三井氏論文「旧万世橋駅 (交通博物館) 跡地計画」  Part.2 | 万世橋とわたし(神田)のブログ

三井氏論文「旧万世橋駅 (交通博物館) 跡地計画」  Part.2

さて、江戸時代の土木工事の規模たるや、壮大です。

三井氏論文の3ページの1の図から、4ページの6の図まで辿ってみますと、

神田川が影も形もないところから、どのように伸びていったのかがよくわかります。

水運が産業、、商業の重要な役割を果たしていたこの当時、

この工事がなければ、日本橋や神田から万世橋を経て秋葉原界隈の発展はなく、よって、万世橋駅や周辺地域が近年、交通の要所と言われる一時代もなかったのかもしれないと思ったりします。


水路によって、国を治めるものの危機管理と地域発展の双方を満たすと言う手法は、あの当時の生活技術による必然であったのか思います。

しかし、このような構想は誰によって、どのように画かれたのかええ!!

研究している方はいらっしゃるのではないでしょうか?


このあたりの地形も、これらの工事によって大分変わったようです。

現在の岩本町に、神田お玉が池というのがあったそうです。

それも、

「徳川幕府は江戸入府以来、家康・秀忠・家光という3代にわたって近代都市「江戸」の基盤建設を推進しました。この「天下普請」の初期の段階で旧石神井川は付け替えられて隅田川と合流させられましたが、下流域にその名残として「お玉が池」ができてしまったようです。しかし、急膨張を続ける「江戸」はあっという間にその「お玉が池」も飲み込んでしまい、寛永年間には寺町になっていたという訳です。

「江戸」は今も昔も変化の早い街といえそうですね。」

とのこと、詳しくは、千代田Day's

http://chiyoda-days.jp/future/staffblog/walkabout/post-13.htm

をご覧ください。

駿河台と湯島が神田川によって分離されたというのも、その意図や派生する影響などについて、興味深いです。


私がとって付けたご説明をするまでもなく、神田の歴史は、実に大勢の方々が研究してくださっています。

このように愛される神田という町、

タダモノデハナイ!!

と、常々感じます。


最近の神田界隈のタイムリー情報&いにしえのイマジネーションは、ミナコさんのブログ

http://ameblo.jp/minako-walker/

のチェックをオススメします。

よくここまで把握していらっしゃると、感心至極です。

また、ふと気がついたころから結構年月がたった、神田まつやの並びにある「トプカ」というカレー屋さん、秋葉原駅に新たに出現したatre1の一階に、カレー屋「須田町代表」として名を連ねているのを見て、仰天しましたみかん

が、このお店についても、以前から他の方のブログで評判になっていましたおいしい

神田地域を実地検証してくださっている石川さんとはまた異なる視点において、

皆様がそれぞれに興味の広がる地域特性を語ってくださり、

変化を伴いつつも神田を愛してくださっているたくさんの方々の存在が目に見えて嬉しい限りです。


馴染みの景観において、

自由主義経済と市場原理に対する文化尊重が相いれないことは多く、

残したいものの中で、何が重要か、その判断はとても難しく、実現も困難という背景を擁しながら。


中野