薩摩国(さつまのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。西海道に属する。
●沿革
大宝2年(702年)8月1日の薩摩・多褹叛乱を契機に、10月3日までに唱更国(はやひとのくに)が置かれたのが、薩摩国の始まりである。唱更の更は、中国の漢代に兵役についている者を更卒と呼んだことに由来し、唱更は辺境の守備にあたることをいう。
国名は、大宝4年(704年)に全国の国印を鋳造したときまでに薩麻国に改められた8世紀半ば以降の不明な時点に薩摩国に改称した。
7世紀末の段階で南九州に(全てではなく、飛び石的に)評が設置されていた。それは、文武天皇3年(699年)南九州や九州西部の島嶼部の人々が、覓国使(べっこくし)を侮辱するという事件が起こった時、衣評督である衣君県も加わっていた。(wikipedia 薩摩国より抜粋)
平城京から発掘された木簡を調べてみますと、
天平7年(735年10月)、「阿波国那賀郡武芸」は恐らく現在の海部郡牟岐(むぎ)から堅魚(かつお)を6斤調したとあり、また、「阿波国那賀郡薩麻」より同じく堅魚を6斤調したとあります。(□平七□と歯抜けになっていますが、天平は七十年もないので那賀郡から同年で堅魚を納めたと思われる)
この「那賀郡薩麻」は現在では見当たりませんが、堅魚を納めることができるのは広い那賀郡の中でも海側であるはずです。
また当時の「那賀郡」は、現在の徳島県南域に広がっており、後に海部郡が分かれてます。
地名辞典である『日本歴史地名大系37 徳島県の地名』(平凡社、2000年)でも、那賀郡の地名として「薩麻駅」が立項されていますが、「比定地は不詳」とあるようです。
しかしこのヒントは以外にも讃岐國大内郡にある倭迹々日百襲姫命を祀る式内社 水主神社が所蔵する大般若経奥書に阿波州「海部郡薩摩郷」の文字があることが確認されました。
水主神社には2種類の大般若経が伝来しており、ひとつは内陣(ないじん)に安置されていたといわれるもので、国指定重要文化財となっています。
経函の墨書には「箱ノマハリノ木ハ皆阿州吉井ノ木工ミ成法之助成也」とあり(『大内町史』上巻、大内町、1985年)、現在の阿南市吉井町・熊谷町方面との交流が伺えます。
他のひとつが外陣(げじん)に安置されていたといわれ、未だ奥書の全体は紹介されていません。
1~11巻の奥書には「阿波州海部郡薩摩郷」などの文言が記されており、八幡宮に奉納されたと記されています。
これらを含む80巻までは「藤原朝臣冨田沙聖蓮」を檀那として書写され、讃岐へ運ばれ、この時81巻は「海部多羅多門坊」にあったようです。
徳島新聞長谷川賢二氏によると、80巻までが、1398~99年(応永5~6)に阿波国海部郡薩摩郷八幡宮に奉納されたものであるらしいのです。
どうやら薩摩郷は海部郡にあったと見るべきで、そこには八幡神社があったことになります。
薩摩郷についてですが、郷土史家 浪花勇次郎氏の遺品の一部から、「地理を調べてみると海部川下流川西・川東両村跨っての地事らしい」と所見を記しています。
また、「貴地海部川沿岸の多羅、冨田等いふ地名を書きある関係上薩摩郷は仝川沿岸の一地方名なりし」と見解を述べています。
この「冨田」「多羅」は現在も「富田」「多良」として、共に海部川下流域に存在します。
「香川県大内町水主神社の大般若経と浪花勇次郎」より概ね抜粋
徳島県立博物館 No. 46博物館ニュースにも同様のことが記されています。
◆富田・多良
余談となりますが、徳島県埋蔵文化財センター20周年記念シンポジウムの記事によると、同郡同郷から御取鮑を出した海部里阿曇部大嶋・若万呂の名が見え、大化前代には長国造支配域に所在した那賀郡の那賀川流域及びその海岸部の一部には海部が分布し、阿曇部に統括されて堅魚や鮑の海産物を収取して貢納していたと考えられている。
…とあります。
また、隠伎国における海部の動向及び阿曇氏による統括の関係も確認できるとあり、少し調べてみますと、物部氏に特化したサイトである「天璽瑞宝」によれば、
・阿波国那賀郡海部郷 物部首魚万呂 奈良国立文化財研究所『平城宮発掘調査出土木簡概報』19-26下(283)
・隠岐国海部郡海部郷 物部首魚万呂 (同上)
・安芸国佐伯郡海部郷 物部首魚万呂 (同上)
・土佐国高岡郡海部郷 物部首魚万呂 (同上)
・筑前国怡土郡海部郷 物部首魚万呂 (同上)
・筑前国那珂郡海部郷 物部首魚万呂 (同上)
・筑前国宗像郡海部郷 物部首魚万呂 (同上)
…が見えます。(上記の国や位置・郷名はなかなかに興味深いです)
「道は阿波より始まる」その一、事代主命 ゑびすさんの項に、
海人族の大王。この事代主命が山分けの天蚕より釣糸に使用する「てぐす」を開発しました。勿論絹糸を紡ぐ過程より発見したのでしょうが、これより急速に一本釣漁業が阿波国に発展し、近世に至るまでわが国漁業の指導を阿波人が行い、九州地方まで漁場をもつようになったのです。
(中略)
海人族が近世ナイロンが出現するまでの間、古代よりの利権でてぐすを独占し、瀬戸内海の沿岸諸国、島々は勿論、九州地方沿岸の島々、最盛期にはてぐす舟二十四船を数え、朝鮮地方沿海州までてぐすと共に一本釣りの仕掛けを配布していました。「ゑびす大明神」として全国津々浦々の漁師が奉祀するのも当然です。
同書「阿波と漁業」の項では、
我国の漁業はちょっと考えると、九州地方から発達したように見られがちです。博多の中州、長崎と五島多くの漁業関係の人々が集まっています。が現在の様な漁港の姿は日清戦争以後、阿波国南方の漁民がこの地方に移住し、漁業を開拓した結果です。日露戦争の時にも九州の人では漁ができないと、阿波漁民が大挙手押しの櫓舟で朝鮮半島迄も出かけたのは有名な話で、漁民の古老に当時の話を聞くと大変面白いことばかりです。口伝により海すじ、風すじを知る水子のみが我国の海運と漁業を独占していました。その名残が九州地方の各漁港を阿波人が我がもの顔に使用している現状の姿です。
…と記されており、歴史調査とは関係なしに現地で海部郡の漁師に雑談程度で伺ったところ、「五島列島に親戚が居る話」や「ここの漁師が漁の仕方を教えた」等といった話が普通に聞けました…(´・ω・`)岩利大閑すごいね
…話が逸れました。
さて、肝心の薩摩郷の話ですが、海部町史に、『芝北山薬師如来御由来記』
「そもそも阿州海部郡薩摩の郷 北山薬師如来は行基菩薩日本行脚し給う時この鷲木を以て御長弐尺壱寸の薬師の尊像を一刀三礼にして彫刻し一堂を建立し安置し奉る。村の北なるを以て北山薬師と崇め奉り行基自ら開眼入仏供養し給いて…云々」(明治30年3月12日 谷口小酔文)
…とあり、明治後期でも「薩摩郷」という言葉が通じていたことになります。
つまり、北山薬師如来があった芝は薩摩郷ということ。
◆芝は薩摩郷
芝というと高園、野江とあわせて3ヶ村と言われ海部族の根拠地と呼ばれるところでもちろん海部川下流域です。
また同町史に、
「北山薬師如来は地蔵寺末で元梅木谷の丘の上にあり地蔵寺境内(現在地、芝)に遷しさらに現在地に堂宇を新築移転したもので、明暦(1655~1657)の棟附帳に「一、壱寺 地蔵寺末薬師庵 歳七拾三」とみえているので、やはりその頃の開基であろうか。5代に亘って庵主が住み後無住となっている。」
…ともあり、元の場所は、芝字梅木谷にあったようです。
ネット検索によると、「薩摩」の読みの「さつま」は、 「狭詰」又は「狭端」から来ているものと思われ、詰まった地形、奥まった所…を意味します。
…とあり、「はしっこ」の「狭いところ」が「薩摩」と呼ばれた可能性が高いです。
そもそも当地は徳島県(阿波国)の南の端っこです。
日向国(ひゅうがのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。西海道に属する。
『古事記』の国産み神話においては、筑紫島(九州)の4面に筑紫国、豊国、肥国、熊曽国が見えるが、日向の記載はない。なお、『日本書紀』にはこの記述はなく、『先代旧事本紀』では筑紫国、豊国、肥国、日向国の4面を挙げている。(wikipedia 日向国より抜粋)
大隅国(おおすみのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。西海道に属する。
●沿革
大宝2年(702年)8月1日の薩摩・多褹叛乱を契機に、同年日向国を割いて唱更国・多褹国を設けたのが先行してあり、その流れの中で大隅国は和銅6年(713年)4月3日、同様に日向国の肝杯郡、囎唹郡、大隅郡、姶羅郡の四郡を分けて設けられた。
令制国が成立する以前は襲国(そのくに)とも呼ばれた熊襲の本拠地であり、後にも薩摩と並んで隼人の抵抗が最後まで根強く続いた地で、日向からの分立及び隼人の根拠地であった囎唹郡の分割は、隼人勢力の弱体化を意図して行われた。(wikipedia 大隅国より抜粋)
現在は宮崎県の故国が日向国とされているようですが、wikipediaの記述を纏めますと大宝律令(701年)直後の日向国は、
・襲国(そのくに)(律令以前)
→熊曽国
→日向国(~701年?)
→日向国・唱更国・多褹国(702年)
→日向国・薩麻国・多褹国(704年)
→日向国・薩摩国・大隅国・多褹国(713年以降~8世紀半頃)
これを見ると反乱などもあったりしたので、短期間で急速に鎮圧・律令化がすすめられた感じがしますね(´・ω・`)
熊曽国の「熊」は恐らくのちに分国した大隅国の「隈」(くま)と同じで、奥まったところ・すみという意味で、「曽」も「襲」と同じく、重ねると同意です。
「薩摩」については、大和朝廷時代の我が国の西の端っこにあたる九州(筑紫島)のそのまた南端にあるという位置関係からしても字義とする薩摩にも共通しますね。
次に、芝の隣の集落である「中山」にのみ、左津前(さつまえ)という姓の一族が住んでいます。
この中山には王子神社があり、川西村史によると、近くの真光寺の襖張替のときに裏張りの中から見つかったという、地元の家に伝わる文書があります。
これによると、
「抑当村王子大権現は往古海部拾八ヶ村浦里氏宮にて御座候所、右社及大火候其後鞆浦大宮村へ守廻し拾八ヶ村、浦里惣氏に奉崇候然る所当村王子大権現御神体及大破に、再建仕度候得共少氏の事故再建難出来何卒多力を以再建、成就仕度義に御座候不拘多少勧化御志の程奉希候以上」
…とあり、中山村の王子大権現が大火にあったため、再建するまで鞆大宮村に守廻したと書かれています。
この王子神社の御祭神は国常立尊で、阿波志に、
「王子祠、在中山村。藤原宗寿置二一村共祀。天正中羅兵火、柱礎猶存。萬治二年(1659年)重造。又有蔵王・円山・三宝祠。」とあります。
…と考察を書かれておりますが、これまでの上記の件を信じるならば、当社は大火にあい、その時に大般若経奥書も焼失した恐れがあります。(ひょっとしたら残っているのかも知れませんが…)
「大宮」村の名がここで出てくるということは、この時に八幡神社が創建されたのではなく、すでに当地には和奈佐意富曾神社があり、恐らくそこに一時的に中山の八幡神社が移設・遷座されたのではないかと思いますが、思うようには再建が叶わなかったようです。
後に中山の八幡神社は王子神社としてリニューアル、当の八幡神社は現在地の海陽町大里松原に和奈佐意富曾神社と共に移設されたのではないでしょうか。
また、中山村から南下した先の「居敷」には、神子ヶ谷という地名も残り、この先から和奈佐へ抜ける山道「居敷越え」が今も残ります。
この居敷の明神谷の轟神社は、
阿波志に「蛇渕、在中山石敷谷、巾三丈長六丈、其深不可測、飛泉注此、有龍祠、称轟、土人乞雨、側有石蛇巻、又石涯有馬蹄痕、又穴中有応潮泉」
…とあり、祭神は水象女命といわれ、創建年次も由緒も不詳ですがどこにあるかは未確認。
上記件から推察するに、海部郡薩摩郷の比定場所は、
赤丸の範囲ではないかと思われます。
A:芝=薩摩郷内にあった地域
B:中山=左津前姓が住む唯一の村、王子神社がある
C:居敷=「狭詰」又は「狭端」った場所であり、地名的にも怪しい場所
要するに「中山」のぐるり周辺だったのではないでしょうか。
また推測ですが、『日本書紀』一書四にある「日向襲之高千穂添山峯(ひむかのそのたかちほのそほりのやまのたけ)=一つ別に存在する山」ではないでしょうか。
宮崎県・鹿児島県に比定されている諸氏は、霧島山の高千穂峰以外に考えることは不可能とか「記紀」を読むとそうなるし、真剣に考えもしないで、天孫降臨の山を勝手に規定することは誰にもできない等々…信じて止まないのでしょうが、これは当時の大和朝廷の施策にまんまと騙されているのです。
和名類聚抄に薩摩国 阿多郡の名が見え、また、
大隅国に吾平津媛を彷彿させる姶羅郡(あいらぐん)があります。
『日本書紀』本文-8及び、一書四、第九段一書六-3等にある「吾田の長屋の笠狭の岬(御碕)」や、第十段本文-4、「火闌降命は吾田君の小橋などの祖先です。」や、神武天皇即位前紀-1に、「15歳で太子(=日嗣の皇子)となりました。その後、日向の国の吾田邑の吾平津媛(アヒラツヒメ)を娶って妃として手硏耳命が産まれました。」…等々記されています。
このことにより神武天皇東征の縁を説かれる方々が後を絶ちませんが、これらは全て後世の付会のはずです。
考えてもみてください。
なぜ、初代神武天皇の故郷である日向が700年前後の大和朝廷により再び鎮圧されなければならないのでしょうか
そもそもその神武天皇が作り上げてきた国造りであるはずなのに、なぜ反乱を起こすのでしょう。
只単にまだ朝廷の力が及ばぬ地域であったが故に、平定されるに至っただけなのではないでしょうか
古くは景行天皇、倭建命、仲哀天皇などの話にもあるように、九州南部の隼人族は最後まで大和朝廷に抵抗した民族ではなかったでしょうか
上記律令からの国の制定年代を見ても世情背景から鑑みても、この実在する阿波国海部郡薩摩郷の地名と、「記紀」に見られる阿多=吾田(おそらく式内社(論社) 阿津神社(祭神:木花開耶姫命の別名は、神阿多津比売)周辺地の相川・神野辺りと推測)、広義としての「日向」はこの場合、恐らく阿波剣山系東南部長國域の海沿いであったと推定されます。
九州東南部を阿波に見立てた場合の丁度日向国の範囲と被りますね(´・ω・`)
ここでもオリジナルがどこであったかお分かり頂けるのではないでしょうか(´・ω・`)