杉原学の哲学ブログ「独唱しながら読書しろ!」 -9ページ目

きのう、ある絵はんこ作家さんのお店に行ってきた。その方はチェコに縁があって、チェコの風景やモノなどの絵はんこも作っている。僕がそれらを見ながら、チェコって何でもオシャレというか、ちゃんとデザインされてますよね、みたいなことを言うと、「それは古いものをちゃんと残しているからかも」という話をされた。僕の記憶なので確かではないけれど、「昔のデザインって、日本の昭和レトロみたいなのもそうですけど、なんかかわいいんですよね」ということをおっしゃっていた(ような気がする)。

確かに昔のデザインは何となく味があるというか、現代的なデザインにはない有機的なオシャレさ?のようなものがあるような気がする。でもそれは、デザインの質そのものが変わったのか、それとも単に、僕らが古いものに対して持つ郷愁のようなものが、昔のデザインをそう見せているだけなのか。その疑問を作家さんに投げかけてみると、面白い答えが返ってきた。

「有り合わせのもので作っていたからじゃないですか?」

確かに「昭和レトロ」と言われるような時代には、現代に比べれば手に入る素材や、デザインの知識なども限られていただろう。でもその限られた中で、なんとかいいものを作ろうと工夫する。その結果として、不思議な温かみや人間味、それに基づいた普遍的なデザイン性のようなものが生まれてきたのかもしれない。

これは僕にとって非常に腑に落ちる話だった。たとえば論文なんかも、その内容を論証するためにさまざまな文献を読み漁っていると、他人の思考の文脈に飲み込まれて、いつの間にか自分がもともと書きたかったことが分からなくなってしまうことがある。最も大切なものが抜け落ちてしまうのだ。それよりも、自分の中にある知識や手元にある限られた文献だけで一度書いてみる。そうすると、そこから内容が豊かに膨らんでいくことが多い。そのことを思い出したのだ。

「もっといい素材があるはずだ」と思って、それを自分の外に求めると、それは無限の探求になってしまう。そうするとそれだけで終わってしまって、最終的には浅いものしか生まれない、ということが往々にしてある気がする。それよりも、「今の自分」という有限性を深めていったほうが、結果的に普遍に到達しやすい、ということがあるのかもしれない。もちろんその過程で、新しい何かを獲得する必要性が生まれてくることもあるだろう。だが最初から新しい何かに目を向けると、それは結果的にキレイな素材で作ったハリボテみたいになってしまう気がする。そうではなく、自分がよく知る「有り合わせ」でできるだけの工夫をする方が、より人間的で、やっている方も「面白い」のではないか。

 

もちろんこれは、「今いる場所から動くべきではない」ということではない。そうではなく、自分の魂を大切にする、とでも言えばいいだろうか。だから心底「ここはイヤだ!」と思ったら、むしろ僕は全力でそこから離れるべきだと思う。その離れた先に、また新しい人生が続いていく。その自分の魂の声に従うことは、自分を深めていくことにつながっていると僕は思う。その声を黙殺できるのは、自分の外部に自分を委ねてしまっているからかもしれない。

さて、ここからようやくほうれん草の話になる(笑)。ほうれん草は植物だが、植物こそまさに「有り合わせで生きる」ことの天才だろう。「肥料が足りんから、ちょっとビバホームに調達しに行くか」というわけにはいかない。「おれプランターみたいな狭苦しいところで育ちたくねーよ!」と思っても、そこから引っ越すこともできない。やれることは、今ある環境を最大限に活かすことだけだ。そしてせっせと太陽に向かって伸びていこうとする。有限性をそのまま引き受けて、それを最大限に活かす生き方である。

それは多分、その方が楽しいからではないだろうか。だって、もしもほうれん草が「オレ、実は白菜になりたかったんだよな……」と思いながら生きていたら、きっと楽しくないと思う。矛盾するようだが人間の場合は、魂の声に従って逃げるのも、有限性を活かす生き方のひとつになる。足があるなら足を活かせばいい。天才数学者として知られる岡潔の有名な言葉がある。

「私は数学なんかをして人類にどういう利益があるのだと問う人に対しては、スミレはただスミレのように咲けばよいのであって、そのことが春の野にどのような影響があろうとなかろうと、スミレのあずかり知らないことだと答えて来た。私についていえば、ただ数学を学ぶ喜びを食べて生きているだけである」(『春宵十話』)

これはまさに有限性の全肯定ではないだろうか。ここでの「数学を学ぶ喜び」とは、無限の素材を探す冒険というよりは、数学というカテゴリーの中で、有限の自分を深めていくことに近いのではないか。だがそれを深めきった先には無限の世界が広がっていて、そこではあらゆるものがつながっている。岡潔はそう考えていたのではないか。

ほうれん草も、ほうれん草として生ききった先に、土に還り、もしかすると次は白菜としての生を得るかもしれない。僕も杉原として生まれてきたからには、杉原として生ききるしかない。まあ不満が全くないこともないが(笑)、山田さんの人生は山田さんが生きてくれているし、木村さんの人生は木村さんが生きてくれている。スピッツの名曲「楓」に、こんな歌詞がある。

「ああ 僕のままで どこまで届くだろう」

いい曲だ。これを我が家のほうれん草の気持ちに置き換えれば、きっとこうなるだろう。

「ああ プランターのままで どこまで育つだろう」

大プランターのほうれん草の元気がない。たぶんだが、水をやりすぎたせいだと思う。水をやるタイミングは「土の表面が乾いたら」ということだったが、ついつい「まだちょっと早い気がするけど……」と思いながら、水をたっぷりやってしまった。その後間引きもしたのだが、どんどん元気がなくなっている気がする。ちょっと先走って動き過ぎたようだ。

僕が勝手に師匠と思っている哲学者の内山節先生は、群馬県上野村の家に畑を持っている。そして農作業というのは、受動性が大切だというような話をされていた気がする。百姓が朝に畑を眺める。そうすると、おのずと自分がするべき作業がわかるのだという。あくまで畑やそこで育つ作物、そして天候などを見て、そこからやるべきことを感じ取るのであって、それを抜きにして自分の頭の中だけでやるべきことを決めるようなことはしない。

確かに農作業とは、作物が健やかに育つことをサポートしてあげることだろう。そのためには、作物が求めていることを感じ取ることが何より大切である。僕は今回、ほうれん草の気持ちにはあまり目を向けずに、なんとなく自分の気分で「能動的に」水をやってしまった気がする。すまん、ほうれん草……(←何回目だ!)。

とはいえ、「能動的であること」と「受動的であること」をはっきりと分けることができないのもまた事実である。たとえば僕らは、「このたび結婚することにしました」と言わずに、「このたび結婚することになりました」と言ったりする。あるいは、「この会社に就職することにしました」ではなく、「この会社に就職することになりました」という言い方をしたりする。それが明確な自分の意志にもとづいていたとしても、「〜した」と言わずに「〜なった」という言い方をすることがよくある。

そこには、なんとなく「自然の流れの中で……」とか「いろいろあった結果……」のようなニュアンスがあって、「決して自分の意志だけで決まったわけではない」という意味合いが含まれている。それを「〜した」と断言すると、まるで自分の意志によってのみそれが決定したかのような感じになり、なんとなく「腑に落ちない」のではないだろうか。

確かにそこに自分の意志があることは確かだろう。でもそれが実現するためには、他者の意志や自然の流れ、タイミングなど、偶然的なことも含めたさまざまな要素が重なる必要がある。そのことを感じているから、「した」のではなく「なった」と言いたくなるのかもしれない。

思えば生まれてきたのも自分の意志じゃないし(いろんな説があるけれど)、その後の人生のさまざまな選択も、自分が生まれ育った環境などの影響を受けた結果にほかならない。どこからどこまでが自分の意志かなんて、本当は誰にも分からないはずなのだ。でもそれでは何かがあった時に、誰も責任を負うことができない。それは困るということで、一応、人にはそれぞれ自由意志というのがあって、自分の行為は自分の意志によって決めている、ということにしているにすぎない。その考え方の延長線上に、今日の個人主義の社会があるのだろう。そして、そうじゃない社会の可能性だって決してないわけではない。

だから、ほうれん草に水をやりすぎてしまったのも、よくよく考えてみると、本当に僕の責任かと問われれば、必ずしもそうとは言いきれない。そう、言いきれないのだ!!

前回の記事で、「水をしょっちゅうやりすぎると根が張らずに弱くなる」というようなことを書いた。これについて、僕の友人である浅井さんがコメントをくれた。

「私もこの春、農業ビギナーで苗からいろいろ育てました。ある程度になるまではけっこう水やって、なんとなくしっかりしてきたな、とカンで思ったら、水をやるのを減らして、元気がなさそうに見えたら、多めに水やりする感じにしました。そういう苗は元気に育った気がしました。本来は「育てる」というより「手入れ」みたいな考えのほうがいいなという実感でした(^^)」

浅井さんは僕のような軟弱プランター栽培ではなく(笑)、ちゃんと自分の畑で栽培をしている先達である。実は僕も前回、浅井さんがくれたコメントと同じようなことをことを考えていて、それを見透かしたようなメッセージに、さすがだなあと思った次第である。浅井さんは医者のたまごで、農業を医学的な観点からも分析できる人だ。もしこのブログが書籍化されたら、浅井さんに解説を書いてもらおうと思っている。

さらに、浅井さんはこのブログが書籍化された時のタイトルも考えてくれた。題して『ほうれん草を育てながら哲学してみた』。めっちゃええやん、と思ってさっそくこのブログにも採用させていただくことにした。どうでしょう、かなりよくないですか?(笑)みなさんもぜひ『○○しながら哲学してみた』みたいなので何か書かれてみてはいかがでしょうか。ふだん何気なくやっている生活の行為が、実はすごく深遠な意味を持っていた……みたいなことにすると、ちょっとだけ毎日が楽しくなるかもしれません。

浅井さんが指摘してくれた、「しっかりするまではしっかり水をやって、しっかりしてきたら面倒を見すぎず「手入れ」にとどめる」という考え方も、やっぱり人間の育ち方に通じるものがあると思う。これは僕の勝手なイメージだが、生まれてきて物心つくまでの間というのは、赤ん坊にとって、言わば「世界に対する第一印象を育む期間」のようなものではないだろうか。そしてみなさんご存知のように、第一印象はけっこう後を引くものである。最初に「何かイヤだな」と思った人、場所、モノが、途中から好きになることはあまりない。でももちろんその印象が逆転することもあって、その時には自分でもびっくりするくらいその対象が好きになる、ということもある。このへんが第一印象の面白いところかもしれない。

でも第一印象は基本的にはいいに越したことはないだろう。赤ん坊が生まれてきた時に、この世界に対して「なんか快適な場所やわ〜」「なんか楽しい場所やわ〜」と感じることができたら、その後もそう思いながら生きていきやすいに違いない。逆にこの世界に対して最初に持つ印象が「なんか辛いわ〜」「なんか苦しいわ〜」というものだったら、その後ずっと「とっとと引退したい……」という気持ちを抱き続けることになるかもしれない。

でも一方で、世界に対して悪印象を持っていた人が、「いや、実は世界ってめっちゃええやん!めっちゃ楽しい場所やったんや!」となったら、これはめちゃくちゃ強い気がする。しかもそういう人は、その悪印象から好印象へのプロセスを実際に経験しているわけだから、そのプロセスを経験として他人に伝えることができる。それは多くの人を救う力になると思う。僕はこれを勝手に「菩薩力」と呼んでいる(笑)。しかも「世界をよりよいものにしたい」という思いは、「この世界、このままじゃアカンやろ」という気持ちがどこかになければ、きっと生まれてこないはずである。

もちろん、最初から「世界サイコー」と思っている人も、その天性の朗らかさで多くの人を救うことができるだろう。「世界ツライ……」と思っている人が「世界サイコー」と思っている人と出会って、「そうなん?なんで?」と思いつつ関わっている間に、「世界サイコー」の視点をいつの間にか身に付けている……というようなこともあるだろう。個人的には、「世界サイコー」と「世界ツライ……」の両方の視点を常に持ち合わせていたいと思っているけれども、やっぱりツライよりは楽しい方が僕は好きだ。でもツライを知っている楽しさと、ツライを知らない楽しさは全然その質が異なると思う。そこに人間の深みの違いが現れてくるのかもしれない。

ちなみにウチのほうれん草は少ししっかりしてきた気がするので、もうほとんど放置プレーである。やっていることと言えば、朝と夕方にプランターを日当りのいい場所に移動させていることくらいである。僕自身が基本的に放置プレーで育てられてきたので、放置プレーで育てる方が得意なのかもしれない。「スポーツ報知」という新聞があるが、これの前身が「報知新聞」だという。もしも「放置新聞」という世界の放置プレーを紹介する新聞があったら、僕は間違いなく定期購読するだろう。いや、嘘です。

 

ほうれん草栽培の悩みどころのひとつは、水やりのタイミングだろう。いろいろ調べてみると、たいてい、「土の表面が乾いてきたら、水をたっぷりあげてください」というようなことになっている。でもその「土の表面が乾いてきたタイミング」というのがイマイチよくわからないのである(笑)。本当にカラッカラに乾いた時なのか、ちょっとサラッとしてきたかな、というタイミングなのか……。未だに全然わからないが、僕の場合、なんとなく「乾いたな」と思った時に水をやることにしている(笑)。日数で言うと、だいたい10日おきくらいだろうか。

作物を大切に育てようと思えば思うほど、水やりの回数は増えがちである。だがこれがよくないらしい。栽培の失敗は、水が足りなくて枯れてしまうよりも、水をやりすぎて根腐れなどを起こして失敗するパターンの方が多いようだ。これはとてもよくわかる。特に初めて野菜を育てる場合などは、大切にしようという意識が強くなって、ついつい「何かしてあげよう」と思いがちである。でもそれが裏目に出る。

「銀座まるかん」の創業者として知られる齋藤一人さんが、この水やりについて面白いことを言っていた。僕の記憶なので正確ではないけれども、確かこんな話である。植物はずっと水を与えられないと、何とかして水分を得ようと、どんどん根っこを伸ばしていく。土の中に根を張り巡らせる。そうすると、台風が来てもその強い根っこで耐えることができるし、干ばつにも耐えられる強くてしぶとい植物に生長する。一方で、しょっちゅう水を与えられた植物は、わざわざ頑張って根っこを伸ばす必要がない。そうすると大地にしっかり根を張らないから、台風なんかが来たら一瞬で吹き飛ばされてしまう弱い植物になる。そしてそれは人間だって同じなんだ、というわけである。これもまた、前回、前々回で書いた「困難の捉え方」に通じる話である。

思想家のルソーは、その有名な著書『エミール』の中で、「子どもを確実に不幸にする育て方は、欲しいものをいくらでも与えてやることである」というようなことを言っている。確かにそうすれば、自分の思い通りにいかない壁にぶち当たったときにも、それを自分で何とかしようという発想自体が生まれてこなくなるだろう。これは植物で言う「根腐れ」のような状態かもしれない。

よくよく考えてみれば、「便利な社会」というのも、一面においてこうした「根腐れ」を起こしやすい状態と言えるだろう。これまで時間をかけて歩いていた道のりが、電車や飛行機でヒョイっと行けるようになった。わざわざ井戸で水を汲まなくても、蛇口をヒョイっとひねれば、すぐに水が出る。それはとてもありがたいことだけれども、一方で大きな災害に見舞われた時に、僕らは途方に暮れることになる。でも、「自分の足で歩く」「自分の手で水を汲む」ということをやってきた人間は、どこをどう歩けば目的地に辿り着けるかを知っているし、どこから水が湧いていて、それをどうすれば汲み取ることができるかを知っている。それは自然と直接的に関わっているということだろうし、「生きる」ということの本質により近い場所にいる、とも言えるような気がする。

僕の未熟なほうれん草栽培には、そうした「生きる」ことの本質に近づきたいという、ささやかな願いが込められてもいる。ほうれん草は、スーパーに行ってお金を払えば簡単に手に入る。それはとても便利で、ありがたいことだ。でもその便利さが、自分の生命をとても貧弱なものにしているという自覚もある。だからといって、こんな遊びみたいなプランター栽培で、何かしらの強さが手に入るとも思わない。けれども、何となくやってみたい、何となく興味があるというのは、きっと魂がそれに関心を持っているということなのだと思う。ロジカルに出した結論よりも、この「何となく」の方が、僕は信用できるような気がしているのである。だから僕の水やりは、「何となく土の表面が乾いてきたとき」に行われる。……我ながらとても心配である(笑)。

 

農家さんからよく聞くのは、「土でほとんど決まる」「人間ができるのは、土を良くすることだけ」というような言葉だ。うちのほうれん草は、大、中、小と3種類のプランターで育てていて、そのうち大のプランターだけ葉の色が薄い。これも、大プランターだけ違う土を使っているせいかもしれない。プランターの置き場所も、種の蒔き方も違ったので一概には言えないが、いずれにせよ、土の違いが作物に与える影響は大きい。そして、その土の豊かさによって、そこで育つ作物の種類も変わってくるという。

土を豊かにするということは、その土に生きる微生物を活性化させる、ということだろう。その微生物がさまざまな有機物を分解し、作物の栄養に変えてくれる。その微生物の活性化のために、鍬や肥料を入れたりする。まあ、僕は初心者なので詳しくはわからないけれども。

「土を豊かにする」ということでいつも思い出すのは、無農薬、無化学肥料の「循環農法」で野菜を育てる百姓、赤峰勝人さんの言葉だ。彼によれば、循環農法とは「自然の掟に従う農法」のことであり、「人間の人智が及ばない自然の真理や法則にしたがって、作物が育つ手伝いをする農法」であるという。そして彼の雑草に対する考え方に、僕はけっこうな衝撃を受けた。

農業をするにあたって、雑草は邪魔者だと考えるのが一般的だろう。しかし彼はその雑草を「神草」と呼ぶ。なぜならその雑草は、その土にとって必要だから生えてきているから、というのである。たとえば、次のようにである。

私は畑に生える草を「神草」と呼ばせてもらっています。土に足りないミネラルを補うために、そこに必要な草しか生えてこないのです。……土ができてくるとやがてイネ科の草やスギナは姿を消し、今度はナズナやハコベがいっぱい出てきます。カルシウムたっぷりの豊かな土になった証拠です。(赤峰勝人『ニンジンの奇跡』140頁)

雑草は土を豊かにしてくれる。そこに必要な草しか生えてこない。この考え方は、前回書いた「困難」の考え方に通じるものがあると思う。生きていると、イヤでもさまざまな困難がやってくる。でもその困難を経験することによって、人間は深みや豊かさを獲得していく。それが結果的に幸福をもたらす。

人生における困難とは、土における雑草と同じようなものかもしれない。とすれば、赤峰さんが雑草に対して言ったのと同じように、「その人に必要な困難しかやってこない」のかもしれない。つまり、自分が学ぶべき課題が常にその困難の中に含まれている、ということである。確かに我が身を振り返ってみれば、この考え方は実に腑に落ちる。困難は、自分の至らない点を神様がピンポイントで指摘するかのようにやってくる、ような気がする。時には、そんな学びなんてはるかに超越した、どうしようもなく巨大な困難に飲み込まれてしまうこともあるが、これはもう人智を超えた宿命としか言いようがない。

「器が大きい人」というのは、実はこの困難をたくさん受け入れることができる人のことなのかもしれない。いろんな困難に直面しても、それを拒否するのではなく、「おお、そう来たか」「まあまあ、なんとかなるでしょう」と包み込んでしまう。そこからまた豊富な学びを得て、栄養にしてしまう。それが、人間の器の大きさというものなのかもしれない。

困難は、畑に生える雑草のように、とめどなくやってくる。でもそれを単に邪魔なものと捉えるのではなく、「ああ、こういう栄養を、いま自分(土)は欲しているのだな」と考えると、その受け止め方はずいぶん変わってくるような気がする。そうして土が豊かになれば、どんな種を蒔いても、豊かな実りを約束してくれるようになるだろう。

 

人間の心も、土と同じように豊かに耕すことができるのだろう。どんな種を蒔いても豊かに実らせる心。それは、いろんな雑草の力によって、さまざまな困難を分解して栄養にすることができる微生物を、心の中に育てることなのかもしれない。

 

ニンジンの奇跡 畑で学んだ病気にならない生き方 (講談社+α新書)

 

ほうれん草は寒さに強い。だから秋頃に種を蒔くのが一般的で、真冬の寒さの中で生長していく(春蒔きに適した種類もあるらしい)。しかし冬は日照時間が短いし、気温も低い。普通、冬は植物の生長が遅く、夏は速い。雑草などを見ていたら一目瞭然だし、ウチの観葉植物(オーガスタ)もそうだ。でも、生長が遅い=ダメ、ということではない。ほうれん草もそうだが、むしろゆっくり育つことによって栄養分や甘みをしっかり貯え、美味しい野菜に育つというのだ。

このことを知って思い出したのが、屋久島の屋久杉である。屋久杉は建築材としてとても優れているらしい。そう聞くと、さぞ屋久島は杉の生育に適した環境なのだろう、と思うだろう。ところがそうではない。逆なのである。屋久島の硬い岩盤は根が伸びにくく、杉の生長が非常に遅いらしい。だがそのことによって年輪が細かく詰まり、とっても丈夫な木になるそうだ。

だからきっと人間も同じなのだと思う。「何でこんな大変なことばっかり起こるねん……」とゲンナリしてしまうような環境にいる人ほど、きっと植物でいう年輪が細かく刻まれて、味わい深く強い人間になっていくのではないだろうか。とはいえ、その時はめっちゃ大変だと思うので、決して進んでそのような道を歩みたいとは思わないけれども(笑)。

でも面白いのは、人間生きていると、絶対に大変なこと、面倒なこと、苦労のようなものが訪れるということである。「一生順風満帆で困難が一切ない人生」など聞いたことがない。これは不思議なことである。でも、困難な環境が人間に深みを与えてくれるのであれば、困難とはむしろ神様からのギフトなのかもしれない、とも思えてくる。自分が望もうが望むまいが、必ず与えられるギフト。たまに神様が奮発しすぎてえらいことになってしまったりするが(笑)、そういうギフトを与えられてしまった人こそが、周りに尊敬されるような人間になっていくのかもしれない。

そう言えば最近読んだ喜多川泰著『「福」に憑かれた男』という小説にも、同じようなことが書かれていた。これは「福の神」に取り憑かれた、ある書店店主の物語である。「福の神に取り憑かれたのなら、さぞいいことがたくさん起こるのだろう」と思っていたら、これが全く逆なのである。福の神が運んで来るのは、幸福ではなく、困難であった。しかしその困難を経験することによって、人間は変わることができる、というのである。ここでも困難は不幸ではなく、神様からのギフトとして描かれている。著者はその後書きで次のように語っている。

「人生は不思議なもので、これ以上ないほどの危機的状況こそが、後から考えてみれば、自分の人生にとって、なくてはならない貴重な経験になるということを、誰もが経験から知っています」

きっと共感する人も多いのではないだろうか。それでも、そんな危機的状況なんて僕は経験したくない。それでも、与えられる(笑)。どうせ与えられるのなら、それを気に病んで沈み込むより、はればれと立ち向かいたいものだ。いや、だいたい気に病まずにはいられないのだけれども……。

困難が神様からのギフトなのだとしたら、むしろ僕らはそれを自ら求める必要はないのだと思う。安心して楽しく暮らせばよいのではないだろうか。それでも与えられるから、神様からのギフトなのだ。自分から見てどんなに幸せそうに見える人にも、必ず何かしらの困難が贈られているはずである。それをどう扱うのかは人それぞれだと思うけれど、その人が生きている限り、そのギフトはその人に深みを与えてくれると思う。

もちろんほうれん草だって、自ら困難を求めたりはしないだろう。すくすくと大好きな太陽に向かって育っていく。しかし日々の気候や環境の変化が、ほうれん草にさまざまな試練を与える。たとえば、せっかく芽を出せたと思ったら、その場所が実は大地ではなくプランターだったり、夜になっても照明で照らされて生活リズムが混乱するような屋内だったり(笑)。僕に購入されてしまった時点で、こうした困難が確定してしまった。すまん、ほうれん草(笑)。

だからちょっとでも、ほうれん草が困難を乗り越えられる手助けをするのが人間の役割なのだろう。だが、与えられるべき困難を奪ってしまうのは、むしろほうれん草を不幸にしてしまうかもしれない。ほうれん草が栄養豊富な野菜だと言われるのは、冬の寒さという困難を乗り越えながら、ゆっくり、ゆっくりと生長するからだろう。「困難を奪わない」というのは、自然栽培の思想にも通じるような気がする。人間がやるべきことがあるとすれば、本当にその作物が死に直面しそうになった時に、その作物を何かしらの形で応援してあげることくらいではないか。

僕のような栽培初心者に迎えられたほうれん草の困難はいかばかりかと心配になるが、まあそれも神の采配と思ってあきらめていただくほかない。その困難を乗り越えて立派に育ったところを、僕がおいしくいただく。あざーす、である。

 

 

 

植物は動く。その動きがあまりに遅いために、僕たちはそれを「運動」として認識できない。その証拠に、植物の成長を録画したビデオを早送りすると、びっくりするくらいアグレッシブに動く植物の姿を見ることができる。僕は哲学、特に時間論を専門にしているのだが、これも時間の不思議、マジックである。人間の認識を可能にするのは「時間」だが、人間の認識を困難にするのもまた「時間」なのである。

さて、芽を出して双葉にまで成長したほうれん草だが、こいつがまあよく動くのである。もちろんニョキニョキと成長する姿を目の当たりにできるわけではない。そうではなく、光の当たる方に向く動きがとにかく速いのである。ウチはベランダがないので、屋内にずっとプランターを置いている。そうすると日が沈んだ後も、室内の照明がほうれん草を照らすわけである。

そこからのほうれん草の切り替えの速さはすごい。さっきまで窓の外を覗き込むようにしていた双葉は、小一時間もしないうちに、室内の照明の方に方向転換しているのである。「植物は動く」ということは知っているつもりだったが、この速さにはちょっと驚いた。だがこれは、小さく柔らかい双葉の頃だからこそなせるわざだろう。大きく成長してしまった後には、ここまでの機敏な動きは難しいはずである。逆に言えば、そこまでする必要がなくなる、ということなのかもしれないが。

この小さな双葉の機敏な動きを見ていると、小さな子どもが興味を持ったものにすぐ飛びつく姿が思い浮かぶ。そこに躊躇はない。「何これ?」「面白そう!」と思うやいなや、考える前にさわってみる。口に入れてみる。叩いてみる。壊してみる。そうしているうちにまた別の関心が生まれると、これまた躊躇なくそちらへ動く。そこに余計な計算も邪な心もない。まさに「無邪気」である。だからこの時の子どもの関心は、その子どもの魂の関心とほとんど重なりあっているのだろう。

ところが大人になるとそうはいかない。「何これ?」という関心の芽が生まれても、きちんと自分がいまやるべきことに意識を向けることができる。これは社会生活を営む上で欠かせないことだ。しかし一方で、せっかく生まれた関心は、いつの間にか消え失せてしまっていたりもする。小さな双葉のように、小さな子どものように、躊躇なくそちらへ向かう、というわけにはいかない。だがそうしているうちに、自分の魂が本当に興味を持っていること、好きなことが、わからなくなっていってしまう。

大人になってから人生に迷ったとき、必ずといっていいほど見聞きするのが「自分が本当に好きなことをやればいいよ」という言葉である。ところが、うまく社会に適応しようとするあまり、ずっと魂の関心を後回しにしてきた結果、「自分が本当に好きなこと」がわからなくなっている、ということが往々にしてある。その時に改めて「自分が本当に好きなことは何だろう?」と考えても、なかなか見つからない。というのも、「好き」というのは論理的に考えるものではなく、感じるものだからである。やってみて、「あ、これ好き」と思うのであって、やる前にはわからない。もちろんある程度当たりをつけることはできるし、生理的に「あれは好きじゃない」ということもある。でも実際にやってみたら「あれ、めっちゃ面白いやん」となることもあるし、実際に会ってみたら、「なんか嫌いと思ってたけど、実はめっちゃいい人やん」となることもある。でも大人になると、その「やってみる」というのを躊躇なくすることのハードルが非常に高くなる。

そんな時、「子どもの頃に好きだったこと」に立ち返ることが有効になってくる。子どもの頃は魂の関心に忠実なので、魂が興味を持ったことに躊躇なく飛び込んでいく。そのことによって、いろんな体験を積み重ねていく。だから、子どもの頃に好きだった事や物を思い出すことによって、自分の魂の関心に立ち返ることができるかもしれない、というわけである。

こうしたやり方が成立するのは、「魂の関心はずっと変わらない」ということが前提になっているからだろう。だから、子どもの頃に心から楽しいと思ったことは、大人になってもずっと楽しいはずだ、というわけである。もちろん、その関心の満たし方が変わっていくということはあるだろう。でも確かに、根源的なその人の関心というのはずっと変わらないような気もする。

その関心が、植物で言えば太陽であり、若葉はアグレッシブに太陽に向かって動くことができる。大きく成長してからも太陽に向かう性質は変わらないが、そのスピードはずいぶん遅くなる。それは葉や根が大きく育って、そこまで動く必要がなくなる、ということかもしれないし、「そんなに慌てなくても、また明日になれば太陽は照らしてくれるよ」ということを経験的に知るからなのかもしれない。それは植物に聞いてみなければわからない(笑)。ただ確かなのは、若葉の時の柔軟性は、成長とともに徐々に失われていくだろう、ということである。これは基本的に人間も同じだろう。

成長することは死に近づくことであり、死に近づくことは「やわらかさ」を失うことである。その過程は「強さの獲得」でもあるが、間違いなく死に向かう過程なのである。でもそのプロセスそのものが「生きること」そのものである。でもその変化のプロセスの中で、不思議なことに、根源的な魂の関心は変わらない。そしてその関心に最も忠実なのが子どもの心である。

人生に迷った時、偉人の言葉をひもとくのもひとつの方法だが、まだ何物でもなかった子どもの頃の自分の心をひもとくのも、ひとつの方法かもしれない。ただただ光に向かっていく若葉の頃の素直さ、やわらかさ、それこそがまさに生命力なのだろう。

 

さて、いよいよ種を蒔く。蒔き方はYouTubeや本で学んだ一般的っぽいやり方を踏襲する。まずプランターに鉢底石を敷き、その上に有機培養土を入れる。まずこの段階で土に水をたっぷりやっておく。割り箸で土に溝をつくり、そこへ種を蒔いていく。最後に土をかぶせて、もう一度水をやる。これでOK(のはず)。

やれやれと思って、一時停止中になっていた「ほうれん草の育て方」の動画をなんとなく再生した。おじさんがプランターに培養土を入れ、こう言った。「親しいお百姓さんに教えてもらったんですけど、土をしっかり上から押さえて固めておかないと、ちゃんと芽が出ないらしいんです」。そして土を上から押さえ、そこに種を蒔いていた。

「おいマジか」。僕はもう種を蒔いてしまった。「まあ、いっか」とそのまま適当にやり過ごせばよいものを、なんとなく「見てしまったものはしょうがない」と言わんばかりに、僕は種を蒔いた後の土を、上からギュッ、ギュッと押さえつけた。土が圧縮されて、ずいぶん嵩が減り、土が浅くなってしまった。とたんに僕は後悔した。野菜は深さがあった方がいいはずなのに……。今からまた土をかぶせたら、種の位置が深くなりすぎて、なおさら発芽が難しくなるだろう。でもやってしまったものはしょうがない。あとはほうれん草の生命力に掛けよう。がんばれ、ほうれん草。なるようになれ、だ。

これにて種蒔きは一応終了したが、手元には水に浸した種がまだまだ大量に余っていた。種は数年は保存できるらしいが、一度水に浸したものはそんなに持たないんじゃないか。そう思った僕は、さっきの失敗を挽回する意味でも、もうひとつプランターを用意することにした。さつまいもの栽培も見越した、かなり深さのあるプランターである。

一度目の種蒔きで精神力を使い果たしていた僕に、神経質なやり方はもう無理だった。土がちょっと足りなかったのでこれも追加で購入し、雑にプランターに放り込む。一応さっき学んだ土固めをして、水をやる。もはや溝をつくる気力もないので、ただただ適当に土の上へ種をバラまいた。その上に、さらに適当に土をかぶせる。失敗したら失敗したでかまわない。どうせ余った種の処分的なプランターなのだ。

ところがである。発芽率が圧倒的に良かったのは、なんと適当に蒔いた方のプランターだった。心の中で「どういうことやねん!」とツッコミを入れたことは言うまでもないが、まさかここまでの違いが出るとは……。やっぱり最初のプランターは、後から押さえてしまったのがいけなかったのか。それとも、種を蒔いた時の僕の精神状態が反映されたのだろうか。恐る恐る蒔いた種と、まあええわ〜と気楽に蒔いた種と。あと適当に蒔いた方の土は、別の種類の土を追加している。そのせいもあるのかもしれない。

いずれにせよ、僕としてはめっちゃ真面目にやり方を研究して蒔いた種より、めっちゃ適当に蒔いた種の方がたくさん発芽したという事実が衝撃的だった。でも、なんとなく分かるような気もした。僕が憧れているのは、あの有名な福岡正信のような自然栽培である。できるだけ人間は何もしない。自然の力に委ねる。今回の結果は、なんとなくその方向性が間違っていないことを暗示しているような気もした。

いや、もちろんこの後、成長過程で両者が逆転するかもしれない。発芽率が良くても、その後の成長がイマイチとか。それでも、まずは発芽しないことには始まらない。その意味では、やっぱり適当プランターの方がうまくいったということになる。そうだ、やっぱり適当でいいんだ。自分の人生を振り返っても、深刻になればなるほどうまくいかないことは明らかである。それよりも、何も考えずに「まあうまくいくっしょ」と気楽にやったことの方がうまくいく。その挙げ句に『考えない論』という本まで出版してしまったのだが(笑)。

「これからも適当に生きていこう!」

うまくいかなかったら、ぜんぶほうれん草のせいだ。

 

 

※白いプランターが真面目にやったほう。茶色いプランターが適当にやったほう。

さて、プランターと土とスコップとじょうろを購入したら、いよいよ種を蒔く。種はあらかじめ2日ほど水に浸しておいた。こうした方が発芽率が良いらしい。しかし調べてみると、いろんなやり方が紹介されている。「水に浸すのは1日だけ」とか、「2日浸して、その後は冷蔵庫でそのまま発芽させる」とか……。さらに、もともと発芽しやすい処理がなされた種もあるらしく、そういう種は水に浸す必要はないとか。

素人の僕にはどれが一番いいのか全く判断がつかない。こういう時は、得意のなりゆき戦法である。結局は2日間、種を水に浸したわけだが、それは狙ったというよりも、「水に浸してから2日後にプランターが揃った」というだけの話である。こんないいかげんなことで、この先大丈夫なのだろうか(笑)。

種を蒔く前に、YouTubeでほうれん草の育て方の動画をいろいろ見てみた。すると困ったことに、みんな全然違うことを言っているのである。もちろん多数派と少数派のやり方があるので、どれが王道でどれが異端なのかはだいたいわかる。だが、「本当に正しいやり方はどっちなのか?」というのはさっぱりわからない。

たとえば、種を埋める深さも人によって違うし、そのあと水をどれくらいやるのかも違う。ほとんどの動画では、ある程度芽が出てきたら間引きをしろと言うのだが、「間引きはするな!」という動画も出てくる。土をしっかり固めないとちゃんと育たないという人もいれば、土のやわらかさが大事だという考え方の人もいる。オー、マイ、ガー、である。

一体どれが正解なのか。たぶん、全部正解なのだと思う。野菜を育てるという行為の背景には、さまざまな条件、風土、思想、目的があって、それはその育てる人や場所によってさまざまなのである。だから、絶対的なひとつのやり方というのは存在しないのだろう。「1+1」の答えは誰が計算しても「2」になるが、「ほうれん草の育て方」の答えは育てる人によって違ってくる。当たり前のことだが、これはやってみないと案外気付かないものかもしれない。

ただし、「なぜそのやり方を採用しているのか」という解説を聞いてみると、どんどん植物や生物などの有機的な生態系の本質に迫っていく。そしてその本質にまで至れば、「実はみんな同じことを言っていた」ということに気付いたりする。同じ本質から多様な作法が生まれてくるというのは実におもしろい。まさに仏教でいう「一即多」の世界である。

それはともかく、じゃあ自分はどのやり方を採用するのか?もちろん全てのやり方を網羅することはできないので、たまたま見た動画や本のやり方に従っていくことになるだろう。ここはもうご縁にかけるしかない。そしてご縁というのは面白いもので、「誰と出会うか」というご縁だけでなく、「いつ出会うか」というご縁もある。そしてこのご縁こそ、正解・不正解を超越した世界である。僕は今回、この「いつ出会うか」のご縁でちょっと失敗してしまったような気がするのだが(笑)、それはまた次回に。

 

きのうから始まったプランター栽培日記。まあ農業の知識はほとんど皆無なので、農家の人が読んだらツッコミどころ満載すぎて、ヤバい内容になること請け合いである。でも、だからこそ、経験者にとっては当たり前のことに対して、「へー!」と驚き、発見する機会も多いはずである。そこを読者のみなさんと共有できればこれ幸いである。

さて、プランター栽培をするにあたって一番最初に購入したのは「タネ」である。じゃあ何のタネを買うか。つまり何を育てたいか。僕は実は、昔からさつまいもの栽培に憧れている。理由のひとつはもちろん、おいしいから。特に焼きいも。死ぬ前に、最高のサーロインステーキと、最高の焼きいも、どちらかを食べられるとしたら、僕は最高の焼きいもを選んでしまうかもしれない。いや、ここはもはや、味というより親しみの問題かもしれないが(笑)。

理由はそれだけではない。僕の中でさつまいもと言えば、戦時中の主食である。戦時中の庶民の生活を聞いてみると、しょっちゅうこのさつまいもが登場してくる。さつまいもそのものはもちろん、「蔓まで食べたんだよ」というような話をよく聞く。みんなが「大変だったんですね……」とその話を涙ながらに聞いている中、僕はひとり、「毎日さつまいもばっかり食べれられて、めっちゃええやん……!!」とうらやましがっていたものである。愚かな小学生時代の僕……と言いたいところだが、今もちょっとうらやましい。

それはさておき、最初はさつまいもを育てたいと思っていたのだが、どうも季節的に「今はさつまいもじゃない」らしい。野菜には植えるべき季節が決まっているそうだ。もちろん同じ野菜でも、種類によって植えてよい季節はさまざまらしい。あまのじゃくな僕も、あえてそこに逆らう気はない。今の季節に植えるべき野菜を育てようではないか。

時は9月下旬。本やネットで調査した結果、どうやら今育てるならほうれん草がよくて、しかも比較的カンタンみたいだ。僕は昔ほうれん草が苦手だったのだが、今はむしろ大好きである。好きになったターニングポイントはよく覚えていないのだが、もしかするとポパイの影響が大きいかもしれない。そう、ほうれん草を食べるとなぜかめちゃくちゃ強くなるあの人である。なぜほうれん草を食べると急激に体が大きくなり筋力もアップするのか全くわからないが、全国の子どもたちに「ほうれん草すげー」と思わせた恐るべきアニメであった。その後たしかファミコンのゲームにもなって、それもやった記憶がある。というわけで、さっそく「野口のタネ」のネット通販で「ノーベル法蓮草」というのを購入した。これは春と秋の年2回、種を蒔くことができるそうで、「めっちゃお得やん」という小市民的感性に従ってこれを選んだ。

あと揃えるべきは、プランターと土などの栽培用具。特にプランター選びには苦労した。本やネットで調べると、ある程度深さのあるプランターのほうが野菜はよく育つという。だから大きいに越したことはないのだろうが、なにぶん屋内では大きさが限られる。できれば小さめのプランターで育てられた方がベストだ。ホームセンターの従業員さんにも話を聞いてみたが、「浅いものでも、ほうれん草なら大丈夫ですよ」と言う人もいれば、「野菜は土が深い方が育ちやすいんですよ」という人もいる。「えー、どっちにすればいいねん……」とめちゃくちゃ迷ったのだが、そこでふと気付いた。「両方やったらええやん」。

僕の最初のイメージは、とりあえずひとつのプランターで小さく始めてみる、というものだった。だから、大きめのプランターにするか、小さめのプランターにするかの二者択一で悩んでいたのである。しかしよく考えてみたら、どちらか一つではなく「両方」という選択肢もあるのである。もちろんスペースは限られているが、2つくらいなら全然問題ない。しかも深めと浅めの2つのプランターで同時に育てれば、土の深さによる影響を実験することもできる。

この「両方ともやったらええやん」というのは、人生においてもけっこう使える考え方だと思う。僕らはどうも、イチローのように「ひとつの道を選択し、それを極める」という生き方に憧れる傾向がある。僕もそうだ。それはもしかすると学校の影響もあるかもしれない。算数のテストが象徴的だが、そこでの答えは基本的にひとつである。他は間違い。この思考パターンが、実際の人生においても採用されてしまっているのである。だから、複数の選択肢があった場合、「どれかひとつを選ばなければならない」と勝手に思い込んでしまう。でも、別に両方やったっていいのだ。そんなカンタンなことに、僕らは意外なほど気付くことができなかったりする。

前回も書いたが、僕は『かがり火』という地域づくり情報誌で、「そんな生き方あったんや!」という対談の連載をさせてもらっている。その中で、演芸家の江戸家小猫さんがまさにそういう話をしていたので、少し長くなるが引用してみたい。

人間ってよくできたもんで、迷うのはやっぱり、ちょっとやりたいとか、ちょっと可能性がある、明るい方向なんですよ。で、それを100%やるのが怖いんだとしたら、20%やればいいんですよね。世の中って、30%とか40%とか、それぐらいのほうがよいあんばいのことっていっぱいあるんですけど、何となく「100%できない限りやらない」っていうのがありますよね。むしろゼロじゃない限りやればいいんですよ、本当は。選択肢の中から選ぶにしても、AもBも明るいんだったら、両方とりあえず進んでいいんじゃないですか。で、進んだ先でまた選択していけばいい。そう考えると楽だと思うんですよね。
(『かがり火』「自分と向き合う時間を持つ」演芸家(動物ものまね芸)・江戸家小猫さん)


どちらかひとつを選べないんだったら、とりあえず両方やってみる。これは人生においても使える考え方だと思う。いずれはどちらかを選ばなければならないにしても、もし両方を試すことができるのなら、無理にいま選ぶ必要はない。というわけで僕は結局、小さめのプランター、ふつうのプランター、かなり深めのプランターの3種類を購入することになった。