杉原学の哲学ブログ「独唱しながら読書しろ!」 -19ページ目

文章を手書きで書いていると、

ときどき脳内で勝手に省略して、

新しい漢字を生み出してしまうことがある。

 

たとえば「持参」と「昨年」を省略すると、

こんな感じ(漢字?)である。

 

 

 

 

これ、正式にご採用いただけませんでしょうか(笑)。

 

いや、もしかしてすでに

こういう漢字があったりするのだろうか。

 

いずれにせよ、

個人的なメモなどに使うぶんには全く問題ないだろう。

 

もちろん、みなさんもご自由にお使いください。

デートやレジャーの定番スポット「水族館」。

 

しかしよくよく見てみると、

この「水族館」という名前は、

ちょっと不思議だ。

 

「動物園」は、「動物のいる園」。

「美術館」は、「美術(作品)のある館」。

 

では「水族館」はどうか。

 

「水族のいる館」である。

 

……水族って何?

 

辞書によれば「水族」とは、

「水中にすむ動物。水生動物。」

とのこと(三省堂『大辞林』より)。

 

……まあそうかもしれんけど、

なんとなく納得がいかない。

 

だって僕らはふだん

「水族」なんて言葉を使わないではないか。

 

正直なところ、

そんな言葉があることすら知らなかった。

 

水族があるなら、

火族とか土族とか金族とか木族とかもありそうだが、

そういうのはどうもないらしい。

 

裸族はあるのに。

 

いずれにせよ、

これから「水族館」に行く時は、

「自分はこれから〝水族〟を見に行くのだ」

ということを強く意識した方がいい。

 

なんとなく僕らは

「魚」を見に行く気分でいたが、

それなら「魚類館」でよかったはずだ。

 

でも「魚類だけじゃない」というところに、

「水族館」のネーミングの

深い意図があるのではないか。

 

若いカップルが二人で「水族」を見に行く。

 

なんとなくシュールな感じを受けるのは

僕だけだろうか。

ホテル京阪が、

京都八条口・銀座グランデの開業を記念して、

キャンペーンを行なっているそうです。

 

それがコチラ!

 

「サラリーマン金太郎 カルタ大喜利グランプリ」!!

https://hotelkeihan-cam.jp/campaign/

 

なんだか僕の知り合いが

このキャンペーンに関わっているそうなので、

このブログで紹介させていただきます。

 

サイトを覗いていただければわかりますが、

いい意味で実にくだらないキャンペーンです(笑)。

 

それでもグランプリは

10万円の旅行券が当たるそうなので、

是非応募してみてはいかがでしょうか。

 

僕も応募したので、

まあ10万円の旅行券は

僕のものになると思いますが。

 

 

雑誌『かがり火』で連載させていただいている

対談記事「そんな生き方あったんや!」。

 

その第7回に登場していただいた

絵はんこ作家のあまのさくやさんが、

ご自身のホームページで

対談記事を紹介してくださいました!

 

■さくはんじょ

【対談記事】「かがり火」インタビューしていただきました。

 

あまのさん、ありがとうございます!!

 

実は今日も、

十条で開催されていた

「にじいろ市」に出店されると聞き、

お会いしてきたところでした。

 

もう会うたびに、商品も活躍のスケールも

どんどんすごくなっていってる気がします。

 

めっちゃかわいい来年のカレンダーもオススメですよー!

サイトから購入できますので、ぜひのぞいてみてくださいね。

 

 

 

ぼんやり街を歩いていると、

電気工事のおっちゃんっぽい人が、

険しい顔をしながら携帯電話で話している。

 

「ドラえもんの2巻、

 そっちに置いてるはずやねんけど……」

 

ドラえもんの2巻?

 

それがそんなにいま重要なのか。

1巻を読み終えたところなのか。

誰かへのプレゼントなのか。

それなら1巻も一緒にプレゼントしてはどうか……。

 

いろんなことを考えながら、

そのおっちゃんの前を通りすぎた。

 

すると背後から

そのおっちゃんの声がまた聞こえてきた。

 

「そう、ドライバーとニッパー!」

 

え?

 

実は「ドラえもんの2巻」ではなく、

「ドライバーとニッパー」だったらしい。

 

全く、ややこしいったらありゃしない。

 

あなたなら、

「ドラえもんの2巻」と、

「ドライバーとニッパー」と、

どっちが欲しいですか?

 

僕は、どっちも間に合ってます。

 

 

 

 

ドラえもん (2) (てんとう虫コミックス)

 

trad 精密ドライバー&ニッパーセット TSN-26 820383

「東京国際映画祭」

「オランダ・シネマジア映画祭」

「タイ・バンコクASEAN映画祭」

など、数々の映画祭で受賞を重ねる映画「僕の帰る場所」

 

「ある在日ミャンマー人家族に起きた、

 切なくも心温まる感動の実話」

(公式サイトより)

と紹介されている本作。

 

そこに展開されているのは

「祈り」の世界であった。

 

この映画を観て、

不思議な感覚を持った人は

多いのではないだろうか。

 

劇中では、あるミャンマー人家族が、

日本で苦境に陥っている姿が描かれる。

 

慣れない日本での生活。

しかも難民申請が受け入れられず、

未来の展望が全く見えない中で、

彼らのストレスはピークに達する。

それは夫婦と家族の関係にも影響を与える。

 

それを観客は、

おそらくいくらかの

憐憫の情とともに見守っている。

 

ところがいつのまにか、

その彼らの姿の中に、

「幸せな家族の姿」

を見ている自分がいる。

 

客観的に見れば、

明らかに彼らは難しい状況に直面し、

実際に悩み、苦しんでいる。

 

にもかかわらず、

なぜ僕らはそこに

「幸せな家族の姿」

を見てしまうのだろうか。

 

それは、そこに「祈り」があるからである。

 

哲学者の内山節氏は、

家族を家族たらしめているのは
お互いのことを思う「祈り」である、と言った。

 

たとえ血がつながっていたとしても、

そこに互いの幸せを願う「祈り」がなければ、

それは実に家族らしくない家族に見えるだろう。

 

逆に血はつながっていなかったとしても、

そこに互いを思う「願い」や「祈り」があれば、

それはひとつの家族のようなものかもしれない。

 

信仰とか宗教と呼ばれるものは、

元来、共同体の無事を祈るものだった。

 

それが、個人を主体とする近代という時代になり、

祈りもまた「個人のための祈り」になっていった。

 

「自分だけのために」

何かを祈るようになったとき、

人間は大切な何かを失ったのではないだろうか。

 

だがもちろん、

現代においても他者や共同体のための祈りが

全く失われたわけではない。

 

そしてこの映画には、

家族の無事への「祈り」が満ちている。

そこに私たちは「幸せな家族の姿」を見る。

 

自分のためにしか祈れない不幸というものがあり、

それはこれまでの日本に蔓延してきた病かもしれない。

 

しかし、私たちはその不幸に気づいているし、

誰かのために祈れることの幸せを知っている。

 

この映画を見て心が震えるとしたら、

きっとそのような「祈り」のかけがえのなさを、

確かに感じることができるからかもしれない。

 

ちなみに東京では、

11月30日までポレポレ東中野で上映されていたが、

12月1日から渋谷・アップリンクに劇場を移し、
2週間上映されることになったとのこと。

 

「自分の帰る場所」に思いを馳せずにはいられない、

静かでやさしい温かさを持つ映画である。

 

 

(「僕の帰る場所」公式サイトより)

『考えない論』増補版が電子書籍で出版されました!

 

 

「第1回 復刻本コンテスト」大賞受賞を経て、

今回は幻冬舎メディアコンサルティングさんからの出版です。

 

「無意識という名の映画監督」

「いまのための意味スパイラル」

「奇跡の仕組みと量子論」

 

の3話を追加収録。

よかったら読んでやってくださいませ〜!

 

原稿追加の労をとっていただいた

担当編集の渡邊さんに改めて感謝申し上げます。

 

ちなみに、最初の紙の本を編集してくださったのは、

現在Clover出版で取締役&編集者として活躍されている小田さん。
 

僕も今になって、

出版社が無名の著者の本を出すことがいかに大変か

少しはわかるようになりましたが、

それを続けながらヒットを飛ばしまくっている小田さんの仕事は、

もはや凄まじいとしか言いようがありません。

 

そんな小田さんにも今回の復刊を喜んでもらえて、

少しは恩返しできたかなという気がしています。

 

あと、今回の電子書籍の出版のせいか、

紙版の『考えない論』の価格が5000円以上に暴騰してまして、

自分で自分の本が買えない状態になってます(笑)。

 

 

いつか増補版の方も紙の本になって、

普通の値段で購入できるようになればいいなあ……と

ひそかに願っております。

 

「理由がない」ということほど強いものはない。

 

「なんか知らんけど好き」

「よくわからんけどやめられない」

「どうしてもそっちへ行ってしまう」

 

いい悪いは置いといて、

そういう理由なき衝動というものがある。

 

理由があって好きなことは、

その理由がなくなったら

好きじゃなくなるかもしれないけど、

理由がなくて好きな場合は、

好きな理由がなくなることもない。

 

でも現実問題として、

それをやりたいわけじゃないけど、

 

「これをした方がいい」

「こっちに行った方が得だ」

「こっちに行かなければならない」

 

という場合だってある。

 

でも、「本当はやりたくない」。

 

その挙げ句に、

「それをやりたい理由」を無理やり探したり、

強引に作り上げたりしようとすると、

なんだかおかしなことになる。

 

なぜなら、

「やりたい理由を探す」

という行為の中に、

「やりたくない」

という答えがすでに含まれているのだから。

 

だからそういう時は、

「いま自分はそれをやりたいわけじゃない」

ということをはっきりさせた上で、

「しかし訳あってそれをやるのである」

ということを明らかにしておいた方がよい。

 

そうしないと、

自分が本当にやりたいことが、

いつのまにかわからなくなってしまうからだ。

過ぎ去った時間は二度と戻らない。

 

これを時間の「不可逆性」と言ったり

「非可逆性」と言ったりする。

 

なぜ時間は逆には進まないのか。

 

これを説明する時によく登場するのが、

「熱力学第二法則」というやつである。

 

ちなみに「熱力学第一法則」は、

「エネルギー保存の法則」のこと。

 

「熱力学第二法則」は、もう少しややこしい。

「エントロピー増大の法則」とも言われる。

 

たとえば、僕らが生活をしていると、

特に片付けたり掃除したりしない限り、

部屋はいつの間にか散らかっていくだろう。

 

何もしていないのに、

「最初の完璧に整理された状態に戻っている!」

ということは起こりえないわけである。

 

ここでの「散らかっていく」ことを、

「エントロピーの増大」と表現するわけである。

 

別の例で言えば、

お湯を沸かして湯気(気体)になったものが、

また集まって全く元通りの水に戻ることはない。

 

これもまた「エントロピーの増大」であり、

「不可逆」な過程だとされている。

 

要するに「覆水盆に返らず」というわけである。

 

「タイムマシンは実現できる!」

ということは今でも言われているけれど、

それはおそらく「未来へのタイムトラベル」に限るのであって、

「過去へのタイムトラベル」はちょっと難しそうだ。

 

しかし、

平野啓一郎の小説『マチネの終わりに』の主人公は、

「未来は常に過去を変えてる」と言うのである。

 

それはつまり、その人にとっての

「過去の意味」を変えることができる、

ということだろう。

 

「それじゃあ実際には過去は変わっていない」

と言う人もいるかもしれないけれど、

果たしてそうだろうか。

 

そもそも「過去」は存在するのだろうか。

存在するとしたら、どこに存在するのだろうか。

それは「現在」に、である。

 

過去は現在にしか存在しない。

 

もう少し正確に言えば、

現在から見た過去しか存在しない。

 

いや、それも少し違うかもしれない。

 

「過去」とは、

「私」と「出来事」との関係として

常に創造され続けるものである。

 

過去には戻れない。

 

でもその過去は「いまここ」にあって、

「新しい過去」を創造することはできる。

 

それは同時に「現在」と「未来」を

創造することでもある。

 

【参考】

久保亮五「時の非可逆性」村上陽一郎編『時間と人間』東京大学出版会、1981年。

 

僕の友人であるお坊さんが、

「お寺の跡取り息子の宗教観」というテーマで

お話する会があるというので、参加してきた。

 

ひとりの僧侶が葛藤を乗り越え、

「宗教性」の目醒めとともに自己を諒解する過程を、

自らの体験とともにお話ししてくださった。

 

ちなみに参加者には

僕の知り合いもおられたが、

半分くらいは初対面の方々だった。

 

その議論の中で、

「仏教とキリスト教の違い」

がひとつのテーマになった。

 

ちょうど僕の左右に

クリスチャンの男性がおられて、

じゃあちょっとお話いただきましょうか、

ということになった。

 

二人は僕よりかなり年配の人格者なので、

お互いに、

 

「どうぞどうぞ」

「いえいえ、そちらがどうぞ」

「そんな、どうぞどうぞ」

「どうぞどうぞ」

 

とやっている。

 

真ん中に座っていた僕はつい、

 

「これはフリかな?」

 

と思って、

 

「では、私が!」

 

とドヤ顔で手を挙げた。

 

僕の脳内では、

ダチョウ倶楽部的なコントが展開されていたのだが、

それは本当に僕の脳内だけで展開されていた。

 

みんな若干引いた様子でこちらを見て、

 

「え、杉原さんお詳しいんですか。

 それでは、お願いしましょうか……」

 

みたいな展開になってしまった。

 

僕はすぐに「やってしまった」ことを悟り、

「いや、すみません、冗談です……どうぞ」

と小さくなるほかなかった。

 

客観的に見たら、

僕はクリスチャンである年配者二人を差し置いて、

「いやいや、俺にまかせろって」

と言わんばかりにキリスト教を語ろうとする、

失礼で傲慢な中年男性でしかない。

 

思えば大阪から東京に出てきて、

同じ失敗を何度くり返してきただろうか。

 

でも逆に問いたいが、

あの状況で何もしないということが、

人間として果たして可能だっただろうか。

 

「はい、ボケてね」

という「フリ」が来た時に、

それを無視してスルーすることは、

その「フリ」をした人間を

見殺しにすることにほかならない。

 

そんな残酷なことができるだろうか。

 

それに応えることは、

人間としての「義務の領域」

ではないだろうか。

 

しかし東京では、

その「義務」を果たそうとして、

自らが「残酷な結果」を迎えることが

けっこうよくある。

 

僕が、

「すみません、冗談です……」

となっている時に、

向かいに座っていた友人だけが、

ニヤニヤしながらこっちを見ていたのを、

苦々しく思い出しながらこれを書いている。