入来院重宏のオフィシャルブログ -2ページ目

ヤギと男と男と壁と万里の長城

僕はBS放送でやっている面白そうな映画をHDD録画機にどんどん録りためて、暇な時間に見ている。
先日見た「ヤギと男と男と壁と」という米国映画には驚いた。
そのつまらなさに驚いた。
ジョージ・クルーニー、ユアン・マクレガー、ケヴィン・スペイシー、ジェフ・ブリッジス、スティーブン・ラングという堂々たる俳優が勢ぞろいしているので、期待度が高かった分がっかり度も大きかった。「山高ければ谷深し」とでも言おうか。
「『ヤギと男と男と壁と』(ヤギとおとことおとことかべと、原題: The Men Who Stare at Goats)は、2009年のアメリカ映画。ジョン・ロンスンによるノンフィクション本『実録・アメリカ超能力部隊』を原作としたコメディである。」 (ウィキペディア)
この駄作映画は確かにアメリカの超能力部隊の話だが、こんなの「ふざけた創りものの世界」だと思っていたら、どうやらノン・フィクションらしいのでさらに驚いてしまった。
なにせ映画では主人公のジョージ・クルーニーは、眼力で山羊を殺すことができるのだ。アメリカ超能力部隊は実在して、そこでは超能力兵士たちが戦闘訓練として山羊を眼力で殺す訓練をしているなんて、原作は読んでないが(読みたいとも思わないが)ちょっと信じ難い。
ところが驚くことはまだ続き、先日BOOKOFFでたまたま買った「発明マニア」(米原万里著/2007年発売)という本を読んでいたら、この「眼力による殺人」について、驚愕の事実が紹介されていた。
「最近プーチンが復活をはかるKGBは、昔から超能力者の発見、養成に理論と実践の両面から熱心に取り組んできたが、視線で人を殺す超能力者の開 発にも力を注いできた。わたしの手元には、そのことを裏付ける資料がある。長年のわたしの親友であるロシア人の研究者が送ってきてくれたものだ。彼は今年 三月、ロシア極東のハバロフスク市内のレストランで、そのような超能力者に出会ったというのだ。四人の凶暴な酔っぱらいに囲まれ、殺されそうになったごく 普通の中年男が一切相手に接触することなく一瞬にして四人をなぎ倒してしまったというのだ。(中略)一人は意識不明のまま死亡し、三人も要介護の精神障害 者になってしまった。」というのである。
さらに米原さんは、友人がこの中年男から伝授されたという、「眼力で人を殺す能力」を身につけるトレーニング方法 も紹介している。
真似されると個人的に困るので(とくに妻に知られると怖い)、このトレーニング方法については触れないが、たとえば、電車で向かいに座って いる人がよく見ると眼球を不必要にぐるぐる回していたり、レストランや駅のトイレに入ったら鏡の前でじっと自分の顔を睨み続けている怪しい男(あなたが女 性の場合は女)を最近よく見かけるなんてことが多発するようであれば注意しないといけない。自分の胸に手を当てて人の恨みを買うようなことをしていない か、殺されても文句がいえないような悪さをしていないかよーく考えた方がいい。かもしれない。
ちなみに最近僕は、他人と目を合わすことに若干恐怖を感じ始めている反面、止まっている扇風機をじっと見つめて『動け』と念じてみたりしていることがあることに気づいた。
僕は単純というか何かと影響を受けやすい性格である。
ところでこの米原万里さん(2006年満56歳没)の「発明マニア」は、サンデー毎日に2003年~2006年にかけて連載したものだが、今読んでも楽しいし、面白いアイデアが満載である。米原万里さん今更ながらに凄い才能だと思う。「国家的損失」いえるくらい惜しい人を亡くしました。

アイデアといえば、文藝春秋9月号に素晴らしいアイデアを発見した。映画監督の新藤兼人さんが「99歳の日本人への遺言」という記事の中で次のよ うなアイデアを披露している。「津波は大変だったと思います。歌ったり踊ったりするのもいいけど、もっと実際的に役にたつ案を出したいね。僕は万里の長城 を作ったらどうかと思う。青森の突端から関西、九州まで。幅は十メートル。ドライブウェイができるわけ。百姓の根性でね、ガーっと土着的にやるんですよ。 青森の突端から九州まで、幅が十メートル、高さは二、三十メートルで津波を見降ろす感じ。途中で船も人も出たり入ったりできるようになってましてね、津波 が来ても、来てるなぁと、上から見下ろせる。日本の土地はそういうところなんだから、逃げてちゃだめだね。向かっていかないと。「津波、何するものぞ!」 と。そんなこといったら、笑われちゃったよ。だけどここから逃げていくわけじゃないでしょ。ずっとこれから百年も二百年もここにいるんだからね。」
万里の長城を作る!?僕はこれは本当に凄いアイデアだと思う。文中にもあるように、笑われたのも事実と思う。多くの人が「非現実的」と思うに違い ないし、出来ない理由はいくらでも挙げられるだろうけど、実際に地球上には万里の長城という前例が存在しているのだから作れない理由はない。たとえ何十 年、何百年かかったっていい。現在だってスペインのサグラダ・ファミリアみたいに200年かけて作ろうという例もある。「その気になってできないことなど ない」と千年後の我々の子孫に思い知らせてやろうじゃないか。

言論後進国日本

最近本を読んでいて「あれ」と思うことがたまたま続いた。

1冊目は「新・堕落論」(石原慎太郎)

石原氏は、アメリカの「核の傘」は幻に過ぎないという。

そして、アメリカによる日本統治は実に巧みに、実に効果的に運ばれてきたものだとつくづく思うといい、その象徴的左証が広島の原爆死没者慰霊碑に記された「過ちは繰返しませぬから」という自虐的文言だという。

「世界で初めての原爆投下で、瞬時にして二十万余の非戦闘員を殺してしまったのはアメリカ人であって他の誰でもありはしない。あの強力な破壊兵器の使用について、それを過ちとして反省すべきはアメリカ人であって、その殺された相手の日本人であるはずがない。記念碑の文言の主語があきらかに違っています。」

僕もホームページのコラムで書いたが(7月10日)、石原氏が著書で取り上げたことで、多分また、碑文論争が活発になることと思う。

 

2冊目は、「報道災害(原発編)」(上杉隆・島賀陽弘道)

前に中国人経営者と飲んだときのこと、彼から「中国人は国の報道を全く信じていない。人民日報に書いてあることで正しいことは2つしかないと言われている。日付と天気予報だ。日本人はマスコミ報道をそのまま信じているから、むしろき厄介だ」という話を聞いた。

「報道災害」で、著者の一人である上杉隆氏が全く同じことを言っていた。

「何といっても日本と一番違うのは、中央電視台、新華社、人民日報を作っている記者も、書いている記者も、読んでいる読者も、全員「政府のプロパガンダだ」と了解しているところなんですね。そこをちゃんと認識している。「報道に真実はない」ということをみんなわかっている。だけど日本は政府のプロパガンダをやっていて、政治家も政府も官僚も記者も「政府のプロパガンダじゃない」と思って発表をそのまま書いている。」

氏はこの差は、日本ではまだ「ツイッターもインターネットも生活の中心部分にきていない」ことによるという。

今や言論分野も日本は中国に超されてしまった。

この2冊は必読である。

韓国の牛

農夫と1頭の牛の絆を描くドキュメンタリー「牛の鈴音」という韓国映画をご存知だろうか。
農村を舞台に30年間もくもくと働き続けた老牛と老夫婦の日常を淡々とカメラに収め、本国の韓国で驚異的な観客動員を記録した2009年公開の映画である。

週に一度、僕は「韓国の牛」になる。

僕は、毎週末土曜か日曜に家から約1.5kmの距離にあるスーパーマーケットに妻と食料の買出しに行く。
大人5人の1週間分の食料だから結構な量購入する。
重さにして20~25kgぐらいあるだろうか。
お米を買うときはさらに5kgぐらい重くなる。
この荷物のほとんどを僕が持ち、家までの道のり約1.5kmを運ぶ。
リュックに10kg程度背負い、両手に各5kg程度持つ。
左手にショッピングバッグ(財布ぐらいしか入っていない)、右手に日傘をさして颯爽と歩く妻の後ろを、うつむきかげんでのそのそ歩きの僕がついて歩く。
この哀れな僕の姿が映画「牛の鈴音」の老牛にそっくりなのである。
「韓国の牛」とは僕が僕につけた愛称である。

昨日、上野駅で両手に巨大な荷物をもった女性とすれ違った。
たぶん20代だと思うが、重い荷物に歯を食いしばって歩く彼女の前を軽そうなショルダーバッグの男性が颯爽と歩いていた。
カメラマンと彼女はその助手かなと勝手に想像したのだが、重そうな荷物を持つ彼女を見て「可哀想だ」という感情が湧かなかったことが意外だった。
妻に重い荷物をけっして持たせない僕が、大きくて重そうな荷物を男性に持たされている女性を見て何にも感じないというのはどういうことだろうかと考えてみたが、理由はきっと彼女の体格がよかったからだろうということで自分なりに納得した。
僕は妻に重い荷物を持たせたことがないが、それはきっと妻が小柄な女だからなのだろう。
妻が体格のよい女だったら買い物帰りに何も僕一人で20kg背負うこともなかったのだろう。
小柄な女は得である。

「ああ、誰か知っている人に会わないかな。俺のこの可哀想な姿を見て「入来院さんのところのご主人まるで「韓国の牛」みたいって噂してほしいなぁ」とか
「これで首に鈴をつけたら完璧な「韓国の牛」だなぁ」とか
今日の夕方スーパーからの帰り道、「夕立が降る前に帰ろう」とスタスタ歩く妻に聞こえるように大きな声で呟いた。