孝元天皇(こうげんてんのう、孝霊天皇18年 - 孝元天皇57年9月2日)は、日本の第8代天皇(在位:孝元天皇元年1月14日 - 孝元天皇57年9月2日)。
和風諡号は、『日本書紀』では「大日本根子彦国牽天皇(おおやまとねこひこくにくるのすめらみこと)」、『古事記』では「大倭根子日子国玖琉命」。
●系譜
父:第7代孝霊天皇、母は皇后で磯城県主(または十市県主)大目の娘の細媛命(細比売命)。
同母兄弟はいないが、異母兄弟に倭迹迹日百襲姫命・彦五十狭芹彦命(吉備津彦命)・稚武彦命らがいる。
皇后:欝色謎命(うつしこめのみこと、内色許売命) - 穂積臣遠祖の欝色雄命(内色許男命)の妹。
第一皇子:大彦命(おおひこのみこと、大毘古命) - 四道将軍の1人。阿倍臣・膳臣・阿閉臣・狹々城山君・筑紫国造・越国造・伊賀臣ら7族の祖(紀)。
皇子:少彦男心命(すくなおこころのみこと:日本書紀一書、少名日子建猪心命) - 日本書紀本文なし。古事記では次男とする。
第二皇子:稚日本根子彦大日日尊(わかやまとねこひこおおひひのみこと、若倭根子日子大毘毘命) - 第9代開化天皇。
皇女:倭迹迹姫命(やまとととひめのみこと) - 古事記なし。
妃:伊香色謎命(いかがしこめのみこと、伊賀迦色許売) - のち開化天皇の皇后で崇神天皇の母。
皇子:彦太忍信命(ひこふつおしのまことのみこと、比古布都押之信命) - 武内宿禰の祖父(古事記では父)。
妃:埴安媛(はにやすひめ) - 河内青玉繋の娘。
皇子:武埴安彦命(たけはにやすひこのみこと、建波邇夜須毘古命)
●宮
宮(皇居)の名称は、『日本書紀』では軽境原宮(かるのさかいはらのみや)、『古事記』では軽之堺原宮。
宮の伝説地は、現在の奈良県橿原市大軽町・見瀬町周辺と伝承される。見瀬町では、牟佐坐神社(古くは「境原天神」とも)境内が宮跡にあたるとして参道に「軽境原宮阯」碑が建てられている。
◆孝元天皇 軽境原宮阯碑 (奈良県橿原市)
●陵・霊廟
陵(みささぎ)は、奈良県橿原市石川町にある劔池嶋上陵(剣池島上陵、つるぎのいけのしまのえのみささぎ)に治定されている。公式形式は山形。考古学名は中山塚1-3号墳(円墳2基、前方後円墳1基)。
陵について『日本書紀』では前述のように「劔池嶋上陵」、『古事記』では「剣池之中岡上」の所在とあるほか、『延喜式』諸陵寮では「劔池嶋上陵」として兆域は東西2町・南北1町、守戸5烟で遠陵としている。しかし後世に所伝は失われ、元禄の探陵で現陵に治定された。 (wikipedia 孝元天皇より)
◆孝元天皇 劔池嶋上陵 (奈良県橿原市)
それではいつものように考察してみましょう。
まず、孝元天皇の皇后となる欝色謎命の第一皇子に四道将軍の1人となる大彦命が居ます。
大彦命(おおひこのみこと/おおびこのみこと、生没年不詳)は、記紀等に伝わる古代日本の皇族。
『日本書紀』では「大彦命」、『古事記』では「大毘古命」と表記される。また稲荷山古墳出土鉄剣の銘文に見える「意富比垝」に比定する説がある。
第8代孝元天皇の第1皇子で、第11代垂仁天皇の外祖父である。また、阿倍臣(阿倍氏)を始めとする諸氏族の祖。四道将軍の1人で、北陸に派遣されたという。
●系譜
第8代孝元天皇と皇后鬱色謎命(うつしこめのみこと、内色許売命)との間に生まれた第1皇子である。同母兄弟として開化天皇(第9代)、少彦男心命(すくなひこをこころのみこと、少名日子建猪心命<すくなひこたけゐこころのみこと>)、倭迹迹姫命(やまとととひめのみこと、古事記なし)がいる。
子として『日本書紀』では御間城姫(みまきひめ、御真津比売命:第10代崇神天皇皇后)、武渟川別(たけぬなかわわけ、建沼河別命)の名が、『古事記』では加えて比古伊那許志別命(ひこいなごしわけのみこと)の名が見える。御間城姫は垂仁天皇(第11代)の生母であり、大彦命はその外祖父になる。
●記録
『日本書紀』崇神天皇10年9月9日条では大彦命を北陸に派遣するとあり、同書では東海に派遣される武渟川別、西道に派遣される吉備津彦命、丹波に派遣される丹波道主命とともに「四道将軍」と総称されている。
同書崇神天皇9月27日条では、大彦命はその途中の和珥坂(または山背の平坂)で不吉な歌を詠う少女に会ったため、引き返して天皇にこのことを報告した。そして倭迹迹日百襲媛命(孝霊天皇皇女:大彦命のおば)の占いによって武埴安彦命(大彦命の異母兄弟)とその妻の吾田媛の謀反が発覚する。果たして実際に謀反が起こると、五十狭芹彦命(吉備津彦命)が吾田媛を、大彦命と彦国葺(和珥臣祖)が共に武埴安彦を討ち鎮圧した。その後、四道将軍らは崇神天皇10年10月22日に出発し、崇神天皇11年4月28日に平定を報告したという。
『古事記』では、建波邇安王(武埴安彦命)の鎮圧においては同様の説話を記す。一方、四道将軍としての4人の派遣ではないが、やはり崇神天皇の時に大毘古命(大彦命)は高志道に、建沼河別命は東方十二道に派遣されたとする。そして大毘古命と建沼河別命が出会った地が「相津」(現・福島県会津)と名付けられた、と地名起源説話を伝える。
なお『新撰姓氏録』河内国皇別難波忌寸条では、崇神天皇の時に大彦命が蝦夷平定に向かった際、大彦命は兎田墨坂(うだのすみさか:現・奈良県宇陀市榛原萩原)で嬰児を拾って育て、「得彦(えひこ)宿禰」と名付けたと伝える。(wikipedia 大彦命より抜粋)
wikipedia記述の中に、阿倍臣を始めとする諸氏族の祖。とあり、名字由来netで「阿倍」氏や「阿部」氏を調べてみると、
◆阿倍氏
◆阿部氏
青丸で囲った範囲内がおおよその記紀神話及び初期大和王権の権力の及ぶ範囲ですが、この「あべ」氏族は、徳島県・香川県・大分県に密集しているのがわかります。
また、阿倍氏の後裔に布勢氏がいます。
詳細は不詳だが、奈良時代の天平年間(729年-749年)、行基菩薩が石田極樂寺の鎭守として創建したという。
付近には、弥生時代から古墳時代にかけての遺跡群があるという。当社の創祀については、先の天平年間をはるかにさかのぼるとの指摘も。
●『平成祭データ』
当社は延喜式神名帳に「讃岐国寒川郡小布勢神社」とあり、延喜式内当国二十四社の一なり創建年代詳ならずと雖も極楽寺記に天平年間行基菩薩薬師堂を石田に建て、極楽寺と云い当社をもってその鎮守神と為せし旨記されたれば天平以前の創始なるべし、祭神大彦命を祀る。
大彦命は孝元天皇の皇子に坐して四道将軍の御一人に座す、新撰姓氏録に「阿部朝臣布勢朝臣同祖孝元天皇皇子大彦命の後也」とありて延喜式内神社に、越中国射水郡布勢神社、備前国赤坂郡布勢神社ありて共に大彦命を祀れり。
一説によれば伏雷(ふせいかずち)、則ち雷神なりとも云う。
なお、当社はwikipediaには記載がありません。
次に孝元天皇の皇后である欝色謎命の兄 欝色雄命の娘に、孝元天皇の妃にもなられ、のちに第9代開化天皇の皇后にもなられる伊香色謎命が居ます。(父は大綜麻杵命、母は高屋阿波良姫)
その子に第10代崇神天皇(御真木入日子印恵命)がおられます。
この伊香色謎命を祀る式内社は、日本で唯一、阿波国に鎮座する 伊加加志神社のみなのです。
伊加加志神社(いかがしじんじゃ)は、徳島県吉野川市川島町桑村に鎮座する神社である。式内社である。(徳島県吉野川市川島町桑村字大明神1635)
◆祭神 伊加賀色許売命、伊加賀色許雄命、天照大御神、事代主大神
◆神紋 矢筈
◆歴史 創祀年代不詳である。明治まで「日命(ひのみこと)大明神」と称し、明治3年(1870年)に現社名に改称、翌4年5月に郷社に列した。旧社地は吉野川の氾濫により失われたが、後年現在の地に遷座された。(wikipedia 伊加加志神社より)
wikipediaの記事がこんだけしかない(´・ω・`)…書かれてあるだけマシか
『阿府志』に、
「桑村山ノ麓ニアリ、俗ニ日命大明神、今ハ伊加加志大明神、野老傳ヘテ曰ク、桑村ノ河邊ニ大竹藪アリ、ソノ地ヲイカカシト云フ、今ハ川トナリテ、田少シノコレリ、昔シ是地ヨリ山ノ麓エウツシタリト、ソノ時ヨリ日命ト號ス、近代、神官イカカシト改ムモノハ舊名ニヨルナリ」
◆社頭掲示板
当神社は延喜の制国幣小社に列せられ祈年の幣帛を頂き平安朝以来皇室藩主よりの尊崇も厚く本郷の惣社として皇室より大明神の号を頂き日命大明神と称しました。昔より神地・神戸が有り明治3年11月民政庁より玄米5石、更に幣帛を頂いておりました。その為六国史所載の古社であり、明治4年5月神社格制定の際郷社に指定されました。
ご祭神の伊加賀色許売命は第8代開化天皇の妃であられました。伊加賀色許雄命は伊加賀色許売命の弟君でございます。
屋根瓦は波兎と菊花紋
隣町の山川町にも伊加加志神社があり、こちらは伊迦賀色許男命(いかがしこを)を祀っています。
◆祭神 伊迦賀色許男命
弟の伊加賀色許雄命は、『日本書紀』や『新撰姓氏録』では「物部氏」の祖神とされています。
『先代旧事本紀』によれば、
伊加賀色許雄命は饒速日命(にぎはやひのみこと)の六世孫とあります。
また、父の大綜麻杵命(おおへつきのみこと)も、隣町である鴨島町の「御所(ごしょ)神社(別名 瑜伽神社)」に祀られています。
『麻植郡郷土誌』に、
「阿波風土記曰く、天富命は、忌部太玉命の孫にして十代崇神天皇第二王子なり、母は伊香色謎命にして大麻綜杵命娘なり、大麻綜杵命(おおへつき)と呼びにくき故、麻植津賀(おえづか)、麻植塚と称するならんと云う」
![ゲロー](https://stat100.ameba.jp/blog/ucs/img/char/char3/038.png)