万世橋とわたし(神田)のブログ -86ページ目

親の役割について

こんにちは、石川です。


今年度の打ち上げに、知り合いのおじさんたちと
静岡の梅ヶ島温泉(清香旅館は料理◎でオススメ)で遊んだり、
そのまま私の故郷である三河にプチ誘拐されたりしておりまして、
ご無礼をいたしました。 ツアーちゅん*゜。


週明けの14日には、岩間夏樹先生を迎えて
第2回ソーシャル・キャピタル研究会を催させていただきました。
今回は"「弱い絆」の強さ"を軸に、
フリートーク形式で活発な意見交換を行いました。
参加していただいたみなさまのおかげで、
サロン的な和やかさに包まれながら、
知の交流が実現できたのではないかと思います。
貴重なお時間を割いて、私たちに自由な発言を許してくださる
岩間先生、誠にありがとうございます。


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前回の中野さんのテーマの『児童虐待って?』は、
誰もが無関係でいられない、非常に重要なテーマだと思います。

子どもに対して全能の監督者として振舞う親(大人)は
きめ細かいしつけができる一方、過保護かつ過干渉になりがちで、
子どもたちの自律性が損なわれる恐れがあるように思えます。


やはり、中野さんのおっしゃるような、
子どもに対して自己の不完全性を認識しながら接する親(大人)は、
学習しながらしつけを修正できるので、子育てに変に力が入りすぎず、
子どもたちも、そんな親の努力に納得しながら成長できるような気がします。


親子とはいえ人間同士の関係なので、
支配・被支配の関係や、一方的に操るような関係は
不健全だし持続性にも欠けるように思います。


以上、いい感じで放任されて気楽に育ってしまった石川の意見でした。

放任しながらも、いつも気にかけてくれる両親に大感謝 スマイル

児童虐待って?

常々、酒を酌み交わす友人との話の中で、小学生低学年の育児中のこと、

子どもに対して心無い言葉を浴びせてしまう心中を話してくれました。


その背景に、自分の命があるうちに子どもに出来る限りのことをしたいという親心があります。


私の研究の対象、「死亡に至る可能性が高い乳幼児虐待を回避できるような予防策は?」

から、いろいろ文献を当たっています。

その中で、四天王寺国際仏教大学紀要 第44号(2007年3 月)において小林美智子の述べる児童虐待についての判断基準、


「虐待の定義はあくまでも子どもの側の定義であり、親の意図とは無関係です。その子が嫌いだから、憎いから、意図的にするから、虐待というのではありません。親はいくら一生懸命であっても、その子をかわいいと思っていても、子ども側にとって有害の行為であれば虐待なのです。我々がその行為を親の意図で判断するのではなく、子どもにとって有害かどうかで判断するように視点を変えなければなりません。」


という考えに異議はありません。

ただ、

では、子どもが社会に如何に適応して生きて行ってくれるか、

との、友人のような我が子の行く先を案ずる真摯な親心からの行動は間違っていると断定できるのか?

と言う問題に突き当たります。


おそらく、私は友人に、「間違っている」と言うべきです。

実際、何より大切なわが子に、その逆の表現は適さないであろうと伝えましたが、

友人を追い詰めることはしてはならない。


では、なぜこのような真摯な親心から、この定義上の虐待行動へとつながってしまうのか。


これは、親の役割の捉え方なのではないかと考えます。

「子どもの幸せ」を願う一つの気持ちから、

親の描く人間像を備えさせることと、

本当に個人が自立して物事に対処してゆく能力を備えさせることと、

望む結果は同じでも、目的や手段を異にすることからディレンマを生じてしまっているのではないかと。


友人も、お子さんも、苦しんでいます。

さまざまな展開の提供はしていても、

なかなかその窮地から遠のかせてあげることのできない自分が悲しいです。


子どもの成長に親がなすべき役割の明示という社会的な共通認識が必要かもしれません。

しかし、さまざまな個性の親と子のめぐり合わせ、

何が「正しい育児である」と言う一般解を明示することは大変困難といえましょう。


ただ、子どもは親の描く理想像を体現させる対象なのではなく、

子どもがどのように育とうとしているのか、

その行く先をサポートするためにいるのが親なのではないかと考えます。

子どもに安全な道を用意するのではなく、

子どもなりに試行錯誤して失敗しても、帰ってくる場所があるのだという安心感を用意してあげるのが親なのではないかと。


そして、また、親もはじめから親なのではなく、

いろいろな失敗の反省の元、「親」へと成長してゆくものなのだと思います。


子どもの命の安全と健全な成長のために、児童虐待行為への積極的な介入も重要ですが、

並行して、専門家の助けを必要としないと考えられる親と子の成長を見守る周囲に、

『ホームスタート』の傾聴の理念や手法が,

心臓マッサージなどの救急救命のトレーニングと同じように社会に普及する日が近いことを、

心から願っています。


中野

三井氏論文「旧万世橋駅 (交通博物館) 跡地計画」  Part.3

皆さんは、2月3日放送のブラタモリ「外濠」特集をご覧になりましたでしょうか?

前述、「三井氏論文「旧万世橋駅 (交通博物館) 跡地計画」  Part.2」(1月25日)

にて申し上げました、江戸時代の大普請の様子が視覚的に具体的に映像化されており、

なんとまあ、タイムリーな番組にこにこ

と、一人ほくそ笑んでおりました!!


三井氏論文はこちら

(Google ドキュメントからご覧くださいごめん


四番町歴史民族資料館の後藤学芸員、

ならびに鉄道研究所の方の案内で、
界隈の合理的な地形の利用を
史実から考証し、

当時の都市計画も含めて専門的な見地から説明してくださりっておりました。

しかし、戦後の復興期に、瓦礫の処分のためにお濠を埋没させたと言うのも時代の要請と言うのでしょうねぇ。


法政大学界隈も、昔の牛込駅の写真を元に
現在営業しているピザ屋さんを直撃インタビューしたりして、

(でも、あのピザ屋さんは結構新たな営業で、

それまであった学生向け大衆食堂でなければインタビューに値しなかったでしょう)
CGでの駅ホームの様子の提供により、
当時がリアルに感じられました。

何より印象的だったのは、

番組最後にタモリさんが語られた、
“もし、このお濠の全体が現存していたならば、世界遺産になってもおかしくない!

との言葉でした。

都市の合理的利用と、史実の中に生活できるロマン、

私は後者が好きですねハート

中野