①からの続きです。
『古事記』に第16代仁徳天皇の有名な歌に「淡島」のある場所に繋がる記述を見つけることができます。
●原文 (仁徳天皇が淡路島に坐して本国を見て詠まれた歌)
「於是天皇 戀其黒日賣 欺大后曰「欲見淡道嶋而」 幸行之時 坐淡道嶋 遙望歌曰、『淤志弖流夜(おしてるや)、那爾波能佐岐用(なにはのさきよ)、伊傳多知弖(いでたちて)、和賀久邇美禮婆(わがくにみれば)、阿波志摩(あはしま)、淤能碁呂志摩(おのごろしま)、阿遲摩佐能(あじまさの)、志麻母美由(しまもみゆ)、佐氣都志摩美由(さけつしまみゆ)』乃自其嶋傳而幸行吉備國。」(岩波文庫『古事記』1963年、158頁)
●読下文
「おしてるや 難波の崎よ 出で立ちて 我国見れば 淡島 自凝島 檳榔の島見ゆ さけつ島見ゆ」 すなわちその島より傳いて、吉備國に幸行(い)でる。
吉備海部直の娘の黒日賣は、容姿端麗なために仁徳天皇が召し使っていましたが、大后である石之日売(葛城磐之媛)の嫉妬を恐れて吉備に帰郷することになります。
天皇が高台から去りゆく黒日賣の船を望見して歌を詠んだところ、大后は怒り、黒日賣を大浦にて下船させ、徒歩で帰らせました。
のちに天皇は大后を欺いて淡路島から島伝いに吉備へ行幸しました。
通説では、仁徳天皇の歌に現れる難波は摂津国にある難波、吉備はもちろん岡山県、淡島はwikipedia淡島神社の項にもあった神島(淡島)のこととします。
しかしこれだと「島より傳いて、吉備國に幸行(い)でる」ことができ、「本国」(大阪府方面)を見ることができる場所は淡路島からは東側に向かって謳われた歌となり、見ている方角と実際向かう方角が逆で辻褄が合いません。
しかも淡路島の南側にある沼島が通説の自凝島であり、沖ノ島、友ヶ島(の中の神島=淡島)、地島等がそれぞれ檳榔の島とさけつ島の何れかに対応しているすると、これらを見ながら無理矢理本国側を見ようとすれば、南淡の端から東を見た上で、摂津難波に戻って本州を島伝いに西方向播磨・吉備方面にU字で向かうという何とも不自然なルートとなってしまうのです。
また、北淡側からそれぞれに対応する島々を見たとすれば、「本国」がある方向は自ずと南方となってしまい、即ち本国が「阿波」か「紀伊」を指すことになってしまいます。
ちなみに神島(淡島)はコレ
チョット画面を退いたら米粒サイズに…(´・ω・`)
では一体仁徳天皇は淡路島のどの辺りでこの歌を詠んだのでしょうか
そしてそれはどの方角の景色を見ていたのでしょうか
答えは阿波徳島説なら解くことができます
まず、黒日賣を下した「大浦」とは徳島県鳴門市北灘町大浦のこと。
その右隣に葛城神社、南に天円山を挟んで麓にも二社葛城神社が鎮座します。
当地、「葛城」から因むのが、仁徳天皇の皇后である葛城磐之媛でしょう。
「磐」も元の意味は「伊和」であった可能性大です。(意味深)
天円山は知る人ぞ知る、現在日本最古の前方後円墳とされるホケノ山古墳の原型と説ある萩原墳墓群があるところです。
そこから更に南方に進んで行くと、往古の阿波「岐比津」(牛岐地方)へと到達します。
その南隣からは、那賀郡より別れた「海部」郡となります。
吉備海部直の娘の黒日賣もこの周辺がルーツであるといえそうです。
つまり黒日賣が帰郷したとされる「吉備」は岐比津がある阿南市牛岐周辺であり、仁徳天皇が歌を詠んだ方向は、淡路島から「本国」のある南側の阿波国を見ていたのです。
そもそも「難波」から船を出し、黒日賣を途中で下して「吉備」へ帰らせるとしたら、通説で説明すると摂津から播磨辺りの間、現在の明石市より東側しか該当しませんので、その方角には歌に出てくるような島々はどこにも見当たりません。
◆通説解釈
しかし、このままでは阿波徳島説でも淡路島から南方を見たとした時に、歌に出てくる島々が見えなければならないのですが、現在の地図ではそれがよくわかりません。
そこでいつも使っている便利なサイト、Flood Mapsで往古時代を再現してみると…
アンビリーバボー
海側の土地が埋没し、何と島々が浮き上がって参りました
改めて謳われた歌を見直してみますと、
「おしてるや 難波の崎よ 出で立ちて 我国見れば 淡島 自凝島 檳榔の島見ゆ さけつ島見ゆ」 すなわちその島より傳いて、吉備國に幸行(い)でる。
ここに出てくる「難波」とは摂津国難波ではなく、讃岐国(香川県)に存在した旧「難波郷」のこと。
こちらも便利サイト、地図からみつける-千年村プロジェクト を使って探せます。
また、父、応神天皇の妃に弟姫命がいますが、その娘に淡路御原皇女(あわじのみはらのひめみこ、阿具知能三腹郎女)がいます。
仁徳天皇からすれば異母妹になりますが、この「あわじのみはら」は例によって地名から取られており、現在の淡路市三原として存在が確認できます。
旧三原郡は、淡路島の南側。
恐らく仁徳天皇が淡路島へ行幸されるのは、この妹のもとを訪れるためであると考えられます。
そして淡路島の山上(おそらく三原郡のあった南淡側)から坐して「本国」を遠望し、その景色を詠んだ歌なのですから、下図のようなイメージになります。
次にそこから見えた島々なのですが、一番遠くにある黒日賣の故郷である吉備津方面に見える「淡島」から順に手前に眺望された様を謳われたのだと推測できます。
◆淡島、自凝島
「淡島」は先述の通り、次に見える「自凝島」は現在の日峰、ここも昔は島。
◆檳榔の島
檳榔の島は恐らく現在の徳島市津田町の津田山。この地も往古は海に浮かぶ島。
檳榔とは、
ビンロウ(檳榔、学名:Areca catechu)は、太平洋・アジアおよび東アフリカの一部で見られるヤシ科の植物。(wikipedia ビンロウより抜粋)
◆檳榔の実
今は人が住むようになり、山の半分が民家で覆われていますが、津田山はこの檳榔の実の形状に類似していることがお解り頂けると思います。
◆さけつ島
最後に見えた一番近い島となる島は現在の「大毛島」、「島田島」ですが、ご覧のように真っ二つに真ん中から裂けたよう形状の島になっています。
地図で再現するとこんなj感じ
今の地図に置き換えると位置はココ
現在は陸地の山々なのですから、どおりで見つからない訳です。
しかし阿波徳島説に置き換えれば、これら全てがピッタリと当て嵌まり謎が解けていくのです。
国生みの「水蛭子」「淡島」からの考察でしたが、『古事記』のこの話は、どのように「国」をつくっていったのかを当時の発想で表現したもの。
『古事記』国生みにおいて冒頭の文にある
「天の沼矛を降して掻きまわした。 潮をころころとかき鳴らして矛を引き上げた」
水に棒を入れかき混ぜればそこに何ができますか
なぜわざわざこのような表現をここで使ったのでしょうか
これですよね(´・ω・`)
そして、
「その矛の先よりしたたり落ちた潮水が積もり積もって島となった。これが淤能碁呂島(オノゴロ)である。」
つまり、徳島県徳島市にある「日峰」(ひのみね)から建国が始ったとする話なのです。
このように「記」では、様々な仕掛けを施してわざわざ阿波徳島を意図的に隠そうとしています。
つまり『古事記』は、我が国の本当のルーツである「阿波」を隠すために書かれた神話仕立ての歴史書なのです。