ほうれん草の収穫予定は11月の中旬くらいである。「土から芽を出す」というような変化は非常にわかりやすくて面白いのだが、その後は本当に少しずつ大きくなってゆくので、ちょっと退屈な気分になってくる。ついついその「生長の遅さ」にイライラしそうにもなるが、その「遅さ」こそが重要なのである。
このシリーズの第6回で、「生長が遅いほど味わい深い人間になる」ということを書いた。今回はさらに調子に乗って、「遅さこそ世界の本質だ」ということを書いてみたいと思う。
「遅さ」についての僕の見かたが変わったのは、友人の子どもの「時間かかってもいいねん」という言葉がきっかけだった。その時のことは以前のブログにも書いている。
当時3歳くらいだったその男の子は、大きな木にしがみついて「僕この木好きやねん」と言った。そして「どんぐりを土に埋めたら、これ生えてくるねんで」と教えてくれた。「ほ〜。でも、ものすごい時間かかるで〜」と僕が笑いながら答えると、その男の子は平気でこう言ったのである。「時間かかってもいいねん」。
僕はそれを聞いて、はっとするところがあった。言われてみれば、なぜ「時間がかかるのはよくない」と僕は思っているんだろう。それはもしかすると、スピード命の産業社会のイデオロギーに汚染されているだけではないのか?
だって、何もかもが速い方がよいのであれば、人間は生まれた瞬間死んだ方がいいではないか。長生きするということは、「死ぬのが遅い」ということである。田舎などに行くと、気心の知れたお年寄り同士が「ばあさん、まだ生きてたのか」なんて冗談を言い合ったりしているが、もし速さが正義なら、その冗談が冗談ではなくなってしまう。
哲学者のベルクソンは、むしろ時間の本質は「遅延」であると言う。
「時間はすべてのものがいっぺんに与えられることを妨げているものである。時間は遅れさせる、というよりもむしろその遅延である」(ベルクソン著、河野与一訳『思想と動くもの』岩波書店、140頁)
時間とは、全てが一挙に与えられることへの抵抗だ。これがピンとこない人は、ベンヤミンが提示したメシア的視点をイメージすればいいだろう。世界の誕生から全ての歴史を知るメシア(神)の視点からすれば、人類の歴史などほんの一瞬にすぎない。無限とも思われるような神の時間間隔からすれば、人間の一生などは「一瞬で全てが与えられている」ようなものだろう。
だが、もし本当に神様がいて、全てを神様が決定しているのならば、もはや時間は必要ない。全ては神によって確定しているのだから、そこに遅延が存在する余地などないだろう。だが実際には遅延が存在し、それが時間として人間にさまざまなことを考えさせ、それぞれの人生を生きさせている。それはなぜか。ベルクソンの考え方は面白い。
「時間の実在は事物のうちに不確定があるということを証明しているのではあるまいか。時間はこの不確定そのものではあるまいか」(同上141頁)
つまり、ここでベルクソンは「全てが確定しているわけではない」と言い、その証拠を「時間の実在」に見出しているのである。だからひとことで言ってしまえば、「遅延こそが生」なのである。そしてベルクソンは、この「遅延=時間」が、人間の「心」を生み出したとさえ言うのだ。確かに全てが確定しているのならば、とまどい、逡巡する「心」は無用である。そこにベルクソンは、条件反射的に行動する虫と人間との違いを見るのである(虫に本当に心がないかどうかは、僕にはわからないけども)。
ほうれん草が育つのに時間がかかるということは、ほうれん草が生きているということであり、僕が生きているということである。それは同時に、ほうれん草が育つかどうかはわからない、ということを教えている。だからこそ、ちゃんと育った時に僕らは喜びを感じることができる。その喜びを与えてくれているものこそ、遅延であり、時間である。
世界は遅さでできている。