万世橋とわたし(神田)のブログ -88ページ目

三井氏論文「旧万世橋駅 (交通博物館) 跡地計画」  Part.2

さて、江戸時代の土木工事の規模たるや、壮大です。

三井氏論文の3ページの1の図から、4ページの6の図まで辿ってみますと、

神田川が影も形もないところから、どのように伸びていったのかがよくわかります。

水運が産業、、商業の重要な役割を果たしていたこの当時、

この工事がなければ、日本橋や神田から万世橋を経て秋葉原界隈の発展はなく、よって、万世橋駅や周辺地域が近年、交通の要所と言われる一時代もなかったのかもしれないと思ったりします。


水路によって、国を治めるものの危機管理と地域発展の双方を満たすと言う手法は、あの当時の生活技術による必然であったのか思います。

しかし、このような構想は誰によって、どのように画かれたのかええ!!

研究している方はいらっしゃるのではないでしょうか?


このあたりの地形も、これらの工事によって大分変わったようです。

現在の岩本町に、神田お玉が池というのがあったそうです。

それも、

「徳川幕府は江戸入府以来、家康・秀忠・家光という3代にわたって近代都市「江戸」の基盤建設を推進しました。この「天下普請」の初期の段階で旧石神井川は付け替えられて隅田川と合流させられましたが、下流域にその名残として「お玉が池」ができてしまったようです。しかし、急膨張を続ける「江戸」はあっという間にその「お玉が池」も飲み込んでしまい、寛永年間には寺町になっていたという訳です。

「江戸」は今も昔も変化の早い街といえそうですね。」

とのこと、詳しくは、千代田Day's

http://chiyoda-days.jp/future/staffblog/walkabout/post-13.htm

をご覧ください。

駿河台と湯島が神田川によって分離されたというのも、その意図や派生する影響などについて、興味深いです。


私がとって付けたご説明をするまでもなく、神田の歴史は、実に大勢の方々が研究してくださっています。

このように愛される神田という町、

タダモノデハナイ!!

と、常々感じます。


最近の神田界隈のタイムリー情報&いにしえのイマジネーションは、ミナコさんのブログ

http://ameblo.jp/minako-walker/

のチェックをオススメします。

よくここまで把握していらっしゃると、感心至極です。

また、ふと気がついたころから結構年月がたった、神田まつやの並びにある「トプカ」というカレー屋さん、秋葉原駅に新たに出現したatre1の一階に、カレー屋「須田町代表」として名を連ねているのを見て、仰天しましたみかん

が、このお店についても、以前から他の方のブログで評判になっていましたおいしい

神田地域を実地検証してくださっている石川さんとはまた異なる視点において、

皆様がそれぞれに興味の広がる地域特性を語ってくださり、

変化を伴いつつも神田を愛してくださっているたくさんの方々の存在が目に見えて嬉しい限りです。


馴染みの景観において、

自由主義経済と市場原理に対する文化尊重が相いれないことは多く、

残したいものの中で、何が重要か、その判断はとても難しく、実現も困難という背景を擁しながら。


中野


基本に戻って万世橋へ

こんにちは。


修士論文を提出して安堵したせいか、

すっかり肉食に戻った石川は、

神田須田町にある「肉の万世」さんでランチをしてきました 豚カツ


お店は前回ふくださんにも紹介していただいた、

万世橋のすぐ脇にあります。
「肉の万世」さんのビルはかなり目立つので、

電車から見かけたことがある方も多いのではないでしょうか。

うしさんのイラストがすごくかわいいですよ ウシ


それから、なんとレストランのあるビル4Fの窓側の席からは

旧万世橋駅の遺構が見られるんです!

(他のフロアからも見られると思います)
お肉はもちろん美味しいですし、ライスおかわり自由です。

みなさん、ぜひお試しくださいね ネコの肉球

三井氏論文「旧万世橋駅 (交通博物館) 跡地計画」  Part.1

まず、万世橋駅跡地を題材にした論文が存在することは、大きな驚きでした。


私が小さいころ、自営業の我家では子どもは邪魔で、

家を出ればそこは道路で、車に轢かれそうになったこともあるといった地理的事情もあり、

「交通博物館に放り込んでおけば命の危険はない」

というような理由から、あの辺りは庭的感覚であり、

私にとっては、生まれて育つ間、当然に身近にある愛着ある場所でした。


しかし、よそさまの人にとっては「交通博物館」という一つの施設に過ぎないともいえ、

「万世橋駅」や「交通博物館」が論文に取り上げる対象となるほど注視してくださるものであったことが、新鮮な驚きだったのです。

私自身、法政大学大学院 政策創造研究科に入らなければ、変わり行く須田町界隈に

「何かしなくては!!!」

と焦りを感じることもなかったのではないかと思います。


三井氏の論文をはじめに読ませていただいたとき、


「建築物が次代をまたぐ架け橋としての役割を持つ側面に注目する。スクラップビルドの否定の動き、さらには建築技術(材料、構造)の向上から、これまで以上に建築寿命が伸びることが予想される。つまり、現在の敷地に建築を設計することは、今後長い時間にわたって建築を都市に植えつけることを意味する。これまで以上の責任が生ずる。

 現時点での解決としての設計にとどまることなく、今後長い時間を見据えた設計をする必要がある。」


とのご意見に、大変共感致しました。

あらゆる建築主や設計者が本当にこのような理念の下に都市の創造に関与されていれば、

もっと違う日本ならではの文化継承の発展があったのではないかと考えられます。

古きを残すことのみを文化と考えるのではありませんが、

新しければよいと言うのも違うと考えます。

新しいものは、その場面でいつでも誰にでも造れますが、

古いものは、それだけの年月、皆に愛されなければ残ることができません。


三井氏の論文から、そんな考えを導き出すきっかけをいただきました。

これから、何回かに分けて、

三井氏が万世橋駅の位置付けをどのように捉えられたのか、ご紹介してまいりたいと思います。


今回は導入まで。

中野