◆八咫烏(やたがらす)

 

 「『先代旧事本紀』から考察 ②」からの(一応の)続きとなりますが、これまでの私説考察では、この阿波海部が、天孫ニニギが降臨した地であり、また別考察にて、イザナミの眠るとされる根国であることの痕跡を記してきました。

 

 今回は更にこれらを補足する材料として、また前稿に引き続き、饒速日尊の天孫降臨に従った天香語山命から、降臨後は神武天皇を手助けした高倉下命が、後に高志を平定するまでの痕跡について探っていこうかと思います。

 ポイントとして、何故天孫は海部に降臨したのか?を考える上で、一考する材料にできればと思います。チョットいろいろ情報量が多めですがご勘弁を…(;´▽`A``

 

 本稿は阿波・徳島説となる私説となりますのでご注意下さい。

 

 『古事記』大国主命の段に、木国の大屋毘古神を頼った後に、

 

 「可參向須佐能男命所坐之根堅州國、必其大神議也。」

 須佐之男命の居る根の堅州国に行きなさい。 きっとその神がよい考えを持っているでしょう。」 と言いました。」

 

 『古事記』の須佐之男命の説話では、確か母イザナミが眠る「妣の国 根の堅州国」に行きたいと泣き喚き、父イザナギに懇願し許可を得た(もしくは追放された)ことから始まります。

 上にありますように、後の大己貴命の話に登場する須佐之男命は、当初の目的通りきちんと根の堅州国に住んでいたことがわかります。

 その須佐之男命のもとに身を隠そうとした大己貴命も後に、

 

 「故爾追至黃泉比良坂、遙望、呼謂大穴牟遲神曰「其汝所持之生大刀・生弓矢以而、汝庶兄弟者、追伏坂之御尾、亦追撥河之瀬而、意禮二字以音爲大國主神、亦爲宇都志國玉神而、其我之女須世理毘賣、爲嫡妻而、於宇迦能山三字以音之山本、於底津石根、宮柱布刀斯理此四字以音於高天原、氷椽多迦斯理四字以音而居。是奴也。」

 

 須佐之男命は黄泉比良坂まで追って来て、遥か遠くに居る大穴牟遅神を呼んで言いました。「お前が持ってる生大刀・生弓矢を使ってお前の庶兄弟(腹違いの兄弟)を坂のすそに追いつめて、または川の瀬に追い払って、意礼 大国主神となり、宇都志国玉神となり娘の須勢理毘売を正妻として宇迦の山の麓に太い柱を立てて、高い宮殿に住め。このやろう」 と言いました。」

 

 根国を去った後に「宇迦の山の麓」に宮を構えなさいというお話になります。

 先にこの「根国」についての考察を少し書きますが、これを式内社 伊射奈美神社のある美馬市に比定される諸氏もおられます。しかし、私説としては、

 

 「紀」神代上より

 「故、其父母二神、勅素戔嗚尊「汝甚無道。不可以君臨宇宙。固當遠適之於根國矣。」遂逐之。」

 

 「それゆえに父母の二神は、素戔嗚尊に勅して、「お前は全く道に外れて乱暴だ。この世界に君臨してはならない。遠く根国へ行かなければならない。」と命じ、遂に放逐したのである。」

 

 ※根国は遠い。

 

 一書

 「素戔嗚尊、是性好殘害、故令下治根國。」

 

 「素戔嗚尊は、生れつき残酷で害悪なことを好む性格であった。故に根国に下し治めさせた。

 

 ※下された場所に根国がある。

 

 一書

 「其父母勅曰「假使汝治此國、必多所殘傷。故汝、可以馭極遠之根國。」」

 

 「そのため父母は、「もしお前がこの国を治めたならば、必ず多くの人を殺し傷つけるだろう。だからお前は遙か遠く離れた根国を治めよ。」と命じた。」

 

 ※遙か遠いのが根国。

 

 「對曰「吾欲從母於根國、只爲泣耳。」伊弉諾尊惡之曰「可以任情行矣。」乃逐之。」

 

 「素戔嗚尊は、「私は根国で母に従いたいのです。だから泣いているだけなのです。」と答えた。伊弉諾尊は不快に思い「気の向くままに行ってしまえ。」といってそのまま追放した。」

 

 ※黄泉に居る母の伊弉冉尊に従いたい=つまり黄泉=根国

 

 以上のことから、同美馬には、式内社 倭大國魂神大國敷神社がご鎮座されること、そして当地は昔から「ソラ」と呼ばれる地です。

 その呼び名から、同地はある基準点から「上」の位置に存在する地域なのであり、そこが「倭」の地なのですから、ある基準点より「下」でなければ「下す」という言葉は使わないはずで、つまり「ソラ」は「根」とは対極の位置にあるからこそ「極遠」と書くのです。

 

 また「記」大己貴命の段では冒頭に記しているように、木国の大屋毘古神から須佐之男命の居る根の堅州国に行きなさい。といわれますが、「木」は地面の下に「根」を張るからこそ「根堅州國」なのであって、つまり「ソラ」➨「木」➨「根」の距離感で繋がっていると考えた方が自然ではないでしょうか。

 従ってこの場合、ソラ(美馬)から木国(木頭・木沢のある那賀)へ、そして根国(海部)へと順に下って行ったと考えられるのです。

 

 また伊射奈美神社の論社含むご由緒等からは、当地がイザナミの何に由来するのかについてはほぼ不詳で、唯一『阿府志』に「伊射奈美神社小社美馬郡拝村山之絶頂にあり、俗に高越大権現 一座 伊弉冉尊 別当摩尼殊山高越寺」とある高越山にのみ「覗き岩」という絶景地があります。

 

 イザナミが決して覗いてはいけないといったにも関わらず、約束を破り覗いたイザナギが、妻の変わり果てた姿を見て、恐れ地上へ逃げ出してしまうという話がありますが、当地がこれに由来する場所であるとすれば、逃走を開始した起点となる場所であるということになります。

 

 それでは話を戻しまして、『古事記』ニニギの段には、

 

 「於底津石根宮柱布斗斯理、於高天原氷椽多迦斯理而坐也。」

 底津石根に太い柱を立て、空に聳える程に壮大な宮殿を建てて住みました。」

 

 高天原から降臨し、移住したところに宮を建てたとあります。

 

 これらの説話には必ず「底津石根、宮柱布刀斯理、於高天原氷椽多迦斯理」の下りがあり、それぞれの当時の宮があった場所を指しています。

 大己貴命の段によれば、根の国で須佐之男命の娘の須勢理毘売を正妻として迎えたことで、大己貴命は大国主命へと名を改め根国を離れますが、その目的は上にもあるように腹違いの兄達を倒すためです。

 

 また、須佐之男命が大己貴命らに示した、「宮柱布刀斯理」宮殿を建ててそこに住めといった場所は、「宇迦の山の麓」であり、これを阿波説で置き換えますと恐らく、阿波国一宮 上一宮大粟神社(御祭神:大宜都比売命で神名は「大いなる食物(うか)の女神」の意味)のご鎮座される神山町の麓を意味していると考えられ、十中八九この場所は鮎喰川河口域であるということになり、次点で園瀬川方面ですが、いずれも眉山周辺地域となります。

 東側の小松島方面も一応は麓になりますからこの時点では候補に挙がるでしょう。

 

 また「宇迦の山の麓」を式内論社とする、天石門別八倉比売神社のことであったとすれば、ピンポイントで鮎喰川流域となります。

 

 こちらは海陽町の「芝遺跡」の資料ですが、出土品の痕跡からは、

 

 弥生時代終わり頃~古墳時代初め頃に製作された土器の中では、鮎喰川流域で製作された土器の搬入が最も多いことから、考古的データからもこれは鮎喰川流域との密接な繋がりがあったことがわかります。脚咋→鮎喰ね(´・ω・`)

 

 「記紀」に、須佐之男命が天照大御神とのやり取りの後に高天原から天下り、大宜都比賣を殺した後の記述から「宇迦の山の麓」と想定される場所がわかる記述があります。

 

 『古事記』須佐之男命の段、

 「所避追而、降出雲國之肥上河上在鳥髮地。此時箸從其河流下、於是須佐之男命、以爲人有其河上而」

 「避追はえて、出雲国の肥の河上の鳥髪といふ地に降りたまひき。此の時箸其の河より流れ下りき。是に須佐之男命、人其の河上に有りと以為ほして」

 

 『日本書紀』同、

 「是時、素戔嗚尊、自天而降到於出雲國簸之川上。」

 同一書、

 「是時、素戔嗚尊、下到於安藝國可愛之川上也。」

 「素戔嗚は、安芸国の可愛(え)の川上に天から降りてきました。」 

 

 それぞれが示す場所が同じところでないといけませんが、これにつきましても、「ちょいネタから突っ込んで考察 ②」にて考察を記しておりますのでご参照下さい。

 

 要するに「出雲國の肥・簸(ひ)の河」と「安芸国の可愛の川」は、鮎喰川もしくは隣接する園瀬川の両川のこと。

 二つの川の間に位置する宅宮(えのみや)神社周辺が往古の安芸国が存在したであろう場所となり、やはり上図と同様の場所となります下矢印

 

 こちらの『「ひのかわ」と「八岐大蛇」と「須佐之男命」を考える』のサイト様の考察では、定説通りこれを出雲国=島根県の「斐伊川」・「日野川」や安芸国=広島県「江(ごう)の川」に充てると、双方の示す場所が一致しない結果を記されております。

 また、共通名である、ニニギの眠る可愛山陵(えのみささぎ)は鹿児島県に比定されており、通説解釈とする可愛の川がある広島県とは大きく離れてしまいますので、地形的な辻褄が全く合わなくなってしまいますね。

 

 「可愛山陵」に陵のあるニニギ、また大国主命は皇居を「宇迦の山の麓」に構えた訳で、私説検証によると、双方とも非常に近い場所に存在することになります。

 

 話をやや移しまして、

 「記」には、大己貴命が大国主命を名乗るようになったとあるように、天香語山命が天降って後に手栗彦命(高倉下命)と名を改めたとあります。

 

 両者は何れも後の天皇もしくは天皇に直系する人物の”傍ら”で描かれている人物であるという点において共通しておりますが、『海部氏勘注系図』にある、天香語山命の子の天村雲命の弟にもまた高倉下命(=天香語山命)の名がみえるように、子の弟に実は「親」が隠れているというトリックが存在しています。

 

 親が「子」の「弟」になる条件は何でしょうかはてなマーク

 逆算的思考ですが、それは、子の妹を娶り、義兄弟になることです。

 

 天村雲命(=阿多の小椅の君)には、阿比良比売(吾平津媛)がいますが、東征を行う前の日向にいた時に結婚したのは神武天皇です。

 

 熊野(この場合海部)に天降り住んでいた天香語山命は、阿比良比売を娶ったから、後に「弟」高倉下になったのではないですか。

 

 少なくともこの時点で、天村雲命の弟=天香語山命=弟熊野高倉下=手栗彦命は間違いありません。

 

 更に『先代旧事本紀』巻第五 天孫本紀に、

 

 「饒速日尊の孫・天村雲命【またの名を天五多手(あまのいたて)】。この命は、阿俾良依姫(あひらよりひめ)を妻として、二男一女を生んだ。」

 

 仮に阿比良比売(吾平津媛)と阿俾良「依」姫が同一人物であったなら、イザナギ・イザナミと同様に実際は自身の「妹」を娶ったということに集約され、結局のところ系譜は無限ループで描かれているとも考えられます。

 

 また、天孫降臨説話の場合ですと、妻が二人の男性を夫としたのは、木花之佐久夜毘売であり、記紀では夫は邇邇芸命、『播磨国風土記』では伊和大神(大国主命)の妻の許乃波奈佐久夜比売命として記録されています。

 

 大国主命の段でみえる、意禮爲大國主神」や、景行天皇の段にある、「名倭男具那王者也。意禮熊曾建二人…」の下りの後に、倭男具那王もまた、倭建命を名乗るようになります。

 従ってこれらの考察から、阿波海部の地に至った神は、別の名前に代わるという仮説が生まれます。

 

 

 テーマを変えて別の角度から考察してみますと、

 高天原からニニギが降臨された地は、

 

 『古事記』:「竺紫の日向の高千穂の久士布流多氣

 『日本書紀』第一の一書:「筑紫の日向の高千穂の槵觸之峯

 

 いずれも筑紫の日向の高千穂の「くぢふる峯」としております。

 

 この謎を解くヒントは、「記紀」の神武条にある「久米歌」の中に、

 

 原文

 「宇陀能 多加紀爾 志藝和那波留 和賀麻都夜 志藝波佐夜良受 伊須久波斯 久治良佐夜流 古那美賀 那許波佐婆 多知曾婆能 微能那祁久袁 許紀志斐惠泥 宇波那理賀 那許婆佐婆 伊知佐加紀 微能意富祁久袁 許紀陀斐惠泥 疊疊音引志夜胡志夜 此者伊能碁布曾。」

 

 読み下し

 「宇陀の 高城に 鴫罠張る 我が待つや 鴫は障らず いすくはし 障り 前妻が 肴乞はさば 立ちそばの 実の 無けくを 扱きしひえね 後妻が 肴乞はさば 柃 実の多けくを 許多ひゑね。」

 

 現代語訳

 「宇陀の高い場所で、鴫を獲る霞網を張って、待っていると、鴫が掛からずに、まあなんとが掛かったよ。古女房が菜(食材)を求めたならば、立蕎麦のような実の少ないものを、たくさん木からむしり取って呉れてやれ。若い新妻が菜を求めたならば、いちさかき(柃・榊)のような実の詰まったものを、たくさん木からむしり取ってやれ。」

 

 この現代語訳ですが、普通におかしくないですかね?(´・ω・`)

 

 シギ科(シギか、Scolopacidae)はチドリ目に属する科。模式属はヤマシギ属。

 なお、シギを意味する「鴫」という文字は奈良時代に日本で形成された国字である。(wikipedia シギ科より抜粋)

 

 鳥の仕掛けで鯨が捕れたと(´・ω・`)それを木からむしり取るんです。

 まぁこれを当時のジョークであると解するようです。

 

 「記」の当て字は、「久治良(くぢら)佐夜流」で、「紀」では、區旎羅(くじら)佐夜離」の字を充ており、これを「く(ぢ)じら」=「鯨」としておりますが、

 

 

 「くぢ」は鷹の古語です。

 

 「鷹」と「鷲」との違いは体の大きさで、これも「鯨」と「海豚」の区別の仕方と同じですね。

 

 従って「久士布流多氣」「槵觸之峯」は、「鷹が降りて来た峯」の意味でもあるということ。まぁ海部の場合は鯨でもいいんだけど(ノ∀`)

 神武記では、建御雷神が平定した時の横刀(布都御魂)を倉の屋根に穴を空けて下した後、

 「今、自天遣八咫烏、故其八咫烏引道」

 「今、高天原から八咫烏を遣わせよう。 八咫烏が道案内をする。」

 とありますね(´∀`)

 

 また、兄師木と弟師木を討ち取った後の兵士が詠んだ歌では、

 

 原文

 「多多那米弖 伊那佐能夜麻能 許能麻用母 伊由岐麻毛良比 多多加閇婆 和禮波夜惠奴 志麻都登理 宇加比賀登母 伊麻須氣爾許泥」

 

 読み下し

 「楯並めて 伊那嵯の山の 木の間よも い行き(瞻・守)らひ 戦へば 我はや飢ぬ 嶋つ鳥 鵜飼が伴 今助けに来ね。」

 

 現代語訳
 「(楯を並べて)伊那佐山の木の間からずっと見張りを続けながら戦ったので、腹がへったよ。(島の鳥)鵜飼の伴部よ、すぐに助けに来てくれ。」
 
 これを奈良県の宇陀市伊那佐山に比定していますが、東征して来た神武軍からすれば知り得もしない余所の山の名前を久米の兵士が歌うはずもありません。

 同様に東征経路にはない出雲の稲佐の山を歌ったはずもなく、これは海部の伊那佐での見張り時の話を思い出して歌った歌ではないでしょうか?(´・ω・`)

 

 「海部郡誌」に、

 「候舘、鞆浦遠見山にあり(中略)又乳崎山は現今は宍喰町に属しているが昔は鞆浦に属し、其最高点を今も遠見山と称し、狼煙場があったと云ふ。」

 

 この遠見山は、海陽町鞆浦と乳崎山にもあるということ。

 

 

 そして「紀」神武条には、媛蹈鞴五十鈴媛命を正妃とした後に、

 

 「於畝傍之橿原也、太立宮柱於底磐之根峻峙搏風於高天之原、而始馭天下之天皇、號曰神日本磐余彦火々出見天皇焉。」

 

 畝傍の橿原に宮柱を底磐の根元にしっかりと立てて、高天原に峻峙が届くくらいに高くしよう。 始馭天下之天皇である私は、神日本磐余彦火々出見天皇と名乗ることにしよう。 」

 

 即位二年春二月二日の条に、

 

 「大來目居于畝傍山以西川邊之地、今號來目邑、此其緣也。」

 

 「大來目には畝傍山の西の川原の土地に住まわせました。それで今、そこの土地を來目邑と呼ぶのはそのためです。 」

 

 …とあり、「畝傍山以西」に久米一族が移り住んだ村があるはずですが、「名字由来ネット」や「日本姓氏語源辞典」などからみても、「久米氏」は全国的に見ても、

 

 徳島県が人口比率的に最多であり、取分け、

 

 

 名西郡石井町という非常に狭い範囲内に集中します。

 当地は私説において畝傍山に比定しています眉山の西側に位置します。

 

 畝傍の橿原に「太立宮柱於底磐之根、峻峙搏風於高天之原」な宮殿を建てていますから、こちらの点からもやはり鮎喰川流域の眉山周辺となります。

 この周辺には矢野遺跡や名東遺跡など多数の大型遺跡がありますね。

 

 また來目邑と推定する「石井」と「高志(越:こし)」は目と鼻の先の位置となります。

 

 他に畝傍山に比定できる山を探してみても石井町の東側にある山は、気延山か眉山しかありませんので候補は自然と絞られます。 一応現在は眉山に比定しておきましょう。

 

 

 では別の疑問として、

 何故「天孫一族」は、徳島県南部の海部の地に降臨を決めたのでしょうかはてなマーク

 

 これにつきましても種々様々な推測ができると思います。

 まず海部の海人族と天孫族は別族であると考える場合、或いは同族の別グループが降臨したのではないのかとも考えられますが、その降臨に至った理由として真っ先に候補に挙がるのは、当時の最重要交易ポートの掌握や海人の知り得る航海術の利用などです。 

 しかしここでもう一つの候補が浮かび上がってきます。

 

 大国主命は当地を去った後に葦原中国を統治した、また神武天皇は当地から東征を開始し始馭天下之天皇(はつくにしらすすめらみこと)となったとするには、それに相当するものをココで得たはずなのです。

 

 「記紀」によれば、大国主命が根国から持ち出したものは、生大刀と生弓矢と天の詔琴。

 これが神武天皇だと「記紀・本紀」にある、佐士布都神(布都御魂・韴霊の剣)。

 

 従って二者が共通して当地で得たものは、「剣(つるぎ)」

 それと「妻」です。

 

 「妻」については先に述べたとおり。

 「つるぎ」につきましては、阿波海部で作られた剣なのか、別所から持ち込まれた剣なのか、はたまた那佐湾に浮かぶ乳の崎を「つるぎ」とするのか、これについては確証には至らないので後の課題としておきますが、仮に交易で得たものであったならば、ニニギの段、「此地者、向韓國」「この地の者は韓国へ向かい」とあるように、当時の韓国で得た「鉄」を製鉄した、もしくは「つるぎ」そのものを獲得したとも考えられます。

 

 これは「芝遺跡」の資料に書かれてあるまとめ考察からですが、

 弥生時代後期中頃と考えられる竪穴住居から、鍛冶を行っていたと考えられる炉跡、小破片を含む鉄製品、サヌカイト片、朱付着石杵を確認した。」

 …と記されており、明らかに「製鉄を行っていた痕跡」が確認できます。

 

 弥生時代後期中頃は、

 西暦200年前後、つまり卑弥呼の時代にあたります。

 

 岩利大閑氏著の「道は阿波より始まる」その一に、須佐之男命の項に、

 「須佐之男命によって初めて鉄の生産が伝えられ、急速に阿波国は発展していきました。(中略)諸国では八坂神社、祇園神社等で祀られますが、阿波国一国のみで熔造皇神社と称されています。(中略)以乃山(現眉山)の山頂にあった神社は現在山下の蔵本八坂神社に下されて祀られていますが、元来以乃山山頂の熔造皇神社に、登り口八坂があり、八坂神社の別称が起こりました。万葉学者折口信夫がその最後の著書「死者の書」の文中で、突然一行「須佐之男命が下ったのは阿波だった。」と書き残したのも…云々…とあり、阿波国では製鉄の神でもあります。

 

 神武は赤銅八十梟帥(あかがねのやそたける)に対抗するべく、椎根津彦と弟猾に命じて密かに天香山に埴を取らせ、誓約の後に、飴(たがね)を作っています。

 

 「天皇又因祈之曰「吾今當以八十平瓮、無水造。飴成、則吾必不假鋒刃之威、坐平天下。」乃造飴、飴卽自成。」

 

 「天皇はまたここで誓約をしました。「わたしは今、八十平瓮で水無しに(たがね=あめ)を作ろう。飴が出来たならば、私は必ず武力を使わずに天下を平定できるだろう」 それで飴を作りました。飴が自然と出来ました。 」

 

 これを食べ物の飴(あめ)とし、神武自ら飴を作ったと訳する方がおられますが、これは刀の銘を切る道具の「タガネ」のことかも知れません。

 

 神武の皇后の名前にある、媛蹈鞴五十鈴媛(ひめたたらいすずひめ)、その母の名も勢夜陀多良比売で、この神名にある、

 

 たたら製鉄とは、日本において古代から近世にかけて発展した製鉄法で、炉に空気を送り込むのに使われる鞴(ふいご)が「たたら」と呼ばれていたために付けられた名称。砂鉄や鉄鉱石を粘土製の炉で木炭を用いて比較的低温で還元し、純度の高い鉄を生産できることを特徴とする。近代の初期まで日本の国内鉄生産のほぼすべてを担った。(wikipedia たたら製鉄より抜粋)

 

 「記紀」の神武条では、やたらと製鉄に関するキーワードが並びます。

 従って手繰山の名と同名の手栗彦命(高倉下)の話からも、当地海部は既に鍛治製鉄の先進地であったのかも知れません。

 

 こちらは現手倉湾から愛宕山への登り口

 

 周辺の岩は、

 

 往古は海中、そしてその後は扇状地であったために砂岩が多く、加工しやすい岩が多いのですが、どう見ても赤茶けておりますよね。

 側を流れる母川の河原の石も赤錆が次第に石を纏い後に段々と赤茶けてきます。

 

 地質の専門家ではないので詳しくは分かりませんが、恐らくこれは酸化鉄を纏う鉄砂岩ではないでしょうか?

 御覧の通り岩の表面から察するに、お世辞にも高品質なものではないことがわかります。

 しかしながら、母川上流域から河原の石が赤茶けるため、恐らく更に上流部から同様の岩石層が存在するのだと思われます。

 

 また鞆浦の観光マップには、

 「海部一族」は、海部川流域でとれる「砂鉄」などの豊かな資源を利用し「刀」の創作をはじめ云々…と書かれていますね。

 恐らくわずかながら砂鉄も採れていたのでしょう。

 後世鎌倉期以降は、島根県より良質な鉄を獲得し、多くの名刀工を抱えた海部氏一族は、海部刀を大量に製造した地として名を馳せることとなります。

 

 また阿波から出雲を目指した痕跡も見え隠れしますから、恐らくそれは鉄獲得ルートであったのかも知れません。

 逆に何のルーツもないのに四国の南の辺鄙なところで突如刀の大量生産をする集団が存在したことの方に違和感を覚えるはずです。

 

 さて、今上天皇がご即位される前年に、何故か阿波海部の地を訪れています。

 

 これは全くの偶然なんでしょうかねはてなマーク 今回はここまでにしておきます(´・ω・`)ノシ