三井氏論文「旧万世橋駅 (交通博物館) 跡地計画」 Part.1
まず、万世橋駅跡地を題材にした論文が存在することは、大きな驚きでした。
私が小さいころ、自営業の我家では子どもは邪魔で、
家を出ればそこは道路で、車に轢かれそうになったこともあるといった地理的事情もあり、
「交通博物館に放り込んでおけば命の危険はない」
というような理由から、あの辺りは庭的感覚であり、
私にとっては、生まれて育つ間、当然に身近にある愛着ある場所でした。
しかし、よそさまの人にとっては「交通博物館」という一つの施設に過ぎないともいえ、
「万世橋駅」や「交通博物館」が論文に取り上げる対象となるほど注視してくださるものであったことが、新鮮な驚きだったのです。
私自身、法政大学大学院 政策創造研究科に入らなければ、変わり行く須田町界隈に
「何かしなくては!!!」
と焦りを感じることもなかったのではないかと思います。
三井氏の論文をはじめに読ませていただいたとき、
「建築物が次代をまたぐ架け橋としての役割を持つ側面に注目する。スクラップビルドの否定の動き、さらには建築技術(材料、構造)の向上から、これまで以上に建築寿命が伸びることが予想される。つまり、現在の敷地に建築を設計することは、今後長い時間にわたって建築を都市に植えつけることを意味する。これまで以上の責任が生ずる。
現時点での解決としての設計にとどまることなく、今後長い時間を見据えた設計をする必要がある。」
とのご意見に、大変共感致しました。
あらゆる建築主や設計者が本当にこのような理念の下に都市の創造に関与されていれば、
もっと違う日本ならではの文化継承の発展があったのではないかと考えられます。
古きを残すことのみを文化と考えるのではありませんが、
新しければよいと言うのも違うと考えます。
新しいものは、その場面でいつでも誰にでも造れますが、
古いものは、それだけの年月、皆に愛されなければ残ることができません。
三井氏の論文から、そんな考えを導き出すきっかけをいただきました。
これから、何回かに分けて、
三井氏が万世橋駅の位置付けをどのように捉えられたのか、ご紹介してまいりたいと思います。
今回は導入まで。
中野