杉原学の哲学ブログ「独唱しながら読書しろ!」 -37ページ目

いま「梅の木十条店」で開催されている

ギャラリー展示、「幻の台湾珈琲を求めて」

(photographer Yasuhiro Iguchi)。

 

6月21日(水)が最終日だそうです。

 

期間中は「幻の台湾珈琲」の試飲、

ドリップパックの販売(1個100円)

などもあります(なくなり次第終了)。

 

Yasuhiro Iguchi氏による

台湾の珈琲農園の写真はもちろん、

試飲できるオーガニック台湾珈琲は

ほとんど市場に出回ることのないもの。

 

珈琲通の方はもちろん、

話のネタに飲んでみるのもオススメ。

 

僕も終了間近ということで、

また足を運んでみようと思います。

 

 

 

 

 

 

 

 

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6月30日から7月1日、

富士山の山開きに合わせて、

十条では「お冨士さん」(十条冨士神社大祭)

と呼ばれるお祭りが開かれる。

 

ここ十条では、

「いよいよ夏がやってきたね」という言葉は、

「もうすぐお冨士さんだねえ」に言い換えられる(笑)。

 

江戸時代から

富士講や地域の人々に守られてきた、

十条富士塚と「お冨士さん」。

 

ぜひ一度参ってみてはいかがでしょうか。

 

10秒ほどで富士塚を登れば、

富士山に登ったのと同じご利益が得られます♪

 

ありがたいですね。

 

 

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6月15日、ヤギサワバルの

「バルとお話の日」では、

「まちライブラリー」の提唱者である

磯井さんがお話してくれた。

 

「まちライブラリー」は、

本を通して人と人とがつながる仕組み。

 

これがいま全国的な広がりを見せている。

 

そして西武柳沢の商店街でも、

この取り組みが始まろうとしている。

 

まずはこのヤギサワバルと、

駄菓子屋のヤギサワベースからスタート。

 

ちょっと最近の西武柳沢は

盛り上がり方がとんでもないです(笑)。

 

 

 

 

 

 

 

 

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神や仏、天国や地獄は、

あの世のものとして語られることが多い。

 

だが、わざわざ「あの世」に行かずとも、

そのどれもがすでに「この世」に

存在していると思わずにはいられない。

 

たとえば、

人生の大きな岐路において、

決定的な助言をしてくれる人が

現われたりすることがある。

 

それを人は「神の導き」と言ったり、

「仏のご縁」だと言ったりするが、

助言をしてくれた人そのものが

神であり、仏であったのかもしれない。

 

もちろんそれらは結局、

同じことを言っているにすぎないのだが。

 

かけがえのないご縁と共にある世界を

「天国」と言ってさしつかえないだろうし、

そのご縁をないがしろにしたところに

「地獄」もまた生まれてくる。

 

ならばそれらはすべからく

「この世」に存在しているのでは

ないだろうか。

 

こんなことを書くと

何かしら信仰を持っているように

思われるかもしれませんが、

そういうのは特にございません(笑)。

 

しかしなぜか小学生の時から

「仏」という漢字が大好きで、

この漢字だけは、

フリーハンドでレタリングできます。

 

……どうでもいいですね(笑)。

 

 

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住めば都。

 

「どんな所でも住み慣れれば

 そこが最も住みよく思われるものだ」

 

という意味だという(大辞林)。

 

ところで最近、仏教について

聞いたり話したりする機会が多い。

 

そんな中でこの

「住めば都」という言葉を聞いたとき、

別の意味が浮かび上がってきた。

 

それは、「澄めば都」である。

 

別に「空気がキレイな場所がいい」

とかそういうわけではなく、

心のありようのことを

言っているのである。

 

その場所のことを

「好き」とか「嫌い」とかいうのは

その人の煩悩の働きである。

 

そういう価値判断さえ超越した

「澄んだ心」を持った人にとっては、

どこでもが「都」たりえる、

というわけである。

 

そういう人にとっては、

すでに現世が「浄土」であり、

これが本当の「即身成仏」というものだろう。

 

もちろんそんな境地に至るのは

並大抵のことではない。

 

だが逆に考えれば、

「どこで暮らしても機嫌よくやっていける」

という、一見お気楽な、自在な精神には、

実は悟りに通じるものがあるのかもしれない。

 

 

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「ほぼ日」が、

「いい人、もっと募集。」

というタイトルで社員を募集している。

 

このタイトルを読んで、

ふいに「日本語ってむずかしいなあ」

と思った。

 

いや、このタイトルが

おかしいということではなく、

「ちょっと違ったら大変なことになるな」

と思っただけのことである。

 

この「いい人、もっと募集。」の

言葉の並びが少し変わって、

たとえば「もっといい人、募集」になると、

全く違う意味になってしまう。

 

「いい人、もっと募集。」の場合は、

「今の社員もいい人で、そんな人を増やしたい」

ということになるが、

「もっといい人、募集。」の場合は、

「今の社員もいい人だけど、それ以上の人が欲しい」

ということになる。

 

後者の言葉では、

今いる社員がちょっと

イヤな気分になるだろう。

 

だから何だという話だが、

要するに少しの言葉の並びの違いで、

ずいぶんニュアンスが違ってしまう。

 

SNSなどですぐに拡散され、

しかもずいぶん非寛容に見える今の世の中。

 

こういうちょっとした言葉づかいにも

気をつけないといけないのかもしれない。

 

今日はいつにもまして

どうでもいいことを書いてしまいました(笑)。

 

 

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剣道が単なるスポーツではなく、

仏教思想や一人ひとりの生き方そのものと

深く関わっていることを教えてくれる。

 

特に強調されるのが

「自我を捨てること」の大切さ。

 

仏教ではよく言われることだが、

剣道においても重要だという。

 

「自分のことはさておいて、

 相手のことだけを考えてみたらどうか」(15頁)

 

これなどは剣道というよりも、

僕たちの日常生活について語っているようでもある。

 

仕合で相手に打ち込むにしても、

自分勝手に打ち込むのではない。

 

相手のことをしっかりと把握し、

そのうえで、

「『すきがありました。ここです』

 と、ポンと打っていく」。

 

「打とう、打たれまいとすれば、

 相手はそれに応じた動きをする。

 つまり自分の心が相手の心に映っているのだ」

 

こう見てくると、

剣道の本質においては、

勝ち負けは二の次であることがわかる。

 

それが剣道の「術」ではなく

「道」である所以だろう。

 

 

 

 

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僕の友人である大谷剛志氏が

オーナーをつとめるヤギサワバルが、

フリーペーパー『tanappo西東京』の

表紙に登場してますー!

 

 

 

 

 

 

ヤギサワバルの表紙を

ヤギサワバルで撮影してみました(笑)。

 

これからいよいよビールの季節!

 

極上のクラフトビールが

リーズナブルに飲めるヤギサワバル。

 

とっても気軽に入れるお店ですので、

お近くの方はぜひ足を運んでみてくださいませ♪

 

 

 

 

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とっても面白い。

 

訳者による説明を引用すれば、

 

「過去から現在までの著名な

 作家、芸術家、音楽家、思想家、学者など

 一六一人をとりあげて、

 それぞれ仕事、食事、睡眠、趣味、人づきあいなどに

 どう時間を割り振っていたかを紹介したのが本書」

 

ということになる。

 

特に自由業の人々にとっては

興味深い読み物としてだけでなく、

すぐに役立つ実用書にもなるだろう。

 

なのでオススメの読み方としては、

手の届くところに紙とペンを用意し、

「天才たちの日課」を読みながら、

自分の日課を考えるのが面白いと思う。

 

そして自分もその「天才たち」の

一人になったつもりで読むのである(笑)。

 

彼らの日課はまさに百人百様なので、

自分に合いそうなタイプをピックアップして、

それをベースに「自分の日課」に

アレンジしてみるのもいいだろう。

 

しかしこれを読んで思ったのは、

「みんな思ったほど

 長い時間仕事をしているわけではない」

ということだ。

 

いや、そう書くとちょっと

語弊があるかもしれない。

 

僕らのような凡人からすると、

「偉大な成果を残した偉人たちは、

 さぞ仕事漬けの1日を送っていたのだろう」

と思いがちである。

 

ところが彼らの日課を見てみると、

「1日中仕事をしている」

というケースはほとんどないのである。

 

むしろ1日の中にしっかりと

自分の「お楽しみタイム」のようなものを

確保している場合が多いように見える。

 

そうすることによって、

彼らは仕事を「やり続ける」

ことができたのかもしれない。

 

面白い点を挙げるとキリがないのだが、

この本の醍醐味をひとつ挙げるとすれは、

「著名な天才」の一般的なイメージと、

実際の生活のギャップだろう。

 

例えばあの天才作曲家・シューベルトについて、

彼の友人の一人はこう語っているという。

 

「彼は作曲においては

 並はずれて勤勉で創造性にあふれていたが、

 それ以外の仕事と名のつくものに関しては、

 まったくの役立たずだった」

 

そのせいかシューベルトは

ピアノの個人教授のような仕事を避けていて、

「しょっちゅう友人に経済的な援助を

 頼まなければならなかった」そうだ。

 

あの音楽室に飾られている大作曲家が、

急激に身近に感じられるではないか(笑)。

 

そしてこの本を読んで

かなりイメージが変わった人に、デカルトがいる。

 

デカルトと言えば「近代思想の父」であり、

あらゆるものを「分けて考える」という

科学的発想の原点のような人である。

 

彼が偉大な大哲学者であることは疑う余地がないが、

実際には世の中のものごとはあまねくつながっていて、

それを分けるのは「人間のアタマの中」にすぎない。

 

それを現実社会に反映させようとした「負の結果」が、

世界規模に及ぶ環境破壊などの形をとって、

いまや人間社会を破滅に追い込もうとしている。

 

その意味で僕はデカルトに

いい印象を持っていなかったのだが、

この本を読んで、

彼のことがちょっと好きになった。

 

まず、「デカルトは朝が遅かった」らしく、

「午前の半ばまで寝て、目が覚めてからも

 ベッドのなかで考えたり、書いたりして、

 十一時かそこらまでぐずぐずしていた」という。

 

なんというだらしなさだ!(笑)

 

しかも彼はそのだらしなさを

肯定的に捉えていたようなのだ。

 

本書にはこう書かれている。

 

「デカルトは、優れた頭脳労働をするには、

 怠惰な時間が不可欠だと信じていて、

 ぜったいに働きすぎないように気をつけていた」

 

もうこの時点で、

デカルトは僕の「友達」になっていた。

 

ところがである。

 

そんな生活をしていた彼は、

スウェーデン女王の家庭教師として

宮廷に招聘されてしまう。

 

本書では、

「デカルトがなぜその招きを

 受け入れたのかは明らかではない」

とされているが、

「いずれにせよ、その決断は悲劇をもたらした」

のであった。

 

あの「ぐうたらデカルト」が、

「女王への講義を午前五時から行うように」

と命じられてしまうのである。

 

「その早い時間と厳しい寒さは

 彼にとって過酷だった」。

 

そうして、

「ほんの一ヵ月で病に倒れ……

 そのまま十日後に息を引き取る」。

 

ぐうたら生活を取り上げられ、

早起きを強制されたことによって、

あっという間に死んでしまうなんて……。

 

ぐうたら仲間の僕としては

親近感を覚えずにはいられない。

 

「ぐうたら」から「ぐうたら」を

取り上げると死んでしまうのだ。

 

とはいえ、

本書に登場する多くの天才たちは、

自身の「ぐうたら」をも折り込みつつ、

「決まった時間に必ず仕事をする」

ことを課している人が大多数である。

 

あとは、その仕事の種類によって、

仕事のやり方の傾向はかなり違う気がする。

 

「画家」と「作家」では、

1回に続けられる仕事時間は

かなり違う気がするし、

本書を読む限りでもその傾向が見てとれる。

 

これから本書を読む人は、

そうした「職種の違い」も意識すると

より得られるものが多いのではないだろうか。

 

最後に、僕の友人である浅井公平さんが、

まさにこの本に通じることをブログに書いているので、

そちらもぜひ読んでみていただきたい。

 

デカルトが考えていたように、

働きすぎるのはやっぱりよくないようだ。

 

■頑張りすぎてしまう人へ、参考になれば嬉しいこと。

 

 

メイソン・カリー著、金原瑞人/石田文子訳

『天才たちの日課 クリエイティブな人々の必ずしもクリエイティブでない日々』フィルムアート社、2014年。

 

 

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