イ・ミニョンさんになった私
全20話24時間を4日かけて見た。
かみさんがいうことには「今回で7回目」とのこと。
人生短いのに冬ソナに150時間以上も費やしてよいのだろうか。
よいのである。全然よいのである。
世の中には、20回30回、いやそれ以上繰り返し見ている僕なんか鼻くそみたいな強烈な冬ソナ・ファンが世界には何万人もいるのだ。(調べたわけではないが)
24時間365日冬ソナしか流さないTV局だってきっとあるに違いない。(これも調べたわけではないが)
それほど冬ソナはファンは多いのである。
それほど冬ソナは素晴らしいのである。
冬ソナはTVドラマ史上の最高傑作である。
肩を並べる作品すらない。
チャングム(韓国)、24シーズン1(米国)、ジョージ・クルーニーが出てたER(米国)、刑事コロンボ(米国)、俺たちの旅(日本)、初代 ウルトラマン(日本)とか、心に残る傑作TVドラマはそれこそいくつも挙げられることができるが、冬ソナに匹敵するほどのTVドラマは地球に存在しない。
「ユジンにつられ泣き」
「轢かれても轢かれてもチュンサン」
「嫁においでよサンヒョク昼寝つき」
社会現象にもなった作品だがら当然だが、冬ソナは格言や諺にもなっている。(ちなみにこれらは僕の作ったもの)
最近は休業中だが、僕は2003年から2005年にかけて小さなライブハウスで「冬ソナ・ライブ」と勝手に命名したライブ活動を行なった。
自作自演のギター1本弾き語りライブである。
「冬そな」という歌まで作って歌っていた。(正式名を「冬に備える」という。)
僕はこのくらい冬ソナが好きなのである。
「俺は今、久しぶりに冬ソナを見ている。お前当然見たことあるよな」この週末一緒に飲んでいた友人Tに聞くと
「少しね」とこたえた。
少し?
少し見たというのは、全部は見ていないということである。
これはいけない。一瞬目の前が暗くなった。
T君これを読んでいたら、今からでも遅くないから冬ソナ全20話「頭のてっぺんから爪先まで」満遍なく見てください。
2003年NHKで放送された当初より「映画でいえば「風と共に去りぬ」や「ゴッド・ファーザー」みたいなもので、そのうち見ていない方が珍しい 一般常識みたいなものになるからできるだけ早いうちに見た方がよい」と冬ソナをことあるごとに勧めてきたので、僕のアドバイスに素直にしたがって冬ソナに ハマり韓国ドラマ通になった者や韓国の大ファンになってしまった者もいる。
また、反対にいくら勧めてもけっして見ないへそ曲がりも意外と多い。残念なことである。
というより美味いものが目の前にあるのに気づかないようなもの、実にもったいない。
わざわざ新潟まで来て八海山を飲まないで帰るようなものだ。
実は今回約5年ぶりに冬ソナを見て、ディテールはもちろんのこと、ストーリー展開さえも意外なほど忘れてしまっていて、自分の記憶力が著しく低下していることに面食らってしまった。
まるで僕自身が昔の記憶をなくしたイ・ミニョンさんになってしまったかのようだ。
しかし、そのかわり新鮮な目で最後まで楽しく見ることができたのも事実。
もちろん何度も「ユジンにつられ泣き」してしまった。
最後に「冬ソナのどこが好き」と聞かれれば、いくらでも話続けることもできるけど、ここはあえてイ・ミニョンさんのセリフを引用しよう。
「好きに理由はない」のである。
スーパーエイトって知ってるかい
「スーパーエイト」という米国映画が公開されているらしい。
評判も上々のようで興味もあるが、僕は多分WOWWOWで放送されるのを見ることになると思う。僕の映画鑑賞はBS放送が基本なので、新作を見るのは、大抵の場合公開から1~2年遅れとなる。
ところで「スーパーエイト」という映画タイトルを見てすぐに8ミリ映画と関係あるストーリーだとピンときた人は少なかったのではないか。
なにしろ家族の動画記録は「ビデオカメラが当たり前」になってからすでに20年以上経っている現在、8ミリ映画はほとんど作られていないはずだから「スーパーエイト」という単語自体とっくに死語となっている。
現在8ミリ映画が作られていないのには、一般人が気軽に使える映像媒体がビデオに取って代わられただけではない。第一に8ミリ映画の機材やフィルムを手に入れることが非常に困難だし、第二に仮に撮影することができても8ミリフィルムを現像してくれる業者がいないのだ。(現在、日本で8ミリ映画のフィルムや現像を扱っているのは、東京墨田区の「レトロ通販」という業者だけみたいだ。)
もともと需要が減ったから8ミリ映画に関する機材やフイルム、現像サービスが市場から消えていったのだが、今では8ミリ映画マニアや映画製作初心者が8ミリ映画を作りたくても作れない「世の中から8ミリ映画が(ほぼ)完全に消えてしまった」という行き過ぎた状況にまでいってしまった。
8ミリ映画のフィルム規格には大きくスーパーエイトとシングルエイトの2種類あった。(ずっと過去にはダブルエイトという方式もあった。)
スーパーエイトはコダック社、シングルエイトは富士フィルム社が開発した。
この2種類の規格には、そもそもフィルムメーカーが違うのでフィルム性能(発色等)自体に大きな違いがあったが、スーパーエイトは一軸方式、シングルエイトは二軸方式という機構にも大きな違いがあった。規格が異なるため、カメラもスーパーエイト仕様とシングルエイト仕様の2種類存在した。(シングル方式は富士フィルムのみ、スーパー方式のメーカーは数多く存在し、日本のカメラメーカーではたとえばキャノンとニコンはスーパー方式だった。)
二軸はカセットテープと同じ仕組みなのでフィルムの巻き戻しが可能だった。巻き戻しが可能というのは具体的に何ができるかというと、二重露光ができるのだ。二重露光ができるとどんな効果を作ることができるのかというと、たとえば映画タイトルを実写に被せることができるのだ。
二重露光ができるというのは非常に魅力で、タイトル撮影の他にも様々なトリック撮影が楽しめたが、一軸は巻戻しが不可だったので、スーパーエイトの場合は技術的に大きな制約があった。
僕は高校~大学時代に8ミリ映画を作っていた。高校時代も大学時代もクラブ活動として映画研究会(映研)に属していたし(といっても高校時代はサッカー部と軽音楽部との掛け持ちだった。)、大学時代には、他に高校時代の仲間と大学の同級生を中心に約10人からなる「ショット」という映画製作の自主サークルも運営していた。
高校時代は、映研の所有するカメラがたったの1台でしかもシングルエイト方式
だったので、当然映画もシングルエイトで作っていた。(ちなみに同級生の多くが受験勉強を勤しんでいる高校3年の夏休みに8ミリ映画で「アルジャーノンに花束を」(原作ダニエル・キイス)を作った。僕は主役を演じてかなり好評だった。)
一浪して武蔵大学に入学し、さっそく映研に入会すると、母から資金援助を得て8ミリカメラを購入することになった。僕は、ここで初めて8ミリフィルムにはスーパーエイトという方式があることを知った。ようするに2種類の規格からどちらかを選択しなければならなくなったのだ。
使いやすさや機能から判断すれば当然シングルエイトを選択するところだが、映研の先輩たちの作った映画を見て、コダック社のフィルムの色の方が富士フィルム社のフィルムの色よりも深みがあるように感じて僕は気にいった。
悩みに悩んだあげく僕はスーパーエイト方式を選択し、キャノンの1014XL-Sという、当時の最高級機(といわれていた。)を購入した。(今更ながらに母に感謝-その母も5月に亡くなった。)
ところで8ミリ映画ついでに自分の自慢話をすると、僕が大学生だった当時はいくつかの8ミリ映画コンクールがあり(今だに存在するのは「ぴあフィルムフェスティバル」ぐらいか。)、大学2年の夏に作った「アブストラクト」という短編映画が1983年の「ヤングジャンプ・シネマ・フェスティバル」(集英社)で入賞した。(賞金10万円)
「アブストラクト」は、作った本人がいうのもなんだが「真の傑作」であった。公開されて30年近くなる今でも機会ある毎に「いまだにアブストラクト以上に腹の底から笑った映画はない」と多くの友人たちからお褒めの言葉をいただく。(「多くの」というのは大袈裟であるが。)
なにしろ、ヤクルトホールの壇上であの天才漫画家の故赤塚不二夫さんに激賞に近い褒められかたをしたのだからどれほど面白い(ばかばかしい)映画か想像つくというものだろう。(ちなみに映画評論家の小森和子(小森のおばちゃま)にも褒めていただいた。)
このとき一緒に入賞した作品に「すしやのロマノフ」という作品(僕の作品に劣らずの傑作だった。)があり、作った田中誠さんという人がその後プロの映画監督になってご活躍されていたということを最近知った。(田中誠 http://macoto.system.to/)
夏はカルピスでしょう
10年もやっていると僕のところのような小さな事務所でも「暗黙の了解」みたいないろいろな約束事が自然と出来上がってくる。
たとえば、夏の飲み物である。
毎年7月の初めになると、JA愛媛から「愛媛みかん・いよかん混合ジュース」1箱250cc缶30本入5箱がドンと送られてくる。もちろん僕が注文するから送ってくるのだが、これをさっそく冷やして仕事中にグイグイ飲む。暑い中、外回りから戻って飲む冷たい「みかん・いよかん混合ジュース」は最高に美味しい。お客様にも「どうぞ」と缶ジュースを差し出す。例外なく皆さん「おいしいおいしい」と喜んでゴクゴク飲む。
こうやって、あんまり美味しくて皆がゴクゴク・グイグイ飲むものだから150本の缶ジュースが8月を待たずに底をつく。
愛媛みかん・いよかん混合ジュースを飲み干すと、次は「カルピス」である。
「初恋の味」のあのカルピスである。
事務所には氷がないので紙パックのカルピス原液を冷やしたミネラルウォーターで割って飲む。氷とコップが奏でる「カラカラ」という涼しげな音は楽しめないが、冷たくて程良く薄められたカルピスは文句なく美味しい。もちろんカルピス原液も冷蔵庫で冷やしておく。僕は心もち水を多くカルピスを薄めに割る方が好きだ。
「初恋の味」はいつだってさっぱりしていなければならない。
僕にとってカルピスはまさしく「夏の風物詩」である。
海水パンツをはかない夏はあっても、カルピスを飲まない夏はない。
カルピスは僕の人生のごくごく初期に登場する。半世紀近くも前の話になるが、僕が通っていた保育園(多摩小ばと保育園)では毎年お盆近くになると、いろいろなお菓子の詰まった袋とカルピスの小瓶が1本配られた。(お菓子袋には「(グリコの)ビスコ」とか「(醤油味の)揚げせんべい」とか入っていたことを記憶している。)
僕は保育園に3年間通ったから、この保育園からのプレゼントは、4歳から6歳まで合計3回もらったことになるが、この「カルピスとお菓子をもらって嬉しかった」という思い出がほとんど僕の思い出すことのできる最古の記憶の一つである。
子供の頃、父の部下からだと思うが夏にお中元がいくつか届いた。その中に必ずあって僕たち兄弟を喜ばせたのがカルピスの詰め合わせだった。普通のカルピス2本にオレンジやグレープのカルピスが各1本入っているような詰め合わせセットが毎年二つ三つ送られてきて育ちざかりの子供たちは夏休みの間ゴクゴク飲み続けた。
今はどうか分からないが当時は「子供のいる家庭にはカルピス」というのはお中元の一つの定番だった。
確か小学2年生のときだったと思うが、夏休みの作品としてトンボや蝶やセミを採集してカルピスの空き箱(段ボール箱)に虫ピンで止めて昆虫標本を作った記憶がある。
カルピスには、空き箱にすら遠い日の懐かしい思い出があるのだ。
「カルピスは初恋の味」というのは洒落たコピーだけど、たしかに僕にもカルピスと切ない恋が交差する思い出がある。
高校時代は吉祥寺が遊び場だった。僕は奥手だったので高校時代は彼女がいなかったし、(たんにもてなかっただけとも言われている。)女の子とデートをしたことすらなかった。(やっぱりどうも本当にもてなかっただけのように思われてきた。)
いつも誰かには恋していたので(いつも片思いということ。)、臨戦態勢をとっていたとでもいうのだろうか、デートに行く場所は綿密に計画していた。
① (朝10時)吉祥寺駅中央改札口で待ち合わせ
② 井の頭公園を散歩する(変な噂があったので貸しボートには乗らないことにしていた。)
③ 井の頭公園そばの「糸切り団子」(知る人ぞ知る渋いお店があった。今もあるかも)に寄ってお茶と団子を楽しむ
④ 井の頭自然文化園(小学校1年の最初の遠足はここでした。)で象のはな子に挨拶
⑤ (お昼ごはん)お好み焼きハウス「コンパス」でお好み焼きを御馳走する
⑥ ジャズバー「ファンキー」でホットカルピスとショートケーキを楽しむ
これが当時(高校三年生頃)僕の計画していた(最強の)デートコースだ。
中でも「糸切り団子」と「ファンキーのホットカルピス」は『入来院くんてなんてセンスいいのっ!』と思わせるためにも絶対に外せないと考えていた。
また、もし、相手の子がロック大好き少女の場合にはオプションとして「赤毛とそばかす」(大音響ロック喫茶)に連れていくことにしていた。
計画を実行に移すときは19歳の夏に突然やってきた。何をきっかけにデートに誘ったのかは忘れたが相手の女性はかなりの美形でかつ可愛らしい子で初デートには申し分のない女の子だった。
計画は完璧に実行できて僕は大満足だったが、二度目のデートには彼女が待ち合わせ場所に現れず、結局その子とはそれが最初で最後のデートとなってしまった。(後日、デートに来なかったことの言い訳がましい手紙が届いた。誠意は感じられたが好意は感じられずこの恋は断念)
僕の初デートの思い出は、甘く切ないホットカルピスの味がするのである。
作家の山口瞳さんは何かで「カルピスは恥ずかしい」と書いていた。
山口さんの話ではカルピスの全盛は大正時代のハイカラな時代だったとのことで、だから恥ずかしいというような、そんな理由だった。
もっとも山口さんは大酒のみだったから、「初恋の味」なんて、たんに「いい歳した男が飲むものじゃない」そういうことだったのかもしれない。
僕からするとカルピスの全盛は僕の幼少時代(1960年代)だと勝手に思っていたから何とも息の長い飲み物だと単純に感心しちゃうし、カルピスで育った男(今だにお腹回りは育っている)としてはカルピスを恥ずかしいなどとは口が曲がっても言えない。