児童虐待って?
常々、酒を酌み交わす友人との話の中で、小学生低学年の育児中のこと、
子どもに対して心無い言葉を浴びせてしまう心中を話してくれました。
その背景に、自分の命があるうちに子どもに出来る限りのことをしたいという親心があります。
私の研究の対象、「死亡に至る可能性が高い乳幼児虐待を回避できるような予防策は?」
から、いろいろ文献を当たっています。
その中で、四天王寺国際仏教大学紀要 第44号(2007年3 月)において小林美智子の述べる児童虐待についての判断基準、
「虐待の定義はあくまでも子どもの側の定義であり、親の意図とは無関係です。その子が嫌いだから、憎いから、意図的にするから、虐待というのではありません。親はいくら一生懸命であっても、その子をかわいいと思っていても、子ども側にとって有害の行為であれば虐待なのです。我々がその行為を親の意図で判断するのではなく、子どもにとって有害かどうかで判断するように視点を変えなければなりません。」
という考えに異議はありません。
ただ、
では、子どもが社会に如何に適応して生きて行ってくれるか、
との、友人のような我が子の行く先を案ずる真摯な親心からの行動は間違っていると断定できるのか?
と言う問題に突き当たります。
おそらく、私は友人に、「間違っている」と言うべきです。
実際、何より大切なわが子に、その逆の表現は適さないであろうと伝えましたが、
友人を追い詰めることはしてはならない。
では、なぜこのような真摯な親心から、この定義上の虐待行動へとつながってしまうのか。
これは、親の役割の捉え方なのではないかと考えます。
「子どもの幸せ」を願う一つの気持ちから、
親の描く人間像を備えさせることと、
本当に個人が自立して物事に対処してゆく能力を備えさせることと、
望む結果は同じでも、目的や手段を異にすることからディレンマを生じてしまっているのではないかと。
友人も、お子さんも、苦しんでいます。
さまざまな展開の提供はしていても、
なかなかその窮地から遠のかせてあげることのできない自分が悲しいです。
子どもの成長に親がなすべき役割の明示という社会的な共通認識が必要かもしれません。
しかし、さまざまな個性の親と子のめぐり合わせ、
何が「正しい育児である」と言う一般解を明示することは大変困難といえましょう。
ただ、子どもは親の描く理想像を体現させる対象なのではなく、
子どもがどのように育とうとしているのか、
その行く先をサポートするためにいるのが親なのではないかと考えます。
子どもに安全な道を用意するのではなく、
子どもなりに試行錯誤して失敗しても、帰ってくる場所があるのだという安心感を用意してあげるのが親なのではないかと。
そして、また、親もはじめから親なのではなく、
いろいろな失敗の反省の元、「親」へと成長してゆくものなのだと思います。
子どもの命の安全と健全な成長のために、児童虐待行為への積極的な介入も重要ですが、
並行して、専門家の助けを必要としないと考えられる親と子の成長を見守る周囲に、
『ホームスタート』の傾聴の理念や手法が,
心臓マッサージなどの救急救命のトレーニングと同じように社会に普及する日が近いことを、
心から願っています。
中野