時間かかってもいいねん | 杉原学の哲学ブログ「独唱しながら読書しろ!」
かれこれ数年前の話になるが、
ひょんなことから、
友達の子どもと一緒に遊ぶことになった。

三歳の男の子である。

公園で遊んでいたら、
その男の子が、
ある大きな木にしがみついた。

そして、

「僕この木好きやねん」

と言うのである。

へー、どれどれ、
と僕もその木に触っていると、
その子は、

「どんぐりを土に埋めたら、
 これ生えてくるねんで」

と教えてくれた。

僕は、ほ~、と言いながら、

「でも、ものすごい時間かかるで~」

と笑いながら答えた。

それに対して彼は
平気でこう言ったのである。

「時間かかってもいいねん」

僕はその言葉を聞いたとき、
不思議と「ああ、これが希望か」と感じた。

時間がかかってもいい。

僕たちは自然と、
そういう意識を
失いつつあるように思う。

何をするにもスピードが求められ、
一定の期間内にやれないことは
何の意味も持たないかのような、
そんな社会の中で僕らは生きている。

極端に言ってしまえば、

「生きている間に
 成し遂げられないことは、
 やっても意味がない」

という感覚である。

だから僕たちは限られた時間の中で、
汲々と生きることを余儀なくされている。

しかし人間は、
いつの時代でもそうやって
生きてきたわけではない。

「死」を絶対的な終焉とらえるのは、
人間が「個人」として生きる
社会においてである。

共同体のつながりの中で生きる人間は、
未来を共同体に託すことができる。

共同体は自分の死後も
生き続けるからである。

そういう死生観の中で生きていられたなら、
「いくら時間がかかってもいい」と、
きっと平気で思えるのではないだろうか。

それは、希望があるということである。

そう考えれば、僕らのように
短い射程の時間の中で生きることは、
希望を喪失しながら
生きることなのかもしれない。

「時間かかってもいいねん」という言葉に、
なにかとてもあたたかいものを感じたのは、
そこに人間の幸せなあり方を見たからだろうか。

子どもの中には、
僕らのご先祖さまから受け継がれた、
共同体とともにある「希望」の感覚が、
まだ色濃くのこされているのかもしれない。


にほんブログ村 哲学・思想ブログへ
にほんブログ村