、
念仏寺山古墳(ねんぶつじやまこふん)は、奈良県奈良市油阪町字山ノ寺にある古墳。形状は前方後円墳。
実際の被葬者は明らかでないが、宮内庁により「春日率川坂上陵(かすがのいざかわのさかのえのみささぎ)」として第9代開化天皇の陵に治定されている。名称は「弘法山古墳(高坊山古墳)」や「坂上山古墳(さかがみやまこふん)」などとも。
●概要
奈良市中心部、三条通り・油阪通りの間に位置する大型前方後円墳である。宮内庁により天皇陵に治定されているため、これまでに本格的な調査はなされていない。
墳形は前方後円形で、前方部を南南東方に向ける。古墳域は近世頃には近隣の念仏寺の寺域とされ、念仏寺の墓地として利用された際に墳丘が削られたが、幕末に墓地の移転と陵の修補がなされた。ただし、その陵墓修築で墳丘は大規模な改変を受けたと見られている。現在段築は見られず、後円部・前方部境も不明瞭で、後円部・前方部にかけての墳頂も平坦となっている。主体部の埋葬施設は明らかでない。
この念仏寺山古墳は、西側外堤において出土した円筒埴輪片等から、5世紀前半(古墳時代中期)の築造と推定されている。また1975年(昭和50年)や2008年度(平成20年度)の鳥居建替の際には、江戸時代の墓地化に関連した蔵骨器・木棺が出土している。
なお古墳域は、後世に営まれた平城京では左京三条六坊四坪に位置する。平城京造営以前には京域内に広範囲に古墳が分布していたが、平城京造営に際して念仏寺山古墳や宝来山古墳(垂仁天皇陵)のほかは多くが破壊・削平を受けたことが知られ、本古墳はそれら消滅古墳とともに古墳群を形成したものと考えられている。
古墳の規模は次の通り。
- 墳丘長:約100メートル
- 後円部
- 直径:約48メートル
- 高さ:約8メートル
- 前方部
- 幅:約48メートル
- 高さ:約6メートル (wikipedia 念仏寺山古墳より)