三河路
中野の修論書き上げに伴い、
同期入学の仲間、今回は4人で
石川さんの根差す三河の地に
行って参りました。
石川さんの不調は仲間みんなの一大心配事でありましたので、
復調基調に嬉々として訪三したということになります。
到着した日は、幸運なお部屋で
涼やかに吉良港の花火大会を楽しむことができましたが、
翌日の高気温、高湿度&日差しと、冷気のON-OFFの過酷さに、
中野は帰りの新幹線の中で著しく不調となりました。
中野でさえ、、、と考えると、
旅程のコーディネート・お手配に運転すべてを請け負ってくださった
石川さんの疲労はいかばかりか
石川さんの復調を
大きく阻んだのではないかと、恐れおののいております。
ご都合よしではありますが、
どうか、大きなぶり返しがおきていないよう願うばかりです
中野の修論が「一般市民に」読んでもらう目的ゆえ、
最終提出までに訂正の必要な部分を見つけ出していただくお願いも兼ねて
まずは皆様に配布し、
また、道中5人で多岐にわたる議論を楽しむ旅路でした。
そして、唯一、全員一致の結論を見たのは、
「私たちって、みんな変わりモンだよねーーー」
ということでした。
だって、わざわざコストをかけて、
イヤな試験や数々のレポートに発表、
持論をこき下ろされる修論作成なんて、
普通の人はしませんよねーーー
特に、中野は修士の肩書きを持っても社会的なメリットが何にもありませんし
三河の地にある、石川さん一押しのカフェは、
海沿いの優雅な時間を堪能できる空間が用意されており、
そのセンスは、タダモノデハナイ
ゆったりと楽しむひと時となりました。
城郭風建築の外観の洋館「蒲郡クラシックホテル」、
うなぎの養殖場地帯、
蒲郡の港、
ラグーナ、
豊川稲荷に、
由緒ある島々を擁する三河湾を随所から見下ろせる
一帯の道々の地域特性などなど、
たくさんの見所に、
ホテル朝食のメヒカリのフライをはじめ、
地域の知る人ぞ知るふぐ料理も出す昼ごはん処での海鮮定食、
ミルクカキ氷蒲郡みかんシロップがけに蒲郡ミカンソルベ&スイカソルベ、
味噌煮込みうどんなどの食を堪能し、
次回は
名古屋の文化、モーニングと(中野の30年来の憧れ)、
味噌カツ
が課題となります。
しかししかし、
なんと、名古屋でモーニングが食べられるカフェがどんどん減少しているとの衝撃的なお話
うーーーーーん、
あと何年後にモーニングのハシゴしに行けるだろう
中野
三河っ子
石川です。
こちら三河地方南部ではただいま雨こそ降っていませんが、すごい湿度の上昇に驚いています↑↑
そんな三河出身者にありがちなのが、こんな会話シーン。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
自己紹介の時に
「出身は愛知です。」
と言ったら、相手に
「あ、名古屋の人ね!」
とオートで変換されてしまうんです
実際には三河地方は、名古屋から数十km以上離れているので、文化的に似たところもあれば異なる要素もけっこうあります。
それは言語をみてみると明らかです
三河弁では、
「無理だて」=(無理だよ)
「まああかんわ」=(もうだめだ)
のように、名古屋方面と共通して使われる表現もあれば、
「なにやっとるだん?」=(なにをしているの?)
「食べりん」=(食べなよ)
「ほうかん」=(そうなんですか)
などのように、この地域でしか話されない言葉も多いです。
ちなみに、生粋の三河人である私の祖母が、
「おおきん」関西弁からのなまり=(ありがとう)
「~ずら」静岡・山梨・長野弁=(~だろう)
を使っているのを耳にした時の驚きは、未だに忘れられません。
現在の三河ネイティブからは、残念ながらこの二つの表現はほとんど聞かれなくなってしまいました。
言葉って想像以上に広いエリアまで影響を及ぼしてきたんだなあと、その伝播力に感心しきりなのであります
古民家
石川邸は築80年でしたかーーー
すばらしい
先日、千代田区の耐震工事助成申請の時、
建築士さんたちとお話しながら、
ウチが築何年???
と数えていたら、
えーーーー??ウチって、ぼちぼち百年住宅!!?
ということになるらしいです。
なので、神田の附属屋としては昭和28年以来の半世紀以上商いをしておりますが、
それ以前からこの街角の景観を造って参りました。
でも、この地域の特徴的な看板建築のような建物ではないので注目されることはありませんが、
この地域は戦火に焼かれなかったため、ウチのような建物がまだちらほら残っています。
なぜ、戦火に焼かれなかったか!!?
と言うことについて、須田町のある町会のご年配の方が
「ウチの町会は、お稲荷さんが守ってくれたんだ
」
と、仰っていまして、
「えーーー、でもほかの町会にもみんなお稲荷さんあるんだけど、、、、」
と、いささか気が引けるご理解と感じておりました。
先日たまたま、ニコライ堂を拝観する機会がありました。
その際、使徒の方がニコライ堂の説明をしてくださる中で、
「関東大震災の時には尖塔が倒れてしまい、大掛かりな修復を施して、今の丸屋根の外観となったが、
戦時中、爆弾は、教会であるニコライ堂を避けて投下したといわれている」
とのご説明のクダリがあり、
「そうだったんだー」
と、いたく納得。
『お稲荷さんご利益』は八百万の神を認める中野としては好きな説なんですが、
説得力については、『教会破壊回避説』に軍配が上がります。
中野