前項からの続きになります。
 
 次に、孝霊天皇の皇女に有名な倭迹迹日百襲姫命(やまとととびももそひめのみこと、夜麻登登母母曾毘売命)がいます。
 前項にご紹介した日子刺肩別命の姉にあたります。
 
 

 倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと/やまとととびももそひめのみこと、生没年不詳)は、記紀等に伝わる古代日本の皇族(王族)。

第7代孝霊天皇皇女で、大物主神(三輪山の神)との神婚譚や箸墓古墳(奈良県桜井市)伝承で知られる、巫女的な女性である。

 
 ●記録

 『日本書紀』崇神天皇7年2月15日条では、国中で災害が多いので天皇が八百万の神々を神浅茅原(かんあさじはら:比定地未詳)に集めて占うと、大物主神が百襲姫に神憑り、大物主神を敬い祀るように告げたという。

 同書崇神天皇7年8月7日条では、倭迹速神浅茅原目妙姫・大水口宿禰(穂積臣遠祖)・伊勢麻績君の3人はともに同じ夢を見て、大物主神と倭大国魂神(大和神社祭神)の祭主をそれぞれ大田田根子命と市磯長尾市にするよう告げられたといい、同年11月13日条ではその通りにしたところ果たして国内は鎮まったという。この「倭迹速神浅茅原目妙姫」は百襲姫と同一視される。


 また同書崇神天皇10年9月27日条では、四道将軍の1人の大彦命が和珥坂(現・奈良県天理市和爾町)で不思議な歌を詠う少女に出会う。 少女は詠う 「ミマキイリビコはや おのが命を死せんと ぬすまく知らぬに 姫遊びすも」。 大彦命は気になって尋ねる「なんじが言は何辭ぞ」。 少女は答える「物言はず、ただ歌うのみ」。 少女はもう一度同じ歌を詠うと姿を消した。

 大彦命は引き返してこのことを天皇に報告した。百襲姫はこれを武埴安彦とその妻の吾田媛による謀反の前兆であると告げ、果たして謀反は起こったが鎮圧されたという。この説話部分は、前後の記述関係から某かの神が童の口を借りて詠わせたともとれる内容である。

 

 続けて、同書では百襲姫による三輪山伝説・箸墓伝説が記される。これによると、百襲姫は大物主神の妻となったが、大物主神は夜にしかやって来ず昼に姿は見せなかった。百襲姫が明朝に姿を見たいと願うと、翌朝大物主神は櫛笥の中に小蛇の姿で現れたが、百襲姫が驚き叫んだため大物主神は恥じて御諸山(三輪山)に登ってしまった。百襲姫がこれを後悔して腰を落とした際、箸が陰部を突いたため百襲姫は死んでしまい、大市に葬られた。時の人はこの墓を「箸墓」と呼び、昼は人が墓を作り、夜は神が作ったと伝え、また墓には大坂山(現・奈良県香芝市西部の丘陵)の石が築造のため運ばれたという。

 『古事記』では母母曽毘売(百襲姫)の事績に関する記載はない。同書では、三輪山の伝説は意富多々泥古(大田田根子)と活玉依毘売(活玉依媛)の説話として語られている。

 
 ●墓

 倭迹迹日百襲姫命の墓は、宮内庁により奈良県桜井市箸中にある大市墓(おおいちのはか)に治定されている。公式形式は前方後円。考古学名は「箸墓古墳(箸中山古墳)」。墳丘長278メートルで、全国第11位の規模を誇る前方後円墳である。

 前述のように『日本書紀』では百襲姫は「大市」に葬られ、人々はこれを「箸墓」と称したと記されている。墓は同書天武天皇元年(672年)7月23日条において「箸陵」とも見えるが、『延喜式』諸陵寮(諸陵式)では記載を欠いている。上記古墳を箸墓に比定する伝承は幕末まであり、慶応元年(1865年)4月には営築とともに長役・守戸の付置があった。また明治8年(1875年)に墓域が国有地として買収され、明治19年(1886年)に拝所・参道用地も買収、明治21年(1888年)に修営された。

 この箸墓古墳は、全国の古墳で最古級の3世紀中頃の築造と推定されており、邪馬台国畿内説の立場から、『魏志』倭人伝に見える「径百余歩」という卑弥呼の冢に比定する説がある(詳細は「箸墓古墳」を参照)。しかし『日本書紀』・『古事記』およびその原史料の『帝紀』・『旧辞』の編纂段階では、すでにヤマト王権の初期王陵とする伝承が失われ、新たな意味付けがなされている点が注目されている。その中で、王族の墓は大宝令以後に「陵」から「墓」と称されるようになった点、箸は7世紀以降から支配層で一般的に使用されるようになった点、および『播磨国風土記』揖保郡立野条において箸墓伝承と同様の説話が見える点などから、元々は土師氏の伝承であったのが新たに三輪山伝承に付加されたとする説があり、加えて「はしはか」の墓名も「土師墓(はじはか)」に由来すると指摘される。(wikipedia 倭迹迹日百襲姫命より)

 
 例の如く畿内説に於いての考察がwikipediaに書かれておりますが、
 上記のくだりに「箸が陰部を突いたため百襲姫は死んでしまい、大市に葬られた。時の人はこの墓を「箸墓」と呼び、昼は人が墓を作り、夜は神が作ったと伝え、また墓には大坂山の石が築造のため運ばれたという。」
 
 さて、阿波徳島説において、岩利大閑氏の著書「道は阿波よりはじまるその一」には次のように書かれています。
 「倭迹迹日百襲姫命、幼き時より阿讃系の水主として君臨、阿波連岳の水主神社(香川県三本松)に奉祀される倭神道の巫女。殯宮は伊加加志男命の地、市場町奈良坂の下にある箸供養。
 殯宮の時に、奈良坂より難波郷(香川県津田町)に通ずる大阪峠の石を運び塚を造営、箸の祟りを封じる箸供養の行事を盛大に挙行、それ以来この地の地名が箸供養となり現在に至っています。」
 
 徳島県阿波市市場町箸供養という珍しい地名が存在します。
 
 
 大市もこの「市場町」のことと思われ、市場町箸供養の北に「奈良坂」の地名も見えます。
 
 
 この阿波郡の市場は古代は、「奈良の大市」とも呼ばれておりました。
 
 
 更に北上し、讃岐山脈を越える峠のことを大阪峠といいます。
 
 大坂峠
 大坂峠(おおさかとうげ)は、徳島県鳴門市北灘町碁浦と香川県東かがわ市坂元の県境に位置する峠である。標高270m。大坂越ともいう。香川のみどり百選選定。
 
 ●地

 現在の徳島県道・香川県道1号徳島引田線は、古くから峠道の東の方を通り、鳴門市北灘町碁浦に属する山腹を経て東かがわ市へ入る。

阿波から讃岐へ越える道は讃岐山脈中に数多くあるが、東ではこの大坂峠、そして西では猪ノ鼻峠、ほぼ中央に清水越があった。

峠は瀬戸内海国立公園大坂峠園地となっている。徳島県板野町側にはあせび公園があり、園内には大坂峠展望台が設けられている。

なお、この峠は徳島県板野町と鳴門市の境界をなす「大坂越」と、徳島県鳴門市と香川県東かがわ市の県境をなす「大坂峠」の2つの峠からなる。総称してこの一帯を大坂峠または大坂越と呼ぶことがある。

 

 ●歴史

 律令時代から南海道の官道筋として、現在の板野町大寺に位置する郡頭を起点とする讃岐への道が大坂越であったと考えられている。

 源義経の峠越え1186年(文治2年)2月、「十七日の卯の刻に阿波の勝浦に着きけり」と「平家物語」に出ている源義経の率いる一軍は、翌18日(19日という説もある)にかけての深夜にこの大坂峠を越えたといわれ、同書巻11には、「その日は阿波の国板東、板西行き過ぎて、阿波と讃岐とのさかひなる大坂峠といふ所にうち下がって」とある。

 「源平盛衰記」によると、義経一行は、峠越えの直前に、現在の大寺にある金泉寺に夜遅く立ち寄った。その頃、近くの住民が観音講で馳走を並べていたが、義経一行の軍馬の音に驚いて逃げてしまった。義経らはその馳走を食べ、峠越えの腹ごしらえをしたという。

 義経軍勢は、ほぼ一日間で阿波の国の吉野川下流を駆け抜けて、讃岐山脈を越えたのであるが、この峠越えのほかにもその通過したと考えられている道が二か所ある。一つは、現在の美馬市脇町から高松市へ通ずる清水越(国道193号)、もう一つは、板野郡上板町から東かがわ市への大山越である。大山越の本県側には、大山寺があり義経に関する言い伝えが残っている。(wikipedia 大阪峠より抜粋)

 
 ◆大阪峠
 
 この大阪峠を抜け、讃岐山脈を越えた東かがわ市に倭迹々日百襲姫命を御祭神とする式内社 水主神社が鎮座致します。
 
 
 
 水主神社(香川県東かがわ市水主1418)
 
 
 
 
 ◆本殿
 
 
 ◆祭神 倭迹々日百襲姫命
 
 ◆創建 不詳
 
 ◆神紋 丸に「社」
 
 通称「社さん(やしろさん)」
 大水主大明神あるいは大内大明神と言われ、文武天皇(在位:697年-707年)・元明天皇(在位:707年-715年)の時代より「洛陽の坤の方なる讃岐の国に霊地あり、大水主御社と号す」と言われた。
 宝亀年間(770年-781年)の創祀とも伝わるが、これは再建の年であるという。
 土地の人は、ここを「大内」と呼び、昔日の大内郡の郡名、大内町の町名はここに起源となると言われている。
 ちなみに讃岐国一宮 田村神社の御祭神も倭迹々日百襲姫命である。
 
 神社の倭迹迹日百襲姫命の境内案内に、
 「御年七才より黒田を出、八才にて水主宮内に着き給う。成人まで住み給いて農業・水路・文化の興隆成し水徳自在の神と称へられ奈良時代にはすでに神社形成をなしていた。」とあります。

 

 社伝によると今から二千有余年前水主神社御祭神倭迹々日百襲姫命都皇居今の奈良県桜井市黒田幼き頃より神意を伺い、まじない、占い、智能のすぐれた御方と言われ都皇居に於いて塵に交なく人もなき皇居の黒田を出られお船(うつぼ船)に乗りまして西へ西へと波のまにまに播磨灘今の東かがわ市引田安堵の浦に着き水清き所を求めて今の水主の里宮内にお着きになり住われ(ここを大内と言う)土人に弥生米をあたえて米作り又水路を開き雨祈で雨を降せ文化の興隆をなされた御人といわれる。

 
 
 ◆うつぼ船
 
 
 こ、この石(の船)に乗ってこの山の上まで来たということなのか…(´・ω・`)??
 
 この社伝も昔から「奈良県桜井市黒田から来た」とは書いていなかったはずで、奈良県は「大和(大倭)」=「やまと」から来たと伝わったはずです。
 この「大和」と「倭」が現代までも混同され続けていることが原因で、意味不明なことになっているのですが、「倭」とは以前からご紹介しております阿波国のことであり、阿波から来たと書けば、関連する痕跡と辻褄が合いすんなりと理解ができると思います。
 
 この倭迹々日百襲姫命に関しましてはまた別の機会に考察したいと思っています。※検証材料が多過ぎる(;´▽`A``
 
 この倭迹々日百襲姫命、日子刺肩別命の弟に、彦五十狭芹彦命(吉備津彦命)がいます。
 

 吉備津彦命(きびつひこのみこと)は、記紀等に伝わる古代日本の皇族。

第7代孝霊天皇皇子である。四道将軍の1人で、西道に派遣されたという。

 

 『日本書紀』『古事記』とも、「キビツヒコ」は亦の名とし、本来の名は「ヒコイサセリヒコ」とする。それぞれ表記は次の通り。

 『日本書紀』

 本の名:彦五十狭芹彦命(ひこいさせりひこのみこと)

 亦の名:吉備津彦命(きびつひこのみこと)

 『古事記』

 本の名:比古伊佐勢理毘古命(ひこいさせりひこのみこと)

 亦の名:大吉備津日子命(おおきびつひこのみこと)

 そのほか、文献では「キビツヒコ」を「吉備都彦」とする表記も見られる。

 
 ●記録

 『日本書紀』崇神天皇10年9月9日条では、吉備津彦を西道に派遣するとあり、同書では北陸に派遣される大彦命、東海に派遣される武渟川別、丹波に派遣される丹波道主命とともに「四道将軍」と総称されている。

 同書崇神天皇9月27日条によると、派遣に際して武埴安彦命とその妻の吾田媛の謀反が起こったため、五十狭芹彦命(吉備津彦命)が吾田媛を、大彦命と彦国葺が武埴安彦命を討った。その後、四道将軍らは崇神天皇10年10月22日に出発し、崇神天皇11年4月28日に平定を報告したという。

 また同書崇神天皇60年7月14日条によると、天皇の命により吉備津彦と武渟川別とは出雲振根を誅殺している。

 『古事記』では『日本書紀』と異なり、孝霊天皇の時に弟の若日子建吉備津彦命(稚武彦命)とともに派遣されたとし、針間(播磨)の氷河之前(比定地未詳)に忌瓮(いわいべ)をすえ、針間を道の口として吉備国平定を果たしたという。崇神天皇段では派遣の説話はない。

 

 ●墓・霊廟

 吉備津彦命の墓は、宮内庁により岡山県岡山市北区吉備津にある大吉備津彦命墓(おおきびつひこのみことのはか、に治定されている。公式形式は前方後円。考古学名は「中山茶臼山古墳」で、吉備の中山の山上に位置する墳丘長108メートルの前方後円墳である。

 また、吉備の中山の麓の吉備津神社(岡山県岡山市、備中国一宮)は、国史にも見える吉備津彦命の霊廟として知られる。同社の国史での初見は『続日本後紀』承和14年(847年)10月22日条で、「吉備津彦命神」に対して従四位下の神階が授けられたというが、のちに神階は位階(○位)から品位(○品)へと変わり、貞観元年(859年)1月27日に二品まで昇っている。品位(一般には親王に対する位)を神階に使用する例は少なく、全国でも吉備津彦命のほか八幡神・八幡比咩神(大分県宇佐市の宇佐神宮)、伊佐奈岐命(兵庫県淡路市の伊弉諾神宮)の4神のみで、吉備津彦命と一般諸神との神格の違いが指摘される。この吉備津神社社伝では、吉備津彦命は吉備の中山の麓に茅葺宮を建てて住み、281歳で亡くなり山頂に葬られたという。

 以上の吉備津神社の存在から、吉備津彦命が古くは「吉備政権」構成諸部族から始祖に位置づけられたとする説もある。また吉備の中山の北東麓では、同じく吉備津彦命を祀る吉備津彦神社(岡山県岡山市、備前国一宮)が知られる。

(wikipedia 吉備津彦命より抜粋)

 
 吉備津彦命についても数々の伝承が残されており、その中でも有名な昔話に桃太郎の鬼退治のお話があるのですが、この吉備津彦命も讃岐国一宮の式内社 田村神社で祭祀されております。
 
 田村神社(香川県高松市一宮町字宮東286番地)
 
 

 田村神社(たむらじんじゃ)は、香川県高松市一宮町にある神社。式内社(名神大社)、讃岐国一宮。旧社格は国幣中社で、現在は神社本庁の別表神社。

別称として「田村大社」「一宮神社」「定水(さだみず)大明神」「一宮大明神」「田村大明神」とも。

 
 ◆祭神 倭迹迹日百襲姫命

     五十狭芹彦命 別名を吉備津彦命

     猿田彦大神

     天隠山命 別名を高倉下命

     天五田根命 別名を天村雲命

 

 田村大神について、中世の書物では猿田彦大神や五十狭芹彦命を指すとされ、近世には神櫛別命・宇治比売命・田村比売命・田村命など様々で一定していない。社殿創建前は井戸の上に神が祀られていたという社伝から、元々は当地の水神(龍神)であったとする説もある。

 

 ◆創建 社伝によれば、古くは「定水井(さだみずのい)」という井戸にいかだを浮かべて、その上に神を祀っていたという。その後、和銅2年(709年)に行基によって社殿が設けられたのが創建とする。この「定水井」は現在も奥殿の下にある。

 なお、当初は義淵僧正によって大宝年間(701年-704年)に開基された一宮寺と同一視(建物も同じ)されていた。

 

 ◆概史 朝廷の当社に対する信仰は篤く、平安時代には度々神階の授与が行われている。また延長5年(927年)の『延喜式神名帳』では「讃岐国香川郡 田村神社」と記載され名神大社に列したほか、讃岐国一宮として信仰された。建仁元年(1201年)には正一位の昇叙があったとされ、弘安7年(1284年)7月日の銘を有する「正一位田村大明神」の扁額が残っている。

また武家からも崇敬・統制を受け、長禄4年(1460年)には細川勝元により、社殿造営や寄進のほか「讃岐国一宮田村大社壁書」(高松市指定文化財)が定められた。これは当社の関係者に対し、守るべき事項を26箇条で記したものである。

天正年間(1573年-1592年)には兵火により一切経蔵を焼失したが、仙石秀久から社領100石を寄進された。その後も社領の寄進を受け、藩主が松平大膳家に代わったのちも祈願所として崇敬された。(wikipedia 田村神社(高松市)より抜粋)

 

 平安期に神階が度々上がるなど、当時の崇敬厚く正一位の一宮として格別の信仰があったようです。
 
 ここまでほぼwikipediaをずるずるべったり並べたような記事になってはおりますが、
 
 孝霊天皇の妃である絙某姉(倭国香媛)・絙某弟姉妹の皇子女の祭祀されている神社や臣の祖などからその痕跡が、
 
 絙某姉の皇子女:阿波→阿讃→吉備
 絙某弟の皇子:吉備針間
 
 となり、式内社を辿って行くと、阿波から讃岐そしてついには四国を脱出し、後に吉備へと範囲を広げ、本州にも進出していったであろう痕跡が伺えるのです。
 
 ◆孝霊天皇の皇子女の配置
 

 

 ただし、吉備津彦命が四道将軍として西道に派遣されたのは、『日本書紀』第10代崇神天皇10年9月9日であり、これに書されたものが通説の「吉備」地方であるかは諸氏の考察の別れるところです。

 私説では第7代孝霊天皇の時代にはまだ岡山県方面に「吉備」という地名は無く、後世に阿波国にあった牛岐地方(岐比津)の地名を古地を偲び後裔と共に配したのではと考えています。(孝霊天皇の時代にはまだ勢力が阿讃域に留まったであろう痕跡が強いため)

 

 以前ご紹介しました孝霊天皇の祖父である孝昭天皇(御真津日子訶恵志泥命)を祀る式内社も、全国で唯一、徳島県名東郡佐那河内村に鎮座する 御間都比古神社のみであることからも、この時代の天皇が中心に置いた拠点(宮)が徳島県であったと考えた方が全く以て自然なのです。

 
 次に孝霊天皇陵の考察ですが、「紀」片丘馬坂、「記」片岡馬坂上、兆域は東西5町・南北5町、守戸5烟でここでもやはり遠陵となっております。
 
 ◆現治定地である奈良県北葛城郡王寺町本町3丁目にある孝霊天皇陵
 
 
 地図上で兆域を囲うとおおよそ上記のようになりますが、陵域内に何故か学校や民家がたくさんありますね(´・ω・`)
 天皇の墓の上に庶民が家を建てたのでしょうか。。。
 
 なお、前回、孝霊天皇から考察 ①に書きました孝霊天皇を祀っていた黒田の芝原八幡神社なのですが、この神社はお祭りのために、村民交代で馬を飼い、祭りの当日神社前の坂道で以乃川(吉野川)までの競馬を行うのが習わしとしておりました。
 戦後、馬が絶えてより、今日までこの行事を行えていないようです。
 
 
 更にwikipediaにある孝霊天皇の皇子である、日子刺肩別命のところに記されている「高志之利波臣・豊国之国前臣・五百原君・角鹿海直の祖(記)」の「高志」は「黒田」から川を挟んで北西にある和名類聚抄に載る「高足郷」のことでなないかと思われます。
 
 
 ◆高足國=高志國の記述
 
 
  黒田、高志、祭祀神社、習わし等から考察しますと、孝霊天皇の陵も考察地より程遠くない場所にあったのではないかと思われます。※結局はわからない(ノ∀`)ゴメンネー
 
 上の図に記すと、右下には眉山(私説では畝傍山に比定)がありますので、鮎喰川を挟んで西側に陵があったのではないかと推測しております。 ※はっきりとはわからない(。-人-。)
 残念ながら、現在のところ、この周辺に「片岡」に繋がる痕跡は確認できておりません。
 
 ただし、この辺は古墳や遺跡の密集地となっているフィールドとなります。
 
 ◆鮎喰川西部域の古墳・遺跡図
 
 
 よく他県の方から「徳島県は古墳や遺跡が少ない!邪馬台国などあるはずがない。」等と勝手なことをいわれますが、実際はめちゃくちゃ数が多くて調査・検証がほぼできていないのが現状なのです。(矢野古墳群だけでも200基相当ある)
 また、情報化社会である現代においても、徳島県の情報が極端に少なく、インターネットなどで調べることが殆どできません。(要は載せられていない)
 これは徳島県が我が国の古代のルーツに関わる重要なポイントであるにも関わらず、諸学者等から放置されてきた弊害と考えられます。
 今も現在進行形でもありますが。(邪馬台国論争においては、未だに畿内・北九州で互いに譲らず執着しているため)
 
 ただし延喜式陵墓にある兆域は馬鹿でかいので、これに相当する古墳が現代でも残っているのかは謎です。