またしてもだいぶブログの更新が途絶えておりましたが、生きておりますのでご安心ください(・∀・)
ということで今回は、表題にもありますように、『記紀』にある天照大御神は一体いつの時代の神(人物)であったのかについて考察して参りたいと思います。
本稿は阿波・徳島説となる私説となりますのでご注意下さい。
まず、一般的に『記紀』は日本の歴史書であり、これを神話形式で記しておりますから、実際にはその時代がいつの頃なのかハッキリとはわかっていません。
「神話は神話や、遥か大昔に決まっとる。」けど、実は本当の歴史を記しているのであれば一体どの時代なんだろう。『記紀』に興味がある方であれば誰しもそう考えますよね。
例としまして、現代においても、天照大御神の子孫である初代神武天皇が初めて天皇として即位したとされるのが紀元前660年と考えられていますよネ。
ということは天照大御神の居た時代は更に古い時代であった…と考えるのが当たり前だと思います。
更に深掘っていきますと、卑弥呼=天照大御神説もあり、その卑弥呼も第7代天皇孝霊天皇の娘である倭迹迹日百襲姫命説や第14代仲哀天皇の妃である神功皇后説等など、候補を挙げると枚挙に遑がありません。
要は何もわかっていないのが現状ですな。
今回はそこにあえてメスを入れて参りますぜ。
『日本書紀』巻第一神代上によりますと、
「乃相與遘合而生兒大己貴神。因勅之曰「吾兒宮首者、卽脚摩乳・手摩乳也。」故、賜號於二神曰稻田宮主神。已而素戔鳴尊、遂就於根國矣。」
「そこで素戔嗚尊と奇稲田姫は夫婦の交りをされて、子の大己貴神を生んだ。そして詔をして、「我が子の宮の首長は、脚摩乳・手摩乳である」と言われた。故にこのニ柱の神に名を賜わって、稲田宮主神という。まもなく素戔鳴尊は、遂に根の国に就きました。」
スサノオは出雲の清地(スガ)の地で宮を立てて結婚生活を送り、そこで生まれた子どもが大己貴神(後の大国主神)であると記します。
その後、スサノオはその宮でずっと住んでいた訳ではなく、その後に「遂就於根國矣」「遂に根の国に就きました。」と書かれてあります。
ついに【終に、遂に、竟に】長い時間ののちにある状態に達するさま。ようやく。やっと。(wikipediaより)
この「遂に」は、当初スサノオは父イザナギより海を治めよとの使命を果たせずにいたので、クシナダヒメとの結婚後、その任務に「遂に(ようやく)」就いたということでしょう。
その場所が、スサノオが「妣(はは)の国」と言っていた”根國”なのです。
そういえばスサノオは、根國へ行くといいつつも、物語上では先に姉の天照大御神に会いに行きましたしね。
話は進み、子の大己貴命の説話に『古事記』『稻羽之素菟』(因幡の白兎)のお話があります。
皆よく知るお話なので内容の詳細については割愛いたしますが、意地悪な兄弟神(八十神)と心優しい末っ子大己貴命との間で描かれる稲羽の美女八上比賣をめぐる結婚争奪戦のお話で、結果的に八上比賣は大己貴命と結ばれました。
その結果、八十神は怒り、伯耆の国の手間山の麓から、ありとあらゆる手を使って大己貴命を殺そうと画策します。
てか、あっさりと大己貴命は死にました笑
…が、神産巣日之命の手助けがあり、直ぐに、𧏛貝比売(きさぎひめ)と蛤貝比売(うみぎひめ)を遣わし生き返らせることに成功神はすごい
ここでのキーポイントは、神産巣日之命は大己貴命の味方側の立場で描かれており、助けに遣わした比売神達はみな「海」に因む神名なんですな
話を進めて参りますと、
怒りがおさまらない八十神は、執拗に大己貴命を殺しにかかります。
ところが、愚直な大己貴命はまたしても八十神の術中に嵌り、山に連れて行かれて拷(たた)き殺されてしまいます。二度目の死
なんやかんやあって再復活した大己貴命ですが、今度は完全に滅されそうになる大ピンチに、またしてもお助けマンの登場
原文では、
「乃 違 遣於木國之大屋毘古神之御所」
「そこで逃れさせ、木の国の大屋毘古神のいらっしゃる所に行かせました。」
大屋毘古神:五十猛神の別名。
日本神話に登場する神。イザナギ・イザナミの子であるスサノオの子で、オオヤツヒメ・ツマツヒメ(大屋津姫命、枛津姫命)は妹。また、イザナギ・イザナミの子大屋毘古神(禍津日神と同一神とされる)とは別神であるが、同一神とされることもある。(wikipedia 五十猛神より抜粋)
そうなんです。
スサノオの子である大屋毘古神(五十猛神)が匿ってくれたんですな。
つまり助けてくれている側の神はスサノオサイドということなんです。
更に止めを刺そうと執拗に追ってくる八十神を見て、神産巣日之命は、
「自木俣漏逃而 云 可參向須佐能男命所坐之根堅州國 必其大神議也。」
「木の股を潜り抜けて逃げ、御母の命はこうおっしゃいました。「須佐能男命がましますところの根堅州国に向かい、 必ずその大神に相談すべきです。」」
はい、ここで一端の伏線が回収できました笑
冒頭に記してありますように、スサノオはクシナダヒメと結婚後、『日本書紀』では根國、『古事記』では根堅州國へ移動し、そこに滞在しているので、神産巣日之命はそこ(根國)に居るスサノオを頼りなさいと言ってるんですな。
そして、
「故隨詔命而 參到須佐之男命之御所者」
「そして、(御母の命の)仰せに従い、須佐之男命の御所に伺ったところ」
「其女須勢理毘賣出見 爲目合而 相婚還入 白其父言 甚麗神來 爾 其大神出見而 告此者謂 之葦原色許男」
「その息女、須勢理毘売が出てきて、一目でお互いを気に入り結婚し、家の中に戻り、その父に「とても麗しい神が来ましたわ。」と申し上げました。ところが、その大神は見に出て、この男にこう仰いました。「お前は、葦原色許男(あしはらしこを)ではないか。」」
この件でスサノオのもとを訪れることに成功した(逃げ延びて来た)大己貴命は、なんとスサノオの娘のスセリビメと会うなり秒で結婚エェーッ
須勢理毘売 登場
ということは、スサノオは根國で娘のスセリビメと一緒に過ごしていたことがわかります。
そこに大己貴命が逃げ込んで来たはずが、スセリビメが大己貴命に惚れこんでしまったために、素直に結婚を認めることができない父スサノオは、大己貴命に様々な試練(蛇の部屋・蜂&ムカデの部屋・野原に鏑矢で火を放つ等)を与えます。
大己貴命は、スセリビメやネズミの助けを受けながら、全ての試練を見事に完クリしたのでした。
妻スセリビメを得た大己貴命は、今度はスサノオの元を離れる際に、
「故爾追至黃泉比良坂、遙望、呼謂大穴牟遲神曰「其汝所持之生大刀・生弓矢以而、汝庶兄弟者、追伏坂之御尾、亦追撥河之瀬而、意禮二字以音爲大國主神、亦爲宇都志國玉神而、其我之女須世理毘賣、爲嫡妻而、於宇迦能山三字以音之山本、於底津石根、宮柱布刀斯理此四字以音、於高天原、氷椽多迦斯理此四字以音而居。是奴也。」故、持其大刀・弓、追避其八十神之時、毎坂御尾追伏、毎河瀬追撥、始作國也。」
「そこで須佐之男は、黄泉比良坂まで追いかけて来て、遥か遠くに大穴牟遅の姿を望み見て、大声で呼びかけた。「お前が持っているその生大刀、生弓矢で、お前の腹違いの兄弟を坂のすそに追い伏せ、また川の瀬に追い払って、貴様が大国主神となり、また、現国泰神となって、私の娘の須勢理毘売を正妻として、宇迦の山の麓に、太い宮柱を深く掘り立て、空高く千木をそびやかした宮殿に住め。こやつよ」と言った。そこでその大刀や弓でもって、兄弟の八十神を追い退けるとき、坂のすそごとに追い伏せ、川の瀬ごとに追い払って、国作りを始められた。」
※イザナギが根國から帰還する際に、イザナミの追っ手から逃れて来た境にあったのが黄泉比良坂でしたが、大己貴命の説話にも同様に、この項でも根國との境には黄泉比良坂があることが確認できます。
そういえば余談ですが、当地にも「海部町史」には、
「宮柱を太敷たて神として祀った大宮」が御座いますね笑
話を戻しまして、スサノオは大己貴命に、スセリビメを正妻とし、今度は「宇迦の山の麓に宮殿を建てて住む」際に、大国主神を名乗って国作りを始めなさいといっておるんですな。
そして最後に、先に結婚した八上比売の話に触れ、
「故、其八上比賣者、如先期、美刀阿多波志都。此七字以音。故、其八上比賣者、雖率來、畏其嫡妻須世理毘賣而、其所生子者、刺挾木俣而返、故名其子云木俣神、亦名謂御井神也。」
「八上比売は、先の約束どおり、大国主神と結婚された。そして八上比売を連れて来たのだが、本妻である須勢理毘売を恐れて、その生んだ子は木の股に挿し挟んで(稲羽へ)帰った。それでその子を名づけて木俣神、またの名を御井神という。」
従って、大己貴命の最初の妻となった八上比売は、長男の木俣神を置いて大己貴命のもとを去っていったということになります。
言い換えますと木股神は母に捨てられた子ということになるんですな。
その後のお話は大国主となった大己貴命による葦原中国の平定、そして国譲りへと繋がって行きます。
さて、ここまで記しまして、実は阿波にはこれら物語にピッタリ当て嵌まる地域が1か所だけ存在します。
その場所は徳島県海部郡海陽町野江。
上にも書いてありますように、大己貴命は木の俣を潜って根堅州国へやって来たとありますが、当地域の野江浪切不動尊では、
weblio辞書の解説によりますと、
…といった伝承があり、崖を支えるように伸びている二本に分かれた灯明杉と呼ばれる杉は、好い心を持った人でないと木の股を潜れないことになっているんですな(´・ω・`)その先は崖ですがね
こちらがその灯明「杉」
そして、この野江浪切不動尊の目の前には妣(はは)の国ならぬ「母川」が流れており、その程近くに、史跡寺山古墳群の名が見えます。
地図では古墳となっておりますが学術的な定義上では墳丘墓の扱い。
「海部町史」によると、寺山という地域の小山に神社とセットであったことがわかっております。
その中の寺山3号墳は、3世紀初頭(弥生期終末期)の墳丘墓とみられることが新聞記事で確認できますね。
つまり邪馬台国の女王卑弥呼の生きていた時代のものとドンピシャで一致する訳なんですな
そして図に見えますように、墳丘墓と一緒に見える鳥居のマークは、当然のことながらそこに神社があったことを示しておりまして、阿波の古~い神社は必ず古墳とセットがデフォ(定番)。
つまりそこにお祀りされている御祭神の眠る社なんです。
で、この神社についてですが、現在地の場所はココ
新居神社(にいじんじゃ 別名:新居大明神)海部郡海陽町芝字山下
◆祭神 御井神
◆由緒・創建 不詳
「海部町史」によりますと、
芝の森の新居神社は、もと野江の寺山の北のニイクボの泉の傍らにあった祠を三が村の境を接した現在の地に遷して氏宮としたといわれ、阿波志に、「新居祠 芝村に在り。古鏡一枚を蔵す。慶長十一年(1606年)益田甚蕃允改造す。」とあり、棟札には「明和七庚寅年(1770年)十月」とあり、恐らく高園・野江・芝の三が村の氏神として古く創建されていた祠を益田氏が祈願所として社殿を重造したものであろう。
…と記録されており、新居神社は現在の高園・野江・芝の三が村の氏神として、お祀りされております。
これまでのお話をまとめますと、
●当地には木の股を潜る伝承が残されていること。
●当地には大己貴命と八上比売の間に授かった長男の木俣伸(御井神)が御神陵と共にお祀りされていること。
●当地には妣(はは)の国に比定できる母川が流れていること。
他にも、この地が根國に比定できるエビデンスとして、
黄泉比良坂(よもつひらさか)とは日本神話において、生者の住む現世と死者の住む他界(黄泉)との境目にあるとされる坂、または境界場所。
●概要:『古事記』では上巻に2度登場し、出雲国の伊賦夜坂(いふやさか)がその地であるとする伝承がある。「ひら」は「崖」を意味するとされる。(wikipedia 黄泉比良坂より抜粋)
●当地浪切不動尊は崖になっている。
また、根国の境にある黄泉比良坂には、
『古事記』伊邪那岐命と伊邪那美命の段に、
「最後、其妹伊邪那美命、身自追來焉。爾千引石引塞其黃泉比良坂、其石置中、各對立而、度事戸之時、」
「最後には、女神である伊邪那美自身が追いかけて来た。そこで伊邪那岐は、巨大な千引の岩をその黄泉比良坂に引き据えて、その岩を間に挟んで二神が向き合って、夫婦離別の言葉を交わした。」
…と、根國との境にある黄泉比良坂には「千引の岩」が存在しますが、野江浪切不動尊のすぐ隣には、
●千引石(千人の力でようやく引けるくらいの大きな岩)に比定できる、町の文化財である轟の漣痕があること。
また、この崖を超えた先に、震潮記にも記載がある旧橘村(居敷越と馬路越の丁度間)が存在致します。
●イザナギが禊をしたと考える小さな港になっている「たちばな」の存在が確認できること。
当地が「根堅州国」であったと考えられる考察はこちらも併せてご覧下さいませ m(_ _)m 「「天孫降臨の地は根の国か」の考察」」
そして本題となる「天照大御神の生きた時代はいつだったのか」についてですが、阿波国一宮である天石門別八倉比売神社
御祭神は、大日靈女命(おおひるめのみこと)つまり天照大神の別名である。
当社も阿波式ではおなじみの神社と御神陵がセットになっており、社殿は前方後円墳の前部分にあり、後にあたる円墳部分が奥の院となっています。
ここからはぐーたら気延日記様のブログ「天石門別八倉比賣大神御本記」より重要な個所を抜粋掲載させて頂きます。
詳しく知りたいお方は上のリンク先にてご覧下さいませ m(_ _)m
①「大地主(おおつちぬし)と木股神に言われた。わたしはどこに住むべきであろうか。」
②「すぐに気延の嶺の下津磐根(しもついわね)に宮柱と太敷を立て、高天原にいた様子を装い、天上のように祀り鎮座する。」
③「大神は前に天より持ってきた瑞の赤珠(みつのあかたま)の印璽(しるし)を、杉の小山の嶺に深く埋めて、天の赭(あかつち)で覆い納めた。赭(あかつち)の印璽と言って秘し崇めたてまつったのはこれである。その印璽(みしるし)を埋めた所を印璽の嶺という。」
そして、当社説明文には、「天石門別八倉比売神社」
「当八倉比賣大神御本記の古文書は、天照大神の葬儀執行の詳細な記録で、道案内の先導伊魔離神、葬儀委員長大地主神、木股神、松熊二神、神衣を縫った広浜神が記され、八百萬神のカグラは、「嘘楽」と表記、葬儀であることを示している。」
…等と記載されておりますね。因みに大地主神は大国主神の別名です。
ということは、天照大御神が神去なさった時に、大国主神と木股神は生きていた。ということになりますよね。
同時代に生きた「木股神」の神陵と考えられる寺山墳丘墓の推定時代は3世紀初頭。
「天石門別八倉比賣大神御本記」に記録されてあるのは天照大御神の葬儀のお話で、しかも宮を移動してご鎮座されたそこに、ご神体と瑞の赤珠(みつのあかたま)の印璽が眠っている。
ということは、これまでに誰も証明ができなかったこの徳島県の記録や伝承、考古的痕跡や『記紀』の内容とも擦り合わせた数々の根拠からこれらを全て線に繋げた場合、最も有力的な考えとして、ズバリ天照大御神は『魏志倭人伝』に記録されている卑〇呼ということになりませんか
さてさて、お話を根國の方に戻しまして、野江浪切不動尊は入口入ってすぐ左側に、
水子供養のお地蔵様が立っておりますね(´・ω・`)
水の虫(蛇)に至る子と書いて水蛭子=蛭子(エビス)を供養していると考えると...
目の前の寺山にあった墳丘墓が意味するものは、実は邪馬台国の女王卑弥呼を特定する上で(個人的に)非常~に重要な意味があると考えますぜ。
因みに日本三祇園と称される同町にご鎮座される宍喰八坂神社。
その傍らにある大歳神社の中は、
大己貴命の試練にあったムカデが描かれておりますぜおーこわいこわい...