「東京国際映画祭」
「オランダ・シネマジア映画祭」
「タイ・バンコクASEAN映画祭」
など、数々の映画祭で受賞を重ねる映画「僕の帰る場所」。
「ある在日ミャンマー人家族に起きた、
切なくも心温まる感動の実話」
(公式サイトより)
と紹介されている本作。
そこに展開されているのは
「祈り」の世界であった。
この映画を観て、
不思議な感覚を持った人は
多いのではないだろうか。
劇中では、あるミャンマー人家族が、
日本で苦境に陥っている姿が描かれる。
慣れない日本での生活。
しかも難民申請が受け入れられず、
未来の展望が全く見えない中で、
彼らのストレスはピークに達する。
それは夫婦と家族の関係にも影響を与える。
それを観客は、
おそらくいくらかの
憐憫の情とともに見守っている。
ところがいつのまにか、
その彼らの姿の中に、
「幸せな家族の姿」
を見ている自分がいる。
客観的に見れば、
明らかに彼らは難しい状況に直面し、
実際に悩み、苦しんでいる。
にもかかわらず、
なぜ僕らはそこに
「幸せな家族の姿」
を見てしまうのだろうか。
それは、そこに「祈り」があるからである。
哲学者の内山節氏は、
家族を家族たらしめているのは
お互いのことを思う「祈り」である、と言った。
たとえ血がつながっていたとしても、
そこに互いの幸せを願う「祈り」がなければ、
それは実に家族らしくない家族に見えるだろう。
逆に血はつながっていなかったとしても、
そこに互いを思う「願い」や「祈り」があれば、
それはひとつの家族のようなものかもしれない。
信仰とか宗教と呼ばれるものは、
元来、共同体の無事を祈るものだった。
それが、個人を主体とする近代という時代になり、
祈りもまた「個人のための祈り」になっていった。
「自分だけのために」
何かを祈るようになったとき、
人間は大切な何かを失ったのではないだろうか。
だがもちろん、
現代においても他者や共同体のための祈りが
全く失われたわけではない。
そしてこの映画には、
家族の無事への「祈り」が満ちている。
そこに私たちは「幸せな家族の姿」を見る。
自分のためにしか祈れない不幸というものがあり、
それはこれまでの日本に蔓延してきた病かもしれない。
しかし、私たちはその不幸に気づいているし、
誰かのために祈れることの幸せを知っている。
この映画を見て心が震えるとしたら、
きっとそのような「祈り」のかけがえのなさを、
確かに感じることができるからかもしれない。
ちなみに東京では、
11月30日までポレポレ東中野で上映されていたが、
12月1日から渋谷・アップリンクに劇場を移し、
2週間上映されることになったとのこと。
「自分の帰る場所」に思いを馳せずにはいられない、
静かでやさしい温かさを持つ映画である。
(「僕の帰る場所」公式サイトより)