杉原学の哲学ブログ「独唱しながら読書しろ!」 -8ページ目

2020年11月19日から始まったパステル画展「だいたい十条」。12月9日に無事終えることができました。会場に足を運んでくださったみなさま、場所を提供してくださった「梅の木十条店」のマスター、スタッフのみなさま、何かと気にかけてくださったみなさま、本当にありがとうございました!感想はもう「楽しかったー!!」のひとことに尽きます。

 

 

 

 

今回の個展でお世話になった方々、そして「行きたかったけど行けなかった〜!」という方々へのご報告も兼ねて、このあたりでパステル画展を少し振り返ってみようと思います。ちょっと長くなりますが、おつきあいいただければ幸いです。

 

<絵の販売について>

展示した絵は12枚で、最終的に4枚の絵をご購入いただきました。買ってくださったみなさま、本当にありがとうございました!

 

 

画像6

画像5

画像4

画像3

 

 

値段は1枚1万円。「初心者がよくそんな値段つけたな!」と言われそうですが、いや、ほんとにそうですよね(笑)。

 

「せっかくやるなら販売もしよう」というのは最初から決めていたのですが、値付けにはけっこう悩みました。絵を描くのも初めてなら、それを販売するのも初めて。どれくらいの値段にすればいいのか、さっぱり見当がつきませんでした。

 

そこでまず参考にしたのは、パステル画を始めるきっかけとなった坂口恭平さん。彼は原画を1枚15万円で販売しているそうですが、その坂口さんがパステル画を始めたのは確か今年の5月。ちなみに僕が始めたのは9月。

 

「じゃあ、僕も3万円くらいで販売すればいいかな?」と安易に考えたのですが、それをアートに詳しい友人に話したら、マジでドン引きしていたので(笑)、ちょっと考え直すことにしました。

 

よく考えたら坂口さんは僕と違って有名人ですので、そもそも参考にする人を間違っていました(笑)。そしてちょうどその頃、たまたま表参道あたりにある画廊を覗く機会がありました。

 

すると、プロが描いたであろう絵でも、1万円そこそこで売っているではありませんか。もちろんめちゃくちゃ上手です。友人がドン引きしていたのも納得です(笑)。それからネットでもいろいろ調べてみて、最終的には「絵の値段に確たる基準はないらしい」ということがわかりました(笑)。

 

1枚3千円〜5千円くらいで販売する人もいるそうですが、この世にたったひとつの原画がその値段では、ちょっとトキメキがありません(笑)。そして僕が何より心配したのは、「正直ぜんぜん好きな絵じゃないけど、まあせっかくだから……」と、いわゆる「おつきあい」で絵を購入されることでした。

 

本当は気に入っていない絵を買うことは、買った本人にとっても、作者にとっても、絵にとっても残念なことになりかねません。僕の知り合いは優しい人ばかりですので、もしかすると「思いやりだけで絵を買ってくださる」ということがないとも限りません。

 

そこで考えたのは、「おつきあいで買うには明らかに高すぎる(作家もそれを期待していないことがわかる)値段」だけれども、「本当に気に入ってくれた人にとってはお手頃価格」、それでいて、売れた時に僕が「わーい!」と思える値段設定。そのバランスから導き出されたのが、「1枚1万円」という金額でした。

 

細かいのが苦手な僕にとって「1万円」はなかなかいい数字です。ちなみに僕は消費税が大嫌いで、あの細かい数字を処理する手間や時間、わずらわしさからくる精神的ストレスは、消費税による税収よりもはるかに高コストになっているのではないか、と本気で思っています(笑)。

 

なにはともあれ、1枚1万円という値段にはそういう背景があったのでした。

 

<再会のきっかけとして>

今回パステル画展をやってよかったことのひとつに、「ご無沙汰していた方々と久々にお会いするきっかけになった」ということがあります。

 

前に住んでいた家のご近所さん、大学院時代の学友、以前の職場の同僚、友人のお母さんなど。特に職場の同僚は、同じ会社の同僚ではなく、3つの別の会社の同僚でした。「どんだけ会社を転々としてきたんだ!」と自分に突っ込みました(ちなみに30社以上)。その中で、今でもつながりのある同僚と出会えたことは、本当に幸運なことだったと思います。

 

それは時に、「今回会わなければ、もしかすると一生会わなかったかもしれない」というような再会だったりもします。この価値はもはやプライスレス。僕も死ぬ直前に一生を振り返る機会があったら、「そういえば、梅の木でパステル画展やったなあ。いろんな人が来てくれたなあ……」と思い出すに違いありません。もはや個展は大人の必修科目にした方がいいのではないか、と思うほどです。……いや、それは言い過ぎだな(笑)。

 

ご来場くださった人数が一番多かったのは、初日の11月19日でした。しかもその日に来てくださった方が、さっそく絵を1枚購入してくださったのです。「幸先がいい」とはまさにこのことで、「きっとこの個展はうまくいくな!」と確信したのもその時でした。

 

もちろん買ってくださった方は、そういうことも含めて考えられていたのかもしれません。買ってくださると聞いた時に、思わず「本当にいいんですか?絶対気を遣わないでくださいね!」と何度も確認してしまいました(笑)。このへんが、僕の商売人として上手じゃないところですね。

 

来てくださった方の多くが、空の表現を褒めてくださったのですが、初日に来てくださったある方は、「杉原さんの空は、ちゃんと宇宙とつながっていますね」と言ってくださいました。そして僕の描く空を「スギハラ・ブルー」と名付けてくれたのでした。僕が個展の間、むやみやたらに「スギハラ・ブルー」を連呼し続けたことは言うまでもありません(笑)。

 

 

11青空と十条銀座

 

 

本来ならば、人生初の個展ですので、大々的に宣伝して、どうしても来て欲しい人には個別にご連絡したりするところだと思います。しかし今回はこのコロナ下。あまり積極的にお声掛けすることもためらわれ、ひとまずTwitterやFacebookで開催告知をする程度にとどめました。

 

幸いにも会場である「梅の木十条店」は、喫茶店としてはかなり広く、じゅうぶんな距離をとることができます。こまめな消毒や換気などは言うまでもなく、コロナ対策にはそうとう気を使われています。

 

とはいえ、この難しい状況の中、最大限の注意を払いつつ足を運んでくださったみなさまには、本当に感謝の気持ちでいっぱいです。コロナの収束が見えない中で、まだまだ油断できない日々が続きそうですが、人間が健やかに生きていく上で、直接人と会うことの大切さを改めて実感した次第です。

 

<「感想ノート」を置いてみた結果>

個展の会場でよく見る「感想ノート」。最初は置くつもりはなかったのですが、会場の準備を終えた段階で、マスターが「感想ノートは置かないんですか?」とお声掛けくださいました。

 

それに対して、「だって、ディスられたらイヤじゃないですか。『描き始めて2カ月の初心者が値段つけてんじゃねーよ!』とか書かれたら立ち直れないっすよ〜云々……」とネガティブなことをブツブツ言っていると、「大丈夫ですよ(笑)」と背中を押してくださいました。「素直が服を着て歩いている」と評判の僕は、言われるがままに「感想ノート」を置くことにしたのでした。

 

 

画像7

 

 

結果、これが大正解!僕が在店していない時に来てくれた友人がメッセージを残してくれたり、「Twitterを見て来ました。お汁粉良いですね♪」「気まぐれに寄ってみたら……よかった!」などのコメントを書いてくださる方もおられました。

 

焼き鳥「けん助」の大将が来てくださって、僕が描いた「けん助のししとう」について、「本物以上の描写でとても感動しました」と書いてくださったのには笑いました。いやいや、本物の方がぜったい素晴らしいですから!!(笑)

 

 

4けん助のししとう

 

<非売品が売れてしまった>

この「けん助のししとう」、個展が終わったら「けん助」の大将と女将さんにプレゼントしようと思って、値段をつけず「非売品」にしていたのでした。それを見た大将が「これは非売品なんですか?」とおっしゃるので、「いや、実は個展が終わったらお伝えしようと思ってたんですが……」と、プレゼントしようと思っていたことを話すと、「いや、買わせてください」とおっしゃる。

 

「いやいや、これは最初からプレゼントするつもりでしたので……」とお断りしようとしたのですが、どうしても、とおっしゃってくださって、結局ご購入いただくことになりました。

 

個展終了の翌日、絵を届けるという口実のもと、「けん助」の焼き鳥を堪能しました。その時に「けん助のうずら」を一緒にプレゼントしようと持っていったら、なんとこちらまでご購入いただくことに……!!結果的に、むしろ僕が押し売りに行ったみたいな形になってしまいました(笑)。

 

もちろん、この2枚の絵の売上は全て、「けん助」での飲食に利用させていただくことにしました。僕が日本一の焼き鳥屋だと思っている「けん助」で、心置きなく最高の焼き鳥を堪能できる……。こんな幸せが他にあるだろうか。いや、ない。大将、女将さん、本当にありがとうございました!

 

 

7けん助のうずら

 

<ポストカードの販売>

個展の会場では、ポストカードや書籍の販売もさせていただいたのですが(5枚セットで500円)、なんと!個展終了後も、十条のセレクト雑貨のお店「ダイアログ」さんで、ポストカードを販売していただけることになりました!

 

 

ポストカード

 

 

「こんなセンスのいい店に、僕のポストカードを置いてもらっていいのか……?」と思うほどの素敵な品揃え。お店に入ったら心がウキウキ楽しくなること間違いなしの雑貨店さんです。お近くの方はぜひ足を運んでみてくださいませ!

 

 

クリスマス

アクセ

財布など

 

 

遠方にお住まいで、「ちょっと十条まで行けまへんわ〜」という方は、こちらまでご連絡いただければ郵送でお送りいたします。お支払い方法など返信にてお伝えいたします。お値段は、1セットでしたら500円+送料84円(計584円)、2セットでしたら1,000円+送料94円(計1,094円)になります。

 

<ヤギサワバルでの再展示が決定!>

「今回は行けなくて残念でした〜!」という声もたくさんいただきましたが、安心してください!すでに第2回の展示のオファーをいただいております!会場は、西東京市の西武柳沢駅から徒歩4分、最高に美味しいクラフトビールが飲めるビアバル「ヤギサワバル」です!

 

 

画像2

 

 

開催時期などはまだ未定ですが、お近くの方はフラリとお立ち寄りくださいませ。都内ではここでしか飲めないパラダイスビアは、「究極のビール」と紹介されることもある上質なクラフトビールです。ほろ酔い気分で僕のパステル画を眺めれば、まるでゴッホ作のように見えるかもしれません(笑)。

 

<WEBパステル画展の開催も>

来てくださった方、来られなかった方から、「絵の解説動画をやって欲しい!」という声をいただきました。自分の絵を解説する気は全くなかったのですが、「面白がってくれる人がいるならやってもいいかな」と思いました。ただ動画は不慣れなので、このブログなどで、WEB展示会のような形でやれたらいいかな?と思っています。その際はぜひ覗きに来ていただければ幸いです。

 

ポストカードだけでなく、絵の購入をご希望の方も、こちらまでご連絡いただければ対応させていただきますので、お気軽にどうぞ。

 

以上、長くなってしまいましたが、今回のパステル画展「だいたい十条」の感想とご報告でした。お世話になったみなさま、きにかけてくださったみなさま、本当にありがとうございました!

 

【追記:2020.12.17】

パステル画展を疑似体験できる、【「だいたい十条」WEB鑑賞会】をご用意しました!絵の解説もじっくりさせていただきます!よかったら下記のリンクから覗いてやってくださいませ!

 

 

 

10あの日のお富士さん

梅の木十条店で開催中のパステル画展「だいたい十条」。11月19日からスタートして、いよいよ終盤に近づいてきました。最終日は12月9日。すでにたくさんの方に足を運んでいただき、感謝・感激・雨・A・RA・SHIです。

 

付き合いの長い方はご存知かと思いますが、僕はこれまで絵とはほとんど無縁でした。それだけに、今回パステル画を描き始めて、いろんな発見がありました。せっかくなので、それをちょっと書いておこうと思います。

 

パステル画を描き始めたきっかけ

 

パステル画を描き始めた直接のきっかけは、2020年9月に開催された坂口恭平さんのパステル画教室(ネット配信)に参加したことでした。

 

でも実はその前から、「絵を描きたい欲求」は高まっていたようなのです。7月17日には、なんとなく部屋にある観葉植物を描きたくなって、鉛筆で下手なデッサンをしていたのでした。それがこちら。

 

 

友達にこの画像を送ったら、「コメントに困るやつですね……」という困惑の返信がありました(笑)。

 

これまで、「絵を描きたい」と思うことはあっても、実際に描くことはまずありませんでした。なんとなく時間をもてあましていたこともあったと思いますが、それにしてもこの僕が絵を描くなんて……と不思議に思っていたのですが、ひとつだけ心当たりがありました。それは、僕の部屋に飾っている岩崎有ニさんのポストカードです。これ、絵じゃなくて写真なんですよ。

 

 

岩崎さんは僕の尊敬する現代美術家で、『かがり火』の対談でお話をいろいろ聞かせていただきました。もしかしたら、部屋に飾っている彼の作品のポストカードが、僕に何かしらの影響を与えているのではないか? そう考えると、スッと腑に落ちるところがありました。

 

やっぱり本物のアーティストの作品は、人の感性や潜在意識に影響を与えるのだと思います。岩崎さんの作品を用いたグッズなどは、こちらの「イワサキ・アシカ堂」から購入できますので、もし興味のある方はのぞいてみてください。じわじわと「何か描きたいな」という気分になってくる……かもしれません(笑)。

 

坂口恭平さんのパステル画教室で学んだこと

 

「躊躇しないこと」

「反省しないこと」

 

坂口さんがパステル画教室でおっしゃっていたルールです。

 

これが気持ちをとても軽くしてくれて、あまり気負わず描き続けることができた気がします。そしてこの2つのルールは、絵を描くときだけではなく、人生そのものにも活かせると感じました。

 

やりたいことをやろうとするとき、時間が経つほどに「失敗したらどうしよう」などという恐怖心に襲われます。だからその前に、躊躇せずやってしまう。心のままに。

 

そしてその結果に囚われるのではなく、とにもかくにも「継続すること」。後ろを振り返って反省するよりも、次の作品に取りかかる。わざわざ反省しなくても、その継続の積み重ねは、おのずと次の作品に活かされるというわけです。これは坂口さんが直接そうおっしゃっていたわけではなく、僕が勝手にそう解釈しただけですので、クレームはこちらへお寄せください(笑)。

 

他にも坂口さんはこんなことをおっしゃっていました。

 

「楽しくなかったら違うことをする」

「面白ければ全てよし」

「自分と打ち合わせしない。その時の自分を信じる」

 

これもまた、愉快な生き方に通じる言葉だなあと思いました。

 

気づいたら左手で描いていた

 

ここからは、自分でパステル画を描いていて気づいたことです。

 

まず自分でびっくりしたのは、いつの間にか「左手で描いていた」ということ。

 

僕はもともと左利きで、ボールを投げるのも蹴るのも左なのですが、よくあるパターンで「書く」ことと「食べる」ことだけは右手に矯正されたのです。だから学校の美術の時間でも、やっぱり右手で筆を持って絵を描いていました。それは、鉛筆とお箸を右手で持っていたのと同じ感覚です。

 

しかしパステル画は、「描く」というより「塗る」という感じだからか、なんとなく左手にパステルを持って描いていました。そのことに途中で気づいて、右手に持ち直してみると、なんとなく気持ちが悪い。やっぱり左手で描くほうがしっくりくるし、気持ちがいい。まあもともと左利きなので、当然といえば当然なのですが。

 

だから多分、僕にとって、パステル画は「運動」に近いのだと思います。つまり「蹴る」とか「投げる」とかと同じカテゴリーです。それに対して、「書く」ことは運動ではなく「記号の記述」です。記号はとにかく伝わればいいのであって、その「質」は問われません。だから右手で書くことにもそれほど抵抗がないのではないでしょうか。

 

それに対して、感覚を運動で表現しようとする時には、やっぱり僕の場合、左手じゃないとしっくりこないのだと思います。さらに、「左手は右脳とのつながりが深い」というような話も聞きますが、そのへんはよくわかりません(笑)。

 

いずれにせよ僕は、「いつの間にか左手で描いている」という事実を通して、自分にとってパステル画は「運動」であり、それは知性の働きというよりは、感性や身体性の働きなんだ、ということに気づきました。

 

「物」ではなく「光」を描いている

 

絵を描いていると、自分がふだん、いかに物や景色をちゃんと見ていないかがよくわかります。

 

木でできた橋でも、場所によっては青みがかって見える部分もあるし、坂口さんが「空だからといってそのまま青で塗らないように」とおっしゃっていたように、空の色もよく見ると千差万別。単色の皿を描くにしても、その光の当たり方によって、多様な色合いを表現しなければなりません。

 

そうすると、「あ、僕たちは物を見ているんじゃなくて、光を見ているんだ」ということに気づきます。極端に言ってしまえば、「物そのものの色は存在しない」。色というのは、「光と、物体と、それを見る主体との関係」として現れてくるものであって、それそのものの色というものは「存在しない」。だから「りんご=赤」とか「空=青」というのは、僕らの頭の中にしかないイメージであり、概念でしかない。そんな色は「存在しない」。

 

坂口さんも「光の方向を確認すること」の大切さを強調していましたが、まさに見ることとは光を見ることにほかなりません。だから「ししとうだから緑だな」と頭で理解してその色を塗ると、その絵はリアリティーを失います。そこに現れている色を概念で捉えると、それはとたんに具体性を失うのです。

 

これは実は「時間」についても同じことが言えます。僕らが生きる時間というのは、この世界と自分という主体との関係そのものであり、「同じ時間」というのは存在しません。それは「同じ色」が実は存在しないのと同じことです。そもそも「同じ」という発想自体が、人間しか持ち合わせていない概念の産物であり、フィクションなのです。これは養老孟司さんがことあるごとに主張していることでもあります。

 

にもかかわらず、僕らは数字などの記号を使うことによって、「時間」を他のものと等価交換できるようになりました。この「時間の記号化」によって、「個人が時間を所有する」という近代的な発想が成立します。それは一面において「自由」の享受ですが、他方では、人間そのものの記号化を可能にし、交換可能な存在にしてしまいました。このことが、現代における人間疎外の一番根源的な要因だと僕は思っています。

 

……と、あまり時間論に深入りすると面倒なので、このへんで本筋に戻ります(笑)。

 

そう、「絵を描くということは、光を描くということなのだなあ」と、パステル画を描いていて思ったのでした。それは対象そのものを写し取ることではなく、世界と自分との関係を描くことにほかならないのでした。

 

結果は最後までわからない

 

絵を描いている途中で、「なんか、全然うまく描けていないような気がする……」と思うことがあります。でも、とりあえず完成させようと思って描き続けていると、途中で急に完成度が高まる瞬間があったりします。そうすると、「ああ、あそこでやめなくてよかった……」と心から思います。

 

それは途中から上手く描けるようになったというより、「最初の下地が後で生きてくる」ということのような気がしています。これもけっこう人生に通じることなのではないでしょうか。

 

生きていると、「とてもじゃないけど、この先いいことがあるとは思えない……」という瞬間があったりします。けれども後になると、「いや、あの最悪の出来事のおかげで、今の自分があるなあ」と思えたりすることもあります。

 

何でも最後までやってみないとわからない。最悪の出来事が最高の布石になることもある。絵にも、人生にも、そういうところがあるような気がします。

 

「粉問題」は解決ならず……

 

そんなこんなで、パステル画はとても楽しいのですが、困ったこともあります。それは、描いていると粉が大量に出てくることです。しかもその粉を息で飛ばしながら描くので、粉が部屋に飛び散ることになります。

 

専用のアトリエがあればいいのですが、自分の部屋でやっていると大変です。僕は一応新聞紙を敷いて作業していましたが、それでも完全にカバーできるわけではありません。あとで床を拭くと、やっぱり粉がたくさん落ちていました。それを吸ってしまうと体にもあまりよくないでしょうし、服が汚れてしまうという問題もあります。自分ひとりならまだしも、もし友達が遊びにきた時にはちょっと困ってしまいます。

 

というわけで、自室でずっと続ける上では、パステルはなかなか難しい画材だなあ……という気がしています。もしアトリエを用意できれば別ですが、もし自室でまた描くとしたら、今度は粉が飛ばないオイルパステルを使ってみようかな、と思っています。いずれにせよ、しばらくは本業である執筆業に戻ろうと思います(笑)。

 

おわりに

 

けっこう長くなってしまいましたが、パステル画を描いてみて気づいたことを書いてみました。他にもいろいろあった気がしますが、とりあえずこんなところで。パステル画展が終わったら、その感想も改めてここで書いてみたいと思います。長々とお付き合いいただきありがとうございました!

 

パステル画展は12月9日までやっていますので、よければ遊びに来てください〜!

 

 

さまざまな職業とその「なり方」を紹介してくれる、「なるにはBOOKS」シリーズの1冊。

 

漠然と「作家になりたい」と思ったことのある人はけっこういるかもしれないが、実際に作家がどのような生活をしているかを知っている人はあまりいないだろう。その意味でも、作家の具体的な日課が、大まかながら紹介されているのは気がきいている。簡単に抜粋するとこんな感じである。

 

【篠田節子さん】

7時半:夫を送り出す。

8時15分:自宅でワープロに向かう。午前中いっぱい原稿を書く。

午後:図書館で調べものをしたり、買い物をしたりする。

 

【保坂和志さん】

午前10時:起床。朝食。

12時30分:仕事開始。日没までが仕事時間。原稿用紙3枚から5枚ぐらい。

 

【貫井徳郎さん】

午後:自宅から歩いて20分ほどの仕事場に行く。

午後1時〜4時か5時:執筆。1日10枚が目安。

 

実際にはもっと詳しく書かれているけれども、本書の出版は2004年なので、現在では彼らの日課も変わっているかもしれない。だがいずれにせよ、日課マニアの僕にとっては、作家たちが何時に起き、何時間仕事をして、何時間寝るのかという情報は、とても興味深いものである。

 

その職業を目指すときに、その職業の具体的な生活をイメージすることは、とても大切なことだと思う。たとえば作家になりたいと思っていても、実は作家が書いた作品が好きなだけで、作家的な生活には全く魅力を感じない、という人もいるだろう。それなのに道を誤って「こんなはずでは……」となっても後の祭りである。いや、本当のことを言えば、それはそれで面白い気もするが(笑)。

 

自分の将来を、既存の職業に当てはめる必要は全くないと思うが、それでも、「世の中にはどんな職業があるのか」を知っておくことは無駄ではないと思う。多分、知っている職業よりも、知らない職業の方が多いのではないだろうか。その意味でも、一度おおきな本屋さんに行って、この「なるにはBOOKS」のシリーズが並ぶ棚を眺めてみることをおすすめしたい。

 

ちなみに僕は、このシリーズの「コピーライターになるには」を読んで、実際にコピーライターになった(今は全然やってないけども)。なので僕の場合、このシリーズの本を読んで、その職業になれる確率は100%なのである。とすると、『作家になるには』を読んでしまった僕が作家になる確率は……!!

 

みなさま、来年の芥川賞、直木賞の発表を、震えながらお待ちください(笑)。

 

 

 

 

きのう11月19日、梅の木十条店でのパステル画展を、無事スタートさせることができました!

平日にもかかわらず、前に勤めていた職場の同僚、勉強会の仲間、『かがり火』で取材させていただいた方など、たくさんの方が足を運んでくださいました。改めてありがとうございました〜!!

店員さんの話によると、午前中に来られていた地元のお客さんが、絵を見てとても喜んでくださっていたとのこと。めっちゃうれしいっす……(涙)。

しかも、1日目にして(1日目だから?)、さっそく絵を1枚ご購入いただけました。

 

 



 

まさにこの絵の風景の近くに飾っていただけそうで、喜びもひとしおです。本当にありがとうございました!このキャプションボードの赤いシール、1回貼ってみたかったんです……(笑)。

友人のひとりが、「杉原さんの描く空は、ちゃんと宇宙とつながってますね」といたく気に入ってくださって、「スギハラ・ブルー」の名称を賜りました。これからことあるごとに、「スギハラ・ブルー」を口にしていこうと思っています(笑)。

 

レジ横ではポストカードや著書の販売もしておりますので、もしよければ手に取っていただけるとありがたいです。感想ノートも置いていますので、メッセージなどもよろしければぜひ!

 

 




梅の木十条店のマスター、スタッフのみなさまにも、この場を借りて改めて御礼申し上げます。僕にとってこのお店は十条のオアシスです。十条全体もかなりオアシスなので、そう考えると、梅の木はオアシス・オブ・オアシーズ?まあ、いっか(笑)。

なんかもうすでに思い残すことがないような1日目でしたが(笑)、この展示は12月9日まで続きます。けっこうな長丁場なので、ご都合のよい時にでもフラリと足を運んでいただけたらうれしいです。

残りの約3週間、なにとぞよろしくお願いいたします。

 

杉原学パステル画展「だいたい十条」

2020年11月19日(木)〜12月9日(水)

自家焙煎珈琲「梅の木十条店」

〒114-0034 東京都北区上十条2-24-10 2F

(JR埼京線「十条駅」北口から徒歩2分。十条銀座通り商店街を入り約50m、左手にあるマツモトキヨシの2階)

8:00〜20:00オープン(11月24日は休業日)

※喫茶店展示のためワンオーダーをお願いいたします。

http://umenoki.tokyo

 

 

 

 

 

すでにTwitterやFacebookなどでは告知しているので、ご存知の方もいらっしゃるかもしれませんが、11月19日(木)から12月9日(水)まで、東京都北区十条にある喫茶店「梅の木十条店」にてパステル画展を開催します!

 

パステル画を描き始めてまだ2カ月での無謀な試みですが(笑)、十条の商店街をぶらぶらするだけでも楽しめますので、よければ遊びに来てくださいませ。

 

絵のテーマはだいたい十条の風景ですが、そうじゃないものもあります。総じて「だいたい」な内容です。在店日などは特に決めていませんが、だいたいそのへんにいますので(笑)、ご連絡いただければいつでも馳せ参じます〜。

 

杉原学パステル画展「だいたい十条」

2020年11月19日(木)〜12月9日(水)

自家焙煎珈琲「梅の木十条店」

〒114-0034 東京都北区上十条2-24-10 2F

(JR埼京線「十条駅」北口から徒歩2分。十条銀座通り商店街を入り約50m、左手にあるマツモトキヨシの2階)

8:00〜20:00オープン(11月24日は休業日)

※喫茶店展示のためワンオーダーをお願いいたします。

http://umenoki.tokyo

 

パステル画を描き始めたきっかけや、その中で気づいたことなど、また改めてここで書いていけたらと思っています。

 

会場ではポストカードなどの販売もさせていただく予定です!

 

みなさまのお越しを心よりお待ちしております!

 

 

青空と十条駅

 

青空と十条銀座

 

あの日のお富士さん

 

思い出の中のスヰング

 

三分計るのが得意な砂時計

 

けん助のうずら

 

自家製のお汁粉

 

江戸川の夕暮れ

 

けん助のししとう

 

箱根姥子の秀明館にて

 

清水坂公園の空

 

清水坂公園に架かる橋

9月29日に種を植えたほうれん草。

 

ようやくちょっと「ほうれん草っぽい佇まい」になってきた気がする。

 

 

 

たぶんウチのはかなり生長が遅い方だと思う。

 

というのも、ウチはベランダがなく、プランターをずっと外に出しているわけにはいかない。

 

それでも窓が南側にあれば、ずっとそこに置いておけば日が当たるのだが、ウチは残念ながら南側には窓がない。

 

朝になったら東側の窓のカーテンを開けて、プランターを窓際に持っていく。午後になったら、今度はそのプランターを西側の窓際に移動させる。これを毎日やっているのだ。正直、めんどくさい(笑)。

 

しかもそこにはいろんな形でタイムラグが発生するので、日が当たる時間はどうしても少なくなる。ほうれん草には申し訳ないが、これがウチで育つ者の宿命なのだ。カンベンしてくれい……。

 

それにしても、ほうれん草の生長にはいちいち一喜一憂させられる。というか、正解だと思っていたやり方が、あまりうまくいかなかったり、かと思えば、やっぱりそれでよかったんだ、ということが後でわかったりする。

 

土を固めてしまったせいで発芽が遅かったほうれん草は、今では元気に大きく育っている。逆に、速くたくさん発芽した方のプランターは、その多くが途中で萎れてしまって、結局生長も遅い。これは僕が下手な間引きをしてしまったせいかもしれないが。

 

でももしかすると、これを食べる段階になると、速く大きく育った方はそんなに美味しくなくて、育つのが遅かった小さいやつの方が美味しい、ということになるかもしれない。

 

さらには、それを食べた後の栄養価に関しては、味のいいやつよりも、味がイマイチだった方が高い、ということもあるかもしれない。

 

このように、ほうれん草の評価は、その生長段階や、食べられる段階などによってどんどん変わっていってしまう。まさに「あざなえる縄のごとし」である。

 

もちろんその評価を勝手に決めているのは人間であって、当のほうれん草にとっては知ったことではないだろう。「あざなえる縄のごとし」なのは、ほうれん草でもなく、幸・不幸でもなく、人間の心にほかならない。

 

そう言えば、DNAというのは二重らせん構造になっているという。まさに「あざなえる縄」構造である。これが実は、DNAを持つあらゆる生命の宿命を表しているとしたら、ちょっと面白いではないか。

 

ちなみにDNAは、動物だけでなく植物も二重らせん構造らしい。とすれば、植物も自分の一生の中で、「禍福はあざなえる縄のごとしだなあ」とか、「人間万事塞翁が馬って人間は言うけど、植物も万事塞翁が馬なんだよなー」とか思うことがあるのだろうか。

 

まあそもそも植物に意識があったとして、そこに「自分」とか「運命」のような概念があるとは思えないが、でも何かを感じている可能性は否定できないだろう。植物に音楽を聴かせると生長の仕方が違うのは有名な話だし、あるキノコ農家さんは、「明日は忙しくて収穫できないから、大きくなるのは明後日まで待って!」とキノコに言うと、キノコは本当に待ってくれると言っていた。

 

いずれにせよ、人間の人生にもこういう「らせん構造」みたいなところがあって、いいと思っていたことが悪いことを引き起こしたり、残念に思った出来事が幸福を引き寄せたりする。それは結局、人間の心が生み出していることであり、要するに人間の心がらせん構造になっているのかもしれない。

 

そんなことを言っている間に、またプランターを西側の窓に移動させなければならない。この面倒くささが、収穫の喜びを倍増させてくれることを願いつつ、今日はひとまずこんなところで。

文章を書いていて、楽しい時と、楽しくない時がある。

楽しく書ける時は、その文脈の中に没入して、それこそ我を忘れ、時間を忘れ、ワクワクしながら書いている。

しかし楽しく書けない時というのは、全然没入できずに、すぐに集中力が切れてしまうし、全然ワクワクしない。

そこにはいろんな要因があるけれども、おそらく一番大きいのは、「今の自分の考え(あるいはイメージのようなもの)」を書いているかどうか、ということのような気がする。

これができている時は、ワクワクしながら書いている。できていない時は、げんなりしながら書いていることが多い。

「〝今の自分の考え〟以外を書くことなんてあるの?」と思われる方もいるかもしれないが、実はこれがけっこうあるのだ。

たとえば、「今の」自分の考えではなく、「過去の」自分の考えを書こうとしていることがある。

これにはいろんなケースがあるが、たとえば何かひとつのテーマについて書く時に、「以前それについていいことを考えたことがあったはずだけど、どんなことを考えてたっけ……?」と、思い出して書こうとする場合がある。

この時、あくまで暫定的にではあるが、自分の外部に正解を求めていることになる。

その外部の「正解」も自分の考えに違いないだろうが、それをそのままなぞろうとするならば、それは「今の自分」の考えではない。「過去の自分」の考えである。

過去の自分は、今の自分にとって、一面において他者である。その他者の考えに答えを見出そうとすると、それはある意味で「自分で書くこと」ではなくなってしまうのだ。だから、自分にとって面白くなくなる。

そしてもうひとつ、「未来の自分の考え」を書こうとしている場合もある。これは要するに、「自分はとても素晴らしい文章を書けるはずだ!」という期待のようなものである。ここでも、「今の自分」にとっての外部に正解を求めている。これも辛い。

ワクワクしながら文章を書くためには、この「過去の自分」と「未来の自分」から解放されなければならない。そして正解をそのような外部に求めるのではなく、「今の自分が正解を創造しているのだ」という感覚を持つことが大事になる。

そもそも文章に正解・不正解などないが、要するに自分が「面白い」と思えるかどうか、ということだろう。もちろん事務書類のような文章はこの限りではないけれども。

とにかく自分の外部に正解を求めると苦しい。そうすると正解はその一つだけになってしまい、他は全て間違いということになりかねない。もちろんそこからインスピレーションを受けることはあるけれど、「それと同じものを書かなければならない」となったら、それは「死んだ文章」ということになる。

 

よく、「人生に正解はないよ」ということを言うけれども、これを「どれを選んでも、その選んだものが正解だよ」と捉えるのか、それとも文字通り「正解は存在しないのだ」と考えるのかは、大きな違いである。

 

既存の正解が「ない」のだとすれば、それはこれから生まれてくるものの中にしかない。これらは「選択」と「創造」の違いである。


ベルクソンは、こうしたことについて面白い表現をしている。

「デッサンを描き彩色する行為は、すでに描かれ彩色された姿のくだけた細片を寄せあつめる行為とはなんの関係もない」(『創造的進化』)

 

既存のものを集めて組み立てることと、自ら新しく何かを生み出す行為は、全く別のものだと言うのである。

だが一方でよく言われるように、「アイデアとは既存のものの組み合わせにすぎない」。これもその通りだろう。とすると大事なのは、既存の「正解」のようなものがあると思わない、ということではないだろうか。

正解はいま自分が創造しているものの中にある。それを「紡ぎ出す」ことが創作のプロセスなのであって、それは既存の「正解」を再現することではない。この「紡ぎ出す」というプロセスの中に自分がいるかどうかが、文章を書くときのワクワク感とつながっているような気がする。

これはたぶん人生においても同じことで、既存の正解をなぞろうとすると、日々はとたんにつまらなくなる。正解があるということは、間違いがあるということだからだ。

そうではなく、自分の日々の生活の中で、新たな正解を紡ぎ出すこと。ここで「正解」という言葉を使うのが適当ではないことはわかっているけれど、要するに自分が「よし」と思える時間を瞬間瞬間に創造していくこと、そこにワクワクできる時間があるような気がする。

ただ、書くことと生きることには決定的な違いがある。それは、「文章は書き直せる」ということである。なんなら全部なかったことにして、ゼロからやり直してもいい。

だが人生はそうはいかない。ゼロから生き直すことはできない。でも、だからこそ、人生はドラマチックなのだと思う。

例えばひとつの小説作品において、前半はとても読むに堪えない文章だったのが、後半になって突然きらびやかな文体に変化する、ということはない。創作の過程でもしそういうことがあったとしても、それは発表の過程で統一されるはずである。もちろん、後半のきらびやかな文体の作品として。

しかしリアルな人生においては「なんでそうなった?」というような展開がある。あの頃に帰れるなら帰りたい……という思いを成就させない不可逆性が、このリアルな人生のルールである。

文章の中では、過去と未来は併存している。そこに作者あるいは読者という主体が登場し、現在という時間を投げ込む。それはひとつの創造である。

しかし現実の生には現在しかない。過去も未来も、現在において創造された過去であり、未来である。この意味において、時間は可逆的である。二度と振り返りたくなかった過去が、自分の人生にとってかけがえのない過去に変わることがある。

 

矛盾するようだが、時間は不可逆的であるにもかかわらず、過去も未来も変えることができる。それは現在において、である。

この「現在=今」という位置において文章を書けるかどうか。これがワクワクするかどうかの決め手なのだと思う。そこから全ては生まれる。それは生きることについても同じだと思う。

 

地域づくり情報誌『かがり火』で連載中の対談記事「そんな生き方あったんや!」。

 

10月25日に掲載誌が刊行され、かがり火WEBにも記事がアップされました!

 

 

「平井の本棚」は、東京都江戸川区の平井駅前にある古本屋さん。

 

僕は友人のつながりでその存在を知り、あるイベントに参加したことをきっかけに対談をお願いしました。

 

詳細はぜひ記事を読んでいただきたいのですが、訪れるとあったかい気持ちになる、素敵な本屋さんなのです。

 

 

新しい時代の感性を感じつつも、なぜかなつかしい気分になる……。そんな不思議な雰囲気に、多くの人がひきつけられているような気がします。

 

個人的には、書棚の内容が僕の興味関心にめっちゃマッチしていて、棚を眺めているだけでいつまででも過ごせてしまいます(笑)。

 

なにぶんウチからは遠くてまだ3回くらいしか行けていないのですが、それでもすでに10冊くらいは購入。蔵書スペースに余裕のない僕にとっては、ある意味で「危険な本屋さん」でもあるのです……(笑)。

 

僕の対談記事は、特に「地域づくり」などを意識しているわけではないのですが、結果的に地域づくり情報誌である『かがり火』にぴったりの内容になった気がします。

 

やっぱり顔の見える関係の中にこそ、人間的な暮らしや生業が生まれてくるんだろうな、と改めて感じました。

 

 

ある雑貨屋さんで、思いがけず小学生の女の子と話す機会があった。

 

学校で流行っているのか知らないが、いくつかクイズを出された。

 

最初は絵を見せられたのだが、そこには四角の枠が描かれていて、その隅っこに小さく「れ」と書かれている。

 

「なにこれ?」と聞くと、「花の名前」と言うので、0.2秒で答えてあげた。

 

「スミレやろ」

 

「正解〜」

 

そして次の問題。

 

「マリオの本名は何でしょう?」

 

「え、マリオに本名とかあるの?ほんまはないんやろ?」

 

「あるよ」

 

「えーっと、ジョン・スチュワート・マリオ?」

 

「違うよ!ややこしいな!」

 

「スーパー・マリオ?」

 

「違う」

 

「あかん、わからん。教えて」

 

「正解は、マリオ・マリオ」

 

「ええ!?ウソつくなよ〜。ホンマに?」

 

「YouTubeで見た」

 

「それ嘘ついてるYouTubeやで。俺がいまスマホで調べたるわ。……ホンマや……マリオ・マリオや」

 

「ほらー」

 

僕はマリオの本名を教えてもらったお礼に、僕が子どもの頃に流行った遊びを教えてあげた。

 

「両手をグーにして、こすり合わせてみて。ほんでニオイかいでみい。……ブリッ子」

 

「なにこれー」

 

「学校でやってみい。めっちゃ流行るでー」

 

「絶対流行らんわ!」

 

それはとても楽しい時間だったのだが、その楽しさは一瞬にして吹き飛んだ。

 

その女の子に、ナチュラルに「おじさん」と呼ばれたのだ。

 

その子は何の悪意もなく、ただ、おじさんを「おじさん」と呼んだだけだった。

 

僕の記憶の限りでは、素で「おじさん」と呼ばれたのはこれが初めてのような気がする。

 

僕の中で、ひとつの時代が終わった瞬間だった。

 

「お……おじさんちゃうで……。お……おにいさんやで……」

 

相手がボケたわけではない以上、もはやツッコミは成立しない。

 

僕の言葉は力なく宙を漂い、地面にポトッと落ちた。

 

「あ、ああ……」

 

地面に落ちて佃煮のようになった自分の言葉を拾い、それを大事にポケットへ入れた。

 

僕はその女の子に「じゃあね〜、ばいばい……」と、精一杯のカラ元気で手を振り、店を出た。

 

「おじ……さん……か」

 

秋の空はどこまでも澄み渡っていたが、それはもうあの頃の空の色とは違っていた。

 

(終)


ほうれん草の収穫予定は11月の中旬くらいである。「土から芽を出す」というような変化は非常にわかりやすくて面白いのだが、その後は本当に少しずつ大きくなってゆくので、ちょっと退屈な気分になってくる。ついついその「生長の遅さ」にイライラしそうにもなるが、その「遅さ」こそが重要なのである。

このシリーズの第6回で、「生長が遅いほど味わい深い人間になる」ということを書いた。今回はさらに調子に乗って、「遅さこそ世界の本質だ」ということを書いてみたいと思う。

 

「遅さ」についての僕の見かたが変わったのは、友人の子どもの「時間かかってもいいねん」という言葉がきっかけだった。その時のことは以前のブログにも書いている。

 

当時3歳くらいだったその男の子は、大きな木にしがみついて「僕この木好きやねん」と言った。そして「どんぐりを土に埋めたら、これ生えてくるねんで」と教えてくれた。「ほ〜。でも、ものすごい時間かかるで〜」と僕が笑いながら答えると、その男の子は平気でこう言ったのである。「時間かかってもいいねん」。

僕はそれを聞いて、はっとするところがあった。言われてみれば、なぜ「時間がかかるのはよくない」と僕は思っているんだろう。それはもしかすると、スピード命の産業社会のイデオロギーに汚染されているだけではないのか?

だって、何もかもが速い方がよいのであれば、人間は生まれた瞬間死んだ方がいいではないか。長生きするということは、「死ぬのが遅い」ということである。田舎などに行くと、気心の知れたお年寄り同士が「ばあさん、まだ生きてたのか」なんて冗談を言い合ったりしているが、もし速さが正義なら、その冗談が冗談ではなくなってしまう。

哲学者のベルクソンは、むしろ時間の本質は「遅延」であると言う。

「時間はすべてのものがいっぺんに与えられることを妨げているものである。時間は遅れさせる、というよりもむしろその遅延である」(ベルクソン著、河野与一訳『思想と動くもの』岩波書店、140頁)

時間とは、全てが一挙に与えられることへの抵抗だ。これがピンとこない人は、ベンヤミンが提示したメシア的視点をイメージすればいいだろう。世界の誕生から全ての歴史を知るメシア(神)の視点からすれば、人類の歴史などほんの一瞬にすぎない。無限とも思われるような神の時間間隔からすれば、人間の一生などは「一瞬で全てが与えられている」ようなものだろう。

だが、もし本当に神様がいて、全てを神様が決定しているのならば、もはや時間は必要ない。全ては神によって確定しているのだから、そこに遅延が存在する余地などないだろう。だが実際には遅延が存在し、それが時間として人間にさまざまなことを考えさせ、それぞれの人生を生きさせている。それはなぜか。ベルクソンの考え方は面白い。

「時間の実在は事物のうちに不確定があるということを証明しているのではあるまいか。時間はこの不確定そのものではあるまいか」(同上141頁)

つまり、ここでベルクソンは「全てが確定しているわけではない」と言い、その証拠を「時間の実在」に見出しているのである。だからひとことで言ってしまえば、「遅延こそが生」なのである。そしてベルクソンは、この「遅延=時間」が、人間の「心」を生み出したとさえ言うのだ。確かに全てが確定しているのならば、とまどい、逡巡する「心」は無用である。そこにベルクソンは、条件反射的に行動する虫と人間との違いを見るのである(虫に本当に心がないかどうかは、僕にはわからないけども)。

ほうれん草が育つのに時間がかかるということは、ほうれん草が生きているということであり、僕が生きているということである。それは同時に、ほうれん草が育つかどうかはわからない、ということを教えている。だからこそ、ちゃんと育った時に僕らは喜びを感じることができる。その喜びを与えてくれているものこそ、遅延であり、時間である。

世界は遅さでできている。